第9章:未来からの死刑宣告
芝浦の海風が血と焦げた肉の臭いを洗い流す頃、三人はとうにその場から姿を消していた。
カジが新たな潜伏先として選んだのは、特務機関『N』のデータベースにも存在しない、完全なブラインド・スポットだった。地下鉄大江戸線の廃線区画のさらに奥、かつて防空壕として掘られ、そのまま見捨てられた巨大な地下空洞。カビとコンクリートの冷たい匂いが立ち込めるその空間は、外界のあらゆる電波と追跡を物理的に遮断する、完璧な「安全地帯」だった。
持ち込んだポータブル発電機が低い唸りを上げ、天井から吊るされた裸電球が、琥珀色の頼りない光を落としている。
その光の下、簡易ベッドに横たわるシエの姿があった。
「……少し、沁みますよ」
カジは、血に濡れた自らの手をアルコールで丁寧に消毒すると、シエのズタズタに引き裂かれた漆黒のボディスーツを、医療用ハサミで慎重に切り開いていった。
現れた白い肌には、重力破砕の余波による痛々しい紫色の打撲痕と、位相分断糸が掠めた無数の裂傷が走っていた。強化骨格が直撃を防いだとはいえ、生身のダメージは限界に近い。
カジは、非常用の医療キットを展開した。ナノマシンを含有した医療用バイオジェルを傷口に塗布し、細胞の結合を強制的に促進させる。さらに、鎮痛剤と抗生剤の混合液を静脈にゆっくりと打ち込んでいく。
「……ん……」
薬が効き始めたのか、シエの苦痛に歪んでいた眉根が微かに緩み、彼女は小さく寝返りを打った。
手慣れた、無駄のない処置。エージェントとしてのカジの技術は完璧だった。だが、その完璧な手つきとは裏腹に、彼の内側は、今にも壊れそうなほどの恐怖と愛おしさで満ちていた。
この細い体で、彼女はあの圧倒的な破壊のうねりから自分を庇ったのだ。もし、彼女を失っていたら。そう想像するだけで、カジの肺から酸素が奪われ、窒息しそうになる。
「……ゆっくり休んでください、シエ。もう、絶対に離さないから」
カジは、バイオジェルで塞がった彼女の傷跡にそっと唇を落とし、毛布を首元まで掛けた。
シエの呼吸が深く規則的なものへと変わるのを見届け、カジは血に染まった手を洗い、重い足取りで隣の区画へと向かった。
***
コンクリートの壁を隔てた隣の空間では、サトルがパイプ椅子に深く腰掛け、両手を組んで俯いていた。その足元には、奪還したジュラルミンケースと金型が転がっている。
そして、部屋の隅の毛布に包まり、ガタガタと震えている若い男――サトルの弟の姿があった。
「……落ち着いたか」
カジが、携帯用のコンロで沸かした安物のインスタントコーヒーを二つの紙コップに注ぎ、一つをサトルに、もう一つを弟の前に置いた。
「……あ、ああ。すまない」
弟は、怯えた子犬のような目でカジを見上げ、震える両手で紙コップを受け取った。
彼は、自分がなぜ拉致され、なぜあのような怪物じみた連中に殺されかけたのか、まったく理解していない。ただ、兄であるサトルと、血まみれの若いエージェントが自分を救い出したという事実だけが、かろうじて彼を狂気から繋ぎ止めていた。
「サトル。こいつから、何か聞き出せたか?」
カジがサトルの対面に座り、コーヒーを啜りながら問う。
「……少しな」
サトルは顔を上げず、組んだ両手――特に、指の欠損した左手をじっと見つめたまま答えた。「弟のやつ、自分がどこに監禁されていたのかもわかってねえ。ただ……絶望的なことを言っていた」
サトルの視線を受け、弟は毛布をきつく握りしめながら、ポツリポツリと語り始めた。
「……俺、たまたまのタイミングで武器密売の組織から『金型』を盗み出して、兄貴のアパートへ送った後、これまで見たこともない変な連中に目をつけられたんだ。黒い服を着て、言葉の訛りもおかしくて……人間じゃないみたいに冷たい目をした連中だった。気づいたら、真っ白な部屋に閉じ込められてて……」
「真っ白な部屋?」
「ああ。窓一つない、無菌室みたいな場所だった。そこで、俺の頭にコードみたいなものを繋がれて……ずっと、兄貴の記憶を探られてた。連中は、兄貴が『バニラの女』と接触したかどうか、そればかりを気にしていた」
弟の言葉に、カジとサトルの間にピンと張り詰めた緊張が走った。
「……連中は、あやさんのことをなんて呼んでいた?」
サトルが、地を這うような低い声で問う。
「『V・カタリスト』……いや、『消費型触媒』って言ってた。俺、連中がガラス越しの向こうで話してるのを、何度か聞いたんだ。……あいつら、こう言ってた。『触媒の揮発限界が近い』『タイムラインの修正が完了次第、空になった器は廃棄(消去)する』って……」
「廃棄……だと?」
サトルの左手が、ビクンと痙攣した。ないはずの指が、見えない首を絞め上げるように虚空を掻く。
「俺には何の事かわからねえよ! ただ、連中にとってあの女は人間じゃなくて、ただの電池か薬みたいな扱いだった。……兄貴、頼む。俺をもう関わらせないでくれ。あいつら、普通じゃないんだ!」
パニックを起こしかけた弟の首筋に、カジが容赦なく睡眠導入剤のパッチを貼り付けた。
「……う、あ……」
数秒後、弟は糸が切れたように意識を失い、毛布の上に倒れ込んだ。
「手荒な真似をしてすみません。ですが、これ以上彼に喋らせても、精神が崩壊するだけだ。彼はこの『幻世』の住人として、ここで眠っていてもらった方がいい」
カジの言葉に、サトルは無言で頷いた。
地下空洞に、再び重苦しい静寂が落ちる。
「……サトル」
カジが、静寂を破った。
「弟の証言と、俺たちが奪った通信データ。そして、あやが纏っていたバニラの匂い。すべてのピースが繋がりつつある。……あんたも、薄々感づいているんじゃないのか」
サトルは、紙コップのコーヒーを見つめたまま、ゆっくりと口を開いた。
「……夢を、見るんだ」
「夢?」
「ああ。結衣とベッドにいる時も、工場で鉄を削っている時も……目を閉じると、鮮明な夢を見る。いや、夢じゃない。あれは、あやからの『悲鳴』だ」
サトルは、自身の左手を庇うように右手で包み込んだ。
「俺のこの失った左手は、あの夜からずっと、あやの熱を覚えている。あの女の細胞の奥底に触れた感覚が、時空を超えて、俺の脳に直接映像を送り込んでくるんだ」
カジは息を呑んだ。幻肢痛による、時空を超えた量子テレパシー。通常ならオカルトと一蹴する話だが、時空跳躍を経験した今のカジには、それが純然たる「物理現象」として理解できた。
「どんな映像です?」
「……真っ白な部屋だ。弟が言っていたような、無菌室。そこに、あやが全裸で宙に浮いている。彼女の体には無数の管が繋がれていて、そこから、あの黄金色のバニラの液体が抽出されている」
サトルの声が、微かに震え始める。
「彼女の肌は、もうボロボロだった。陶器がひび割れるように、白い肌に亀裂が入り、そこから金色の光が漏れ出している。あやの顔は苦痛に歪んでいて……でも、俺の視線に気づくと、彼女はいつも、悲しそうに首を振るんだ。『来ないで』って。……そして、一番恐ろしいのは……匂いだ」
「匂い……?」
「夢の中で、あやから漂ってくるバニラの匂いが……どんどん薄くなっている。甘い匂いが腐り落ちて、プラスチックが焼けるような、無機質で嫌な臭いに変わっていくんだ。……まるで、命そのものが燃え尽きようとしているみたいに」
カジは、足元のジュラルミンケースへと視線を向けた。
「……未来の組織は、歴史を改変するために、複数のエージェントを過去へ送り込んだ。だが、時空を跳躍し、その座標を固定するためには、莫大なエネルギーと『触媒』が必要になる。……あやは、その触媒を体内で生成するための『生きたプラント』に改造されたんだ」
カジの冷徹な分析が、残酷な真実を浮き彫りにしていく。
「未来人たちが使うあのバニラを閉じ込めたカプセル。あれはもうしかしたら、あやの命を削って作られた結晶だったかもしれない。連中が過去へ干渉を繰り返すたびに、あやの命はすり減っていく。弟の言う『揮発限界』とは、あやの生命力の枯渇を意味している」
カジは、サトルの目を真っ直ぐに見据えた。
「サトル。残酷なことを言うが、聞いてくれ。……未来の組織にとって、あやはすでに用済みのバッテリーだ。連中の歴史改変の計画が最終段階に入った今、空になった器は処分される。つまり……彼女には、未来の世界で間もなく『消去(死刑宣告)』が下される」
ガタンッ!
サトルが立ち上がり、パイプ椅子が派手な音を立てて倒れた。
四十五歳の、初老に差し掛かろうとする男の顔が、夜叉のように歪んでいた。
「……ふざけるな」
サトルの両手から、ギリギリと骨の鳴る音が響く。
「あの女は、俺を救ってくれた。俺みたいな、誰からも必要とされなかった底辺のクズに、生きる意味を叩き込んでくれた。……その彼女が、ただの電池扱いされて、ゴミのように捨てられるだと? そんなこと、俺のこの両手が、絶対に許さねえ!」
サトルの怒りは、純粋で暴力的な愛の咆哮だった。
カジは、倒れたパイプ椅子を直し、静かにサトルを見上げた。
「ええ、俺も同感です。……組織の歯車として使い捨てられる痛みを、俺とシエは嫌というほど知っている。俺たちは、あやを絶対に見捨てない」
カジは立ち上がり、ジュラルミンケースのロックを解除した。
パシュッ、という密閉の解ける音と共に、中から眩い黄金色の光と、濃密なバニラの香りが溢れ出した。ケースの中には、ガラス管に収められた数十錠の「バニラカプセル」が、整然と並んでいる。
「カジ……。飛べるのか。このカプセルと、俺の金型で」
「理論上は可能です。あんたの左手が繋がっている『あやの座標』を金型に入力し、このカプセルを服用して時空の波と同調する。……ただ、行き先は、因果律が狂い果てた未来の特務機関のど真ん中だ。生きて帰れる保証は、どこにもない」
「上等だ」
サトルは、ケースの光を真っ向から受け止めながら、深く、重い息を吐いた。




