第10章:幻世との決別
「……上等だと言ったが、あんたには残していくものがあるはずだ」
カジの指摘に、サトルの顔に一瞬だけ、濃い影が落ちた。
結衣。
サトルの脳裏に、あの息が詰まるほど甘く、そして悩ましい「良妻の牢獄」がフラッシュバックした。
毎朝、完璧な笑顔で味噌汁を作る結衣。夜になれば、狂ったように自分の体を求め、しがみついてくる結衣。彼女はサトルに救われたという事実を鎖にし、サトルの「罪悪感」を餌にして、永遠の依存関係を築き上げようとしていた。
(……俺が消えれば、あいつはどうなる。また、暗闇の中で怯える日々に戻るのか)
サトルの良心が、激しく軋み声を上げる。四十五年間、一度も人を裏切ったことのない生真面目な男の魂が、結衣を見捨てるという「大罪」に悲鳴を上げていた。
だが、サトルは自らの左手――あやの熱を帯びた幻の指を、強く握りしめた。
『サトル君。私、今が一番幸せよ』
結衣の声が耳鳴りのように響く。
すまない、結衣。お前は俺を神様のように言うが、俺はそんな立派な人間じゃない。俺の心は、俺の魂の根幹は、あの新宿の雨の夜に、バニラの匂いのする女に全部くれてやったんだ。
お前との甘い生活は、ただの「幻世」だった。俺はお前の執着という檻の中で、一生罪悪感に苛まれながら飼い殺される道を選ぶこともできた。だが……あやが、俺を呼んでいる。あやが消えようとしている時に、俺は平和な食卓で飯を食うことなんてできない。
「……あいつには、悪いことをした」
サトルは、血を吐くような声で呟いた。
「俺は、結衣の愛から逃げる最低の男だ。一生癒えない罪悪感を背負って、地獄へ落ちる。……だが、それでも、俺はあやを助けに行く。この命を使い潰してでもな」
その決断は、サトルにとって現代との、そして結衣との完全な決別を意味していた。
「……いい覚悟だわ」
背後から、かすれがちな、しかし凛とした声が響いた。
カジが振り返ると、壁に寄りかかりながら、シエが立っていた。カジの大きなシャツを羽織り、顔色はまだ蒼白だが、その黒曜石の瞳には、かつての冷徹なエージェントとしての光と、カジへ向ける深い愛情の光が宿っていた。
「シエ……! まだ動いちゃ駄目だ」
カジが駆け寄ろうとするのを、シエは片手で制した。
「平気よ。……細胞が、バニラの匂いに反応して活性化してる。それに、私たちにも『決別』の時が来たみたい」
その言葉と同時だった。
地下空洞の天井、そして唯一の出入り口である分厚い鉄扉の向こうから、無数の軍靴の音と、レーザーサイトの赤い光線が闇を切り裂いた。
『――対象の生体反応を確認。これより、不良品の廃棄処分を実行する』
無機質な合成音声。それは、特務機関の上司『N』の声だった。
「……嗅ぎつけるのが早すぎる。芝浦の戦闘から、まだ二時間も経っていないぞ!」
カジがライフルを構え、サトルを弟の影へと押しやった。
「Nは、未来の特務機関と情報のやり取りをしている可能性があるわ。私たちがカプセルを奪った時点で、現代における最大の『脅威』と認定されたのよ」
シエが、二丁の大型拳銃を抜き放ち、痛む体を庇いながらカジの背中合わせに立った。
ズガァァァァァン!!
鉄扉が、指向性爆薬によって吹き飛ばされた。
粉塵が舞う中、突入してきたのは、未来のエージェントではない。漆黒の強化装甲服に身を包み、暗視ゴーグルを不気味に光らせた、N直属の暗殺部隊「猟犬」たちだった。その数、およそ二十。現代の兵器の粋を集めた、殺戮のマシーンたちだ。
「カジ、右舷防衛! 私は左を抑える!」
「無茶をするな、シエ!」
圧倒的な火力の嵐が、地下空洞を吹き荒れた。
ハウンドたちが放つ制圧射撃が、コンクリートの壁を次々と削り取る。カジはドラム缶の影から、タクティカル・ライフルのスコープを覗き、冷徹な精密射撃で次々と敵のバイザーを撃ち抜いていく。
シエもまた、傷の痛みを感じさせない流麗な動きで、壁を蹴り、宙を舞いながら特殊炸裂弾を敵の陣形の中央に叩き込んだ。
「ガァッ!」
炎と爆風が上がり、数人のハウンドが吹き飛ぶ。
だが、敵は無感情な兵士だ。仲間が死のうと怯むことなく、即座に陣形を再構築し、サーモバリック手榴弾を投げ込んでくる。
「伏せろッ!」
カジがシエを抱え込んで床に転がる。凄まじい熱波と爆風が頭上を通り過ぎ、備蓄されていた物資が火ダルマになって吹き飛んだ。
「……キリがない。連中、この地下空洞ごと俺たちを生き埋めにする気だ!」
カジが残弾を確認しながら叫ぶ。
その時、暗闇の中から、鉄パイプを持った男が唸り声を上げて飛び出した。
「サトル! 駄目だ、前に出るな!」
「俺にも戦わせろ!!」
サトルは、銃弾が飛び交う中を、まるで「見えない弾道」を予測しているかのように、あり得ない身のこなしで潜り抜けた。幻肢痛が、空間の殺意をミリ単位で感知しているのだ。
サトルは最前列のハウンドの懐に潜り込むと、その強化装甲の隙間――首の関節部分へ、渾身の力で鉄パイプを突き立てた。
「グベッ……!」
血を吹き出して倒れる兵士から、サトルはアサルトライフルを奪い取り、盲撃ちで後続の敵を牽制する。
「……驚いたわね。ただの一般人が、Nの猟犬と渡り合ってる」
シエが血を吐きながら微笑した。
「あいつはもう、一般人じゃない。愛のために狂った、修羅ですよ」
カジはシエを支え起こし、中央のテーブルに残されたジュラルミンケースへと向かった。
しかし、敵の増援は絶え間なく現れる。天井の通気口が破られ、そこからもワイヤーでハウンドたちが降下してきた。
多勢に無勢。シエの体力も限界に近づき、カジの弾薬も底を尽きかけていた。
『……無駄な抵抗だ、小川加持、梓。お前たちは特務機関の誇りだった。大人しく死ねば、名誉ある殉職として処理してやったものを』
部隊のスピーカーから、Nの冷たい声が響く。
「ふざけるな……! 誰が、てめえの書いた脚本通りに死んでやるか!」
カジは怒号を返し、ケースの中から黄金色のカプセルを三錠取り出した。
「サトル、金型を!」
「ああッ!」
サトルが血まみれの手で金型を掲げる。彼の左手の幻指が、見えないダイヤルを猛烈な勢いで回し、あやの悲鳴が聞こえる未来の座標――因果律の特異点へとセットする。
「シエ、飲んでくれ!」
カジがカプセルをシエの口に含ませ、自らも飲み込む。サトルも、躊躇なくバニラの結晶を喉の奥へと放り込んだ。
瞬間。
三人の体から、爆発的なバニラの香りが噴出し、地下空洞全体を黄金色のノイズが包み込んだ。
「な、なんだこれは……!?」
ハウンドたちが銃撃を止める。彼らの目には、カジたちの周囲の空間が、テレビのブロックノイズのように激しく乱れ、すり鉢状に歪曲していくのが見えていた。
『撃て! 奴らを時空の彼方に逃すな!!』
Nの焦燥に満ちた命令が飛び、ハウンドたちが一斉に引き金を引く。
無数の銃弾が、三人に殺到する。
だが、放たれた弾丸は、黄金色の渦の境界線に触れた瞬間、スローモーションのように速度を落とし、まるで空中で静止したかのように動かなくなった。時間の流れそのものが、金型とカプセルの力によって彼らの周囲だけ「別次元」へと切り離されたのだ。
「……さようなら、N。俺たちの『幻世』は、ここで終わりだ」
カジは、迫り来る銃弾の壁越しに、かつての上司へ向けて中指を立てた。
そして、傍らで気を失っている弟に、小さく「生きろよ」と呟く。
シエが、カジの腕を強く握りしめる。
サトルが、あやの姿を脳裏に焼き付け、未来の深淵を睨みつける。
凄まじい閃光。
爆発的な黄金色の渦が、地下空洞のすべてを飲み込んだ。
ハウンドたちの視界が白く塗り潰され、直後、猛烈な突風が吹き荒れる。
光が収まった時、そこには銃弾で蜂の巣にされたコンクリートの壁と、呆然と立ち尽くす暗殺部隊、そして、毛布に包まって眠るサトルの弟だけが残されていた。
現代との、そして偽りの平和との完全な決別。
カジ、シエ、そしてサトル。三つの魂は、時空のゲートを突破し、最愛の女が待つ、死と絶望に支配された未来の世界へと、ついにその身を投じたのだ。




