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幻世  作者: 光闇居士


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第12章:機械仕掛けの神と、崩れゆく白磁の女神

挿絵(By みてみん)

「あや……俺だ。サトルだ。……迎えに来たぞ」

 サトルは、自分の顔をあやの血と培養液に塗れた顔に擦り寄せ、子供のように泣きじゃくった。



【しおの】

背後で分厚い防爆扉が、シエの壮絶な微笑みごと完全に閉ざされた。


 重厚な金属の噛み合う音が響き渡り、外の喧騒――シエと機械兵たちが命を削り合う鋼鉄の悲鳴が、まるで遠い異国の出来事のようにプツリと遮断される。


カジとサトルが足を踏み入れた『中枢チャンバー』。


 そこは、人間の想像力というものが到達し得る、最も冒涜的で、最も残酷な終末のパノラマだった。


広さは、巨大なドーム球場を丸ごと一つ飲み込めるほどあった。だが、空間を満たしているのは圧倒的な「白」と「銀」のみ。床も、壁も、天井も、継ぎ目のない未知の合金と特殊ガラスで覆われ、影一つ存在しない絶対的な無菌の光に照らされている。


 そして、その広大な空間の中心にそびえ立っていたのは、巨大なガラスの円柱――神殿の祭壇にも似た、悪魔的な抽出装置だった。


「……あ、あ、あ……」


 サトルの喉から、言葉にならない、乾いた空気が漏れた。


 手からジュラルミンケースが滑り落ち、硬質な床に虚しい音を立てて転がる。


匂い。


 息を吸い込むことすら躊躇われるほどの、腐敗した甘い悪臭。


 かつて新宿の路地裏で、あるいはラブホテルの密室で、サトルの脳髄を狂わせたあの濃密で甘美なバニラの香りは、見る影もなく変質していた。プラスチックが焼け焦げたような化学的な臭気と、古い血液の鉄の匂い、そして、生命というものが根本から腐り落ちていく強烈な「死」の臭い。


 それが、巨大なガラス円柱の頂上から、絶え間なく排気孔を通じて吐き出されているのだ。


「あや……あやぁぁぁっ!!」


 サトルは、絶叫しながら祭壇へと駆け出した。


 カジもまた、ライフルを構えたままその凄惨な光景に足を踏み出し、直後、あまりの吐き気にその場に嘔吐しそうになるのを必死に堪えた。エージェントとして数々の死体や凄惨な拷問現場を見てきたカジでさえ、目の前に広がる光景からは目を逸らしたくなった。


巨大なガラス円柱の中。


 そこに、あやがいた。



いや、それはもはや「人間」の形を保っているとは言い難かった。


 あやは、無重力の液体で満たされた円柱の中心に、全裸のまま中空に磔にされていた。彼女の四肢は、関節の可動域を無視した残酷な角度でワイヤーによって固定され、その美しいプロポーションを誇っていた肉体には、太さの異なる数百本もの無機質なチューブが、容赦なく、そして深く突き刺さっていた。


 脊髄、頸動脈、胸の谷間、下腹部、そして大腿部。


 人間の急所と、生命エネルギーが最も集まる場所を正確に割り出し、機械の触手があやの肉体を「苗床」として貪り食っている。チューブの中を、黄金色に輝く液体――時空跳躍の触媒となる高純度のバニラエッセンスが、脈打つように、すさまじい勢いで吸い上げられていく。


 ズチュ、ズチュ、という、生命を啜る機械の咀嚼音が、静寂な空間に不気味に響き渡っていた。


「ああああああっ!! 嘘だろ、あや、あや!!」


 サトルがガラスの壁面にすがりつき、欠損した左手の幻指で、ありもしない爪を立ててガラスを掻き毟る。


 ガラスの向こうのあやは、サトルの知る、あの強かで、妖艶で、生きる熱量に満ち溢れた女の面影を完全に失っていた。


 彼女の白い肌は、水分と生気を完全に搾り取られ、まるでひび割れた白磁の陶器のようだった。顔から首筋、そして腹部にかけて、無数の亀裂が走り、そのひび割れの奥から、今にも消え入りそうな黄金色の光が漏れ出している。


 彼女は人間ではなく、時空を歪めるためのエネルギーを無限に搾り取られる、生きた『使い捨てバッテリー』へと成り果てていた。


 この冷徹な未来のディストピアを構築するAIにとって、人間の肉体とは、化学物質を合成・抽出するための安上がりな「有機プラント」でしかないのだ。感情も、痛みも、愛も、すべてはノイズとして切り捨てられ、ただ効率のみが絶対神として君臨している。


「あや! 俺だ、サトルだ! 目を開けてくれ!!」


 サトルの慟哭が、白亜のチャンバーにこだまする。


 その声に反応したのか。


 ガラス管の中のあやが、ひび割れたまぶたを、ほんのわずかに震わせた。


 濁りきった、光を失った漆黒の瞳。それが、ガラス越しにサトルの姿を捉える。


 あやの唇が、泡の中で微かに動いた。


 音声は届かない。だが、サトルには彼女の言っていることが痛いほどにわかった。



『……どうして、きたの。……逃げて。……あなたまで、消されてしまう』



その顔は、極限の苦痛に歪みながらも、サトルを巻き込みたくないという深い愛情に満ちていた。


 サトルの胸の中で、何かが完全に崩落した。


 結衣の温かく安全なアパート。毎朝の味噌汁。自分のすべてを許容し、奉仕してくれた良妻の笑顔。


 そんなものは、すべて偽物だった。俺が安全な「幻世」で自己嫌悪に酔いしれ、結衣との愛なき性行に耽溺している間、この女は――俺に生きる意味を与え、初めて本物の「熱」を教えてくれたこの女は、たった一人で、言葉では言い表せないこの地獄の責め苦に耐え続けていたのだ。



「ふざけるな……逃げるもんか! 今度こそ、俺が、俺がお前を助けるんだ!!」



 サトルが右手に握りしめた「金型」が、あやの命の灯火に共鳴し、激しく脈動し始めた。


だが、非情なシステムは、人間の感傷を待ってはくれない。


『――警告。V・カタリスト個体名【アヤ】の生命エネルギー残量、規定値を下回りました。時空跳躍エネルギーの抽出効率が0・02%に低下。』


天井のスピーカーから、一切の抑揚を持たない、完璧なまでに冷酷なAIの合成音声が降り注いだ。


『――【廃棄プロトコル】を実行します。不良品を焼却し、チャンバーを次期抽出体へ最適化します』


「なっ……!?」


 カジが頭上を見上げた。


 巨大なガラス円柱の真上。はるか高所にあるドームの天井がスライドして開き、そこから、直径数十メートルにも及ぶ、黒光りする巨大な機械の塊がゆっくりと降下してきたのだ。


 それは、巨大な油圧プレス機と、超高熱のプラズマバーナーを複合したような、純然たる『処刑装置』だった。


 抽出を終えた「殻」を、チューブごと物理的に押し潰し、同時に数千度の高熱で塵一つ残さず焼却する。効率のみを追求した、生命に対する究極の冒涜。


「やめろォォォォォォッ!!」


 サトルが発狂したように、素手でガラスの壁を殴りつける。


 ガンッ! ガンッ! と血が飛び散るが、防爆ガラスには傷一つ付かない。


「サトル、下がれ! 俺がやる!」


 カジはライフルを構え、降下してくる処刑装置のジョイント部分に向けて、フルオートで徹甲弾を撃ち込んだ。


 火花が散る。だが、未来の装甲は現代の銃弾を容易く弾き返した。


「クソッ、硬すぎる! このままじゃ、あと三十秒で彼女はプレスされて焼却される!」


 カジがマガジンを放り捨て、絶望的な焦燥感に歯噛みした。


 外ではシエが命を賭してプレトリアンを食い止めている。俺たちがここで彼女を救えなければ、シエの覚悟まで無駄になる。だが、どうすればいい。ハッキングするコンソールもない。物理破壊も通じない。


処刑装置が、無慈悲な駆動音を立てて降下してくる。


 残り二十メートル。十五メートル。


 円柱内の液体が、バーナーの予熱によって沸騰し始めた。あやの体が、熱に苦しそうに痙攣する。チューブから漏れた彼女の血液が、黄金色の液体の中で赤黒く濁っていく。


「あや! あやぁぁッ!」


 サトルは、血まみれの拳でガラスを叩き続けた。


 どうすればいい。どうすれば、この分厚いガラスを、この圧倒的な絶望の壁を打ち破れる。


その時。


 サトルの「ないはずの左手」が、激しく疼いた。


 幻肢痛。それは、脳が作り出した幻などではない。四十五年間、鉄を削り、ミリ単位の精度で金属の「真理」を捉え続けてきた職人の、魂の触覚だ。


 サトルは、右手に握った「金型」を見た。


 金型。それは、未来人が過去へ送り込んだ、時空の波を調整するためのポータブルな受信機。


 俺の左手は、この金型の形を完全に記憶している。そして今、ガラスの向こうのあやの命の波長と、完全に同調している。



「……カジ」


 サトルは、異様なまでの静けさでカジを呼んだ。


「え?」


「俺の、左手を……この金型に、合わせろ」


「サトル、何を言ってるんです!? あんたの左手には、親指しか……」


「いいから、やれッ!!」


サトルの鬼気迫る怒号に、カジは弾かれたように彼のもとへ走り、サトルが右手に持つ金型に、彼の欠損した左手を添えさせた。


 処刑装置が、あと五メートルまで迫る。凄まじい熱波が、ガラス越しにカジたちの肌を焼き焦がし始める。


サトルは目を閉じた。


 失われた人差し指、中指、薬指、小指。


 プレス機に食いちぎられ、結衣との愛のために失ったと思っていた四本の指。


 だが違う。俺の指は、失われてなどいない。この瞬間のために、未来と過去を繋ぎ、最愛の女を救い出すための『架け橋』として、あの日、俺の肉体から次元の狭間へと解き放たれていたのだ。


(あや。……俺の熱を、受け取れ)


サトルは、見えない四本の指に、己の全存在、全霊の「愛」と「狂気」を込めた。


 金型が、サトルの幻の指と完全に結合し、臨界点を突破した。


 バァァァァァァァァァァァァンッ!!


金型から、物理的な限界を超えた黄金色の重力波が逆流した。


 それは、機械兵たちが使っていた破壊の重力波とは違う。サトルの命の熱量が、金型を触媒にして時空の断層そのものを『書き換える』、奇跡の波だった。


 波はサトルの左手から放射状に放たれ、絶対に破壊不可能と思われた防爆ガラスに、ピキッ、と一筋の亀裂を入れた。


 亀裂は瞬く間に蜘蛛の巣状に広がり、次の瞬間。


 粉々に砕け散った。


大量の培養液と、腐臭を放つ黄金のバニラエッセンスが、滝のようにサトルとカジの上に降り注ぐ。


「うおおおおおおおおッ!!」


 サトルは濁流に逆らい、処刑装置が直上まで迫るチャンバーの中央へと飛び込んだ。


 熱い。液体はすでに煮え滾るように熱く、サトルの肌を真っ赤に爛れさせる。


 だが、サトルは止まらない。


 宙吊りになり、落下してくる機械の顎に飲み込まれそうになっているあやの下へ到達する。


「あやッ!!」


 サトルは、彼女の背中や胸に深々と突き刺さっている無数のチューブを、右手と、そして親指だけの左手を使って、力任せに、野生の獣のように引き抜いていった。


「アァァ……ッ!!」


 あやの口から、声にならない苦悶の叫びが漏れる。チューブが抜けるたびに、彼女の肉体から血液と黄金の光が吹き出し、ひび割れた白磁の肌がさらに崩れていく。


「耐えろ! 耐えてくれ、あや!! 今、助ける!!」


最後の、最も太い脊髄のチューブを、サトルが咆哮と共に引き抜いた瞬間。


 頭上の処刑装置の巨大なプレスが、ガシャン! と恐ろしい音を立てて、あやが数秒前まで吊るされていた空間を噛み砕いた。


 間一髪。


 サトルはあやの崩れゆく体を抱きかかえ、そのままチャンバーの外へとダイブして床を転がった。


直後、背後でプラズマバーナーの超高熱が爆発し、ガラス円柱の跡地は、太陽の表面のような白い炎に包まれた。


「……ハァ……ハァ……ッ」


 床に倒れ込んだサトルは、腕の中にいるあやを、狂ったように抱きしめた。


 冷たい。恐ろしいほどに冷たい。


 あやの体は、限界まで搾取された結果、大人の女性とは思えないほど軽く、骨と皮だけのように痩せ細っていた。無数のチューブの跡から血が滲み、陶器のようにひび割れた肌からは、もはや微かな熱しか感じられない。


「あや……俺だ。サトルだ。……迎えに来たぞ」


 サトルは、自分の顔をあやの血と培養液に塗れた顔に擦り寄せ、子供のように泣きじゃくった。


 結衣には決して見せなかった、男の本当の涙。本当の愛の姿が、そこにあった。


あやが、ゆっくりと目を開いた。


 光の失せた黒い瞳に、サトルの泣き顔が映る。


「……おじ、さん……」


 掠れた、今にも消え入りそうな声。


「ああ。俺だ。……遅くなって、すまない。お前を、こんな目に……っ!」


「……バカ、ね。……私は、あなたを利用しただけの……冷たい、エージェントなのに……」


 あやのひび割れた指先が、震えながらサトルの頬に触れた。


 その指先は、氷のように冷たいはずなのに、サトルの心臓を焼き焦がすほどの熱を持っていた。


「……でも、嬉しい。……最後に、おじさんの……熱い顔が、見られて……」


あやの瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちた。


 感情を排除された機械の世界で、彼女が最後に見せた、人間としての純粋な涙だった。


「死なせない。絶対に死なせるもんか! 俺の血を全部くれてやる、だから、目を閉じるな!!」


 サトルはあやを強く抱きしめた。


だが、感動の再会に浸る時間は、彼らには残されていなかった。


『――目標個体の回収を検知。中枢タワーの防衛レベルを【オメガ】に引き上げます。全区画を閉鎖し、侵入者をガスによる物理消去に移行します』


 AIの冷酷なアナウンスと共に、チャンバーの四方の排気口から、緑色の致死性神経ガスが猛烈な勢いで噴出し始めたのだ。


「クソッ、次から次へと……! サトル、あやさんを担げ! ここから脱出するぞ!」


 カジが、足元のジュラルミンケースを拾い上げながら叫ぶ。


「どこへ逃げる!? 扉は閉ざされてるぞ!」


「シエのところだ! 俺たちが来た道を戻るしかない!」


カジは、ジュラルミンケースの中に残っていたバニラカプセルを一つ取り出し、サトルに向けて投げた。


「それをあやさんに飲ませろ! 少しでも細胞の崩壊を食い止めるんだ!」


 サトルは頷き、カプセルを自らの口で噛み砕くと、それを口移しで、あやの冷たい唇の奥へと流し込んだ。


 あやの喉が微かに動き、黄金色の成分が彼女の体内に吸収されていく。ひび割れた肌の崩壊が、わずかに遅くなったように見えた。


「行くぞッ!」


 サトルは、あやの軽い体を左肩に担ぎ上げ、右手で金型を握りしめた。


 カジがライフルの銃口を扉のロック基部に押し当て、ゼロ距離で徹甲弾を叩き込んで物理的に破壊する。


 こじ開けた扉の向こう、ガスの充満する通路を、二人は死に物狂いで駆け抜けた。


頭の中には、ただ一つのことしかない。


 あの扉の向こうで、一人で四体の化け物を相手にしている、愛する女の姿。


(シエ……生きていてくれ。頼むから、死なないでくれ……ッ!)


カジは、迫り来る神経ガスによる肺の痛みを無視し、喉から血を吐きながら、処刑塔の廊下を疾走した。


 腕の中の愛する女を救い出したサトルと、背中を預けた愛する女を助けに向かうカジ。


 機械と絶望が支配するディストピアのど真ん中で、人間の最も非合理で、最も愚かで、最も熱い「純愛」という名の炎が、すべてを焼き尽くす勢いで燃え盛っていた。


 迫り来る終末の足音。


 彼らの命を懸けた逃避行は、いよいよ最終局面へと突入しようとしていた。

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