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幻世  作者: 光闇居士


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第11章:終末のパノラマと愛の防波堤

――黄金色の暴風が、ふっと途絶えた。

 鼓膜を圧迫していた時空跳躍のノイズが消え、強烈な吐き気と共に三人の肉体は硬質な床へと叩きつけられた。


「……ハァ、ハァ……着いた、のか……?」

 カジが、軋む体を起こしながら周囲を見渡す。

 空気が、違う。新宿の湿った雨の匂いも、足立区の埃っぽいアスファルトの匂いもない。肺を満たすのは、極限まで濾過され、完全に無菌化された「死」の匂い。微かなオゾンと、そして圧倒的な冷たさを伴う、無機質な鉄と電子の匂いだった。


「……これが、未来……」

 カジの隣で身を起こしたシエが、絶句した。

 三人が降り立ったのは、高高度に位置する廃棄された輸送ポートのようだった。眼下に広がるのは、太陽の光を完全に遮断する分厚い鉛色のスモッグと、幾何学的な完全性をもって天を突く、無数の超高層ビル群。

 だが、そこには「生」の息吹が欠片も存在しなかった。

 ネオンは冷たい青白さで明滅し、空を飛び交うのは統制された軌道を描く無人の輸送ドローンのみ。人間の話し声も、雑踏のノイズも、排気ガスの熱さえもない。

 超高度なAIによって完全に管理され、非合理な感情や予測不能なノイズ(人間性)が徹底的に排除された、完全なるディストピア。それが、歴史を改変してまで未来の特務機関が守ろうとした世界の正体だった。


「……笑えない冗談ね」

 シエが、冷たい風に髪をなびかせながら、自嘲するように呟いた。

「私たちが受けてきた『感情の排除』というエージェント教育。Nが私たちに押し付けていた規律……。あれは、この狂った未来の規格に、人間を適応させるための洗脳だったのよ。この、感情を持たない機械の部品になるためのね」

 カジは拳を強く握りしめた。

 自分たちは、この血の通わない鋼鉄の墓場を完成させるためだけに、愛も、悲しみも、怒りも去勢され、使い捨ての駒として生かされてきたのだ。

「……俺たちの『幻世』の方が、まだ何万倍も美しかった」

 カジの底知れぬ怒りが、静かに、しかし業火のように燃え上がる。

「こんな世界のために、あやさんは消費され、あんたは傷つけられたのか。……絶対に、終わらせる。このふざけた因果律を、俺たちの手で粉砕してやる」


決意を固めるカジの首に、不意に細い腕が絡みついた。

 シエだった。

 彼女は、廃ポートの冷たいコンクリートの陰で、カジの唇を塞いだ。それは、エージェントとしての確認行動ではない。この凍てつくような死の世界において、互いの内に流れる熱い血と、狂おしいほどの愛を確かめ合うための、切実で深い口づけだった。

「……んっ、カジ……」

 シエの熱い舌がカジの口腔内を蹂躙し、彼女の傷ついた体から立ち昇る甘いバニラの残り香が、カジの脳髄を激しく揺さぶる。

「シエ……今は……」

「いいの。……怖いのよ。この無機質な世界にいると、またあの『氷の女』に戻ってしまいそうで」

 シエはカジの胸に顔を埋め、その服を強く握りしめた。

「私を、離さないで。私の内側に、あなたがくれたこの熱がある限り、私は機械エージェントじゃない。……あなたの、シエよ」

 その言葉は、絶望的な未来の風景の中で、どんな甘い言葉よりもカジの胸を打ち抜いた。カジは彼女の細い腰を強く抱き寄せ、その白い首筋に熱いキスを刻み込んだ。

「ええ。あんたは俺の女だ。誰にも、未来の神にだって、あんたを機械にはさせない」


「……イチャつくのは後にしろ。時間がねえぞ」

 張り詰めた声が、二人の熱を引き裂いた。

 サトルだった。彼は、右手で激しく明滅する「金型」を握りしめ、左手――ないはずの指で、スモッグの彼方にそびえ立つ、ひときわ巨大な漆黒のタワーを指差していた。

「あやは、あそこにいる。……俺の指が、あやの痛みが、あの中から悲鳴を上げてるんだ。急ぐぞ」


***


【処刑塔への潜入】


『中枢タワー』。

 そこは未来の特務機関の心臓部であり、あやという「消費型触媒(V・カタリスト)」から時空エネルギーを搾り取っている処刑場だった。

 防衛システムは常軌を逸していた。周囲には、生体反応を原子レベルで感知するマイクロ波レーダー網が張り巡らされ、門前には、半機械化された防衛犬ハウンド・ドローンと、完全武装のAI警備兵が隙間なく配置されていた。


「正面突破は〇・一秒で肉塊にされるわね」

 タワーの基部に広がるメンテナンス区画の暗がりから、シエが状況を分析する。

「俺に任せてください」

 カジは、自らの左目に特殊なコンタクトレンズ型デバイスを滑り込ませた。現代のNから支給されたスパイ・ガジェットを、彼自身が非合法にチューンナップしたものだ。

「未来のネットワークも、基盤の言語は同じはずだ。生体認証の光ファイバー網に、疑似的なバグ(ノイズ)を流し込む」


カジが携帯端末を操作すると、タワー基部のレーダー網に、一瞬だけ「一万人の生体反応」が偽装表示された。AI警備システムが、存在しない群衆の処理にリソースを奪われ、システムにコンマ五秒の『空白』が生まれた。

「今だ!」


カジの合図と共に、シエが黒い弾丸となって闇を駆け抜けた。

 彼女の動きは、もはや芸術的なまでの殺戮の舞踏だった。あの倉庫の戦いで敵から奪い取った『位相分断糸』の発生器を両腕に装着したシエは、AI警備兵の死角を流れるように滑り抜ける。

 シュッ、という微かな風切り音。

 シエが両手を交差させた瞬間、門を守っていた四体の巨大な機械兵が、まるで豆腐のように斜めに切断され、音もなく崩れ落ちた。

「……流石です」

「油断しないで。内部はもっと面倒よ」


三人は、切断された扉からタワー内部へと侵入した。

 白く、冷たい、無菌室のような通路。弟が証言していた狂気の世界が、そこには広がっていた。

 カジはスマートなハッキング技術を駆使し、次々と現れる隔壁のロックを解除していく。監視カメラの死角を瞬時に計算し、巡回するドローンの軌道を数秒だけ書き換える。

 サトルは、金型の共鳴と幻肢痛だけを頼りに、迷宮のようなタワーの中を一切の迷いなく突き進んでいった。

「こっちだ。……匂いが、どんどん腐り始めている。あやの時間が、もうない……っ!」

 サトルの悲痛な声が通路に響く。


時折遭遇する内部警備兵は、シエが容赦のない近接格闘(CQC)で瞬殺した。

 敵のレーザーブレードを寸前で躱し、関節の駆動部を正確に蹴り砕く。彼女の黒いスーツが、返り血(オイルと冷却液)で濡れていく。その姿は痛々しくもあったが、愛する男と、あやを救うために戦う彼女の横顔には、かつての「氷」は微塵もなく、ただ熱く、美しい情念だけが燃え盛っていた。


第八十階層。

 ついに三人は、タワーの心臓部――『抽出チャンバー』の巨大な防爆扉の前へと辿り着いた。

 サトルの握る金型が、まるで心臓のように激しく明滅し、高周波の共鳴音を立てている。

「……この向こうに、あやが……!」

 サトルが扉に駆け寄ろうとした、その瞬間だった。


ズウン、と。

 タワーそのものを揺るがすような重低音が響き、防爆扉の手前の空間から、四つの巨大なカプセルが床を突き破って出現した。


プシュウゥゥ……という排気音と共に現れたのは、これまでの機械兵や工作員とは次元が違う、漆黒の重装甲に身を包んだ四人の異形の戦士だった。

 身長は二メートルを優に超え、その肉体の九割が機械化されている。彼らの手には、巨大な重力破砕扇の改良型とも言える『空間歪曲刃』が握られていた。


『――不法侵入者ヲ確認。コレヨリ、絶対排除パージヲ実行スル』

 四体の『絶対執行官プレトリアン』。未来の特務機関が誇る、文字通りの最強の猟犬たちだった。


「……冗談だろ。あんなの、どうやって倒すんだ」

 サトルが、圧倒的な死の気配に後ずさる。

 カジはライフルを構えたが、その銃身を支える手が微かに震えているのを自覚した。ハッキングも通用しない、純粋な暴力の塊。それが四体。


「カジ。サトル」


不意に、シエが一歩前へと出た。

 彼女は、両手の位相分断糸を最大出力で展開し、さらに腰のホルスターから二丁の大型拳銃を抜き放った。

「……先輩?」

「私が、こいつらを止める。あなたたちは、後ろの扉のハッキングに集中して。開いたら、サトルと一緒にあやを助けに行きなさい」


シエの声は、驚くほど澄み切っていた。

「何を言ってるんだ! 相手は四体だぞ、あんた一人でどうにかなる相手じゃない!」

 カジが叫び、シエの肩を掴もうとする。だが、シエはそれを振り払い、振り返ってカジの唇に、深く、熱烈なキスをした。

 息が詰まるほどの、血と硝煙、そして甘いバニラの匂いが混ざった、生きたキスの感触。

「……忘れたの、カジ。私は、あなたの『背中を守る』って約束したわ」


シエの黒曜石の瞳から、一筋の涙が頬を伝って流れ落ちた。

「エージェントとしてじゃない。……あなたを愛する一人の女として、私は私の意志で、ここに立つ。……だから行きなさい、カジ! サトルに、私たちが手に入れたのと同じ『愛』を取り戻させてあげて!!」


その言葉は、カジの魂を根こそぎえぐり取るような、悲壮で、しかし純粋すぎる愛の証明だった。

『排除開始』

 プレトリアンの一体が、空間を歪めながら突進してくる。

「行けェェッ!!」

 シエが絶叫し、敵の懐へと飛び込んでいく。凄まじい衝撃波が通路を吹き荒れ、シエの細い体が弾き飛ばされそうになるのを、彼女は糸で壁に固定し、血を吐きながら銃弾の雨を降らせる。


「シエッ!!」

「カジ! ハッキングを急げ! 彼女の覚悟を無駄にする気か!!」

 サトルの怒号に、カジは顔を歪めながら、涙で滲む視界を必死に拭い、防爆扉のコンソールに端末を突き刺した。

(頼む……早く、早く開いてくれ……っ!)

 背後では、肉と鋼鉄が激突する凄惨な音が響き続けている。シエが悲鳴を噛み殺し、必死に敵の攻撃を逸らしている。彼女の命が、秒単位で削り取られていくのがカジには分かった。


『パスワード・オーバーライド。扉を解放します』


ガコンッ! という重い音と共に、防爆扉がゆっくりと開き始めた。

 中から、むせ返るような、しかし酷く腐敗したバニラの匂いが溢れ出してくる。

「サトル、行けッ!!」

 カジが叫ぶ。サトルは振り向くことなく、中枢チャンバーの中へと飛び込んでいった。

 カジもそれに続こうとして、最後に一度だけ振り返った。


シエは、左腕を砕かれながらも、四体のプレトリアンを相手に一歩も退かずに立ち塞がっていた。彼女の顔は傷だらけで血に染まっていたが……その唇には、未来の機械兵たちには絶対に理解できない、狂おしいほどに美しく、誇り高い『微笑み』が浮かんでいた。


「……必ず、迎えに来る。死んだら、地獄の果てまで追いかけてやるからなッ!!」

 カジの血を吐くような叫びに、シエは振り返ることなく、ただ一本だけ、親指を立ててみせた。


防爆扉が、重い音を立てて再び閉ざされる。

 最愛の女を扉の向こうに残し、カジとサトルはついに、すべての狂気の中心――あやが囚われている処刑塔の心臓部へと足を踏み入れた。

 そこには、彼らの想像を絶する、残酷すぎる終末の光景が広がっていた。

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