第13章:最果ての微笑み、永遠の座標
致死性の神経ガスがうねりを上げて迫る通路を、カジとサトルは死に物狂いで駆け抜けた。
サトルの左肩には、バニラカプセルを口移しで飲まされ、かろうじて生命活動を維持しているあやが担がれている。彼女の白磁のようにひび割れた肌からは、なおも微かに黄金色の光が漏れ、暗い通路を照らす唯一の道標となっていた。
肺が焼け焦げるような痛みに耐え、カジは分厚い防爆扉の前に辿り着いた。
つい十数分前、シエが自分たちを先へ行かせるために、たった一人で四体の『絶対執行官』と対峙した場所だ。
「シエッ!!」
カジは血を吐くような声で叫びながら、破壊された扉の隙間をこじ開け、向こう側へと転がり込んだ。
そこに広がっていたのは、無機質だった未来の空間が、徹底的な暴力によって蹂躙された凄惨な残骸の山だった。
壁はめくれ上がり、床には巨大なクレーターが穿たれている。そして、その瓦礫の中心に、黒い装甲を無残に砕かれ、オイルと冷却液を撒き散らして完全に沈黙した四体の巨大な機械兵が転がっていた。
その巨大な鋼鉄の死骸の山の上に。
片腕をだらりと下げ、全身を赤黒い血で染め上げた漆黒の女が、二丁の拳銃を握りしめたまま、膝をついていた。
「……遅い、わよ。カジ……」
シエだった。
強化骨格はひしゃげ、ボディスーツは裂け、その美しい顔の半分は血で覆われている。それでも、彼女の黒曜石の瞳は、狂気的なまでの生への執着と、カジを視界に捉えたことによる深い安堵の光を放っていた。
「シエ……! バカヤロウ、本当に一人で全部倒しちまったのかよ……っ!」
カジはライフルを放り捨て、弾かれたようにシエの元へ駆け寄った。彼女の血まみれの体を抱きしめると、シエは痛みに微かに顔をしかめながらも、その無事な右腕をカジの背中に回した。
「……言ったでしょ。私は、あなたの背中を守るって。……私の男を、こんなスクラップ共に殺させるわけにはいかないもの」
血まみれの唇で、彼女はふわりと笑った。それは、冷徹なエージェントの顔ではなく、愛する男のために命を賭し、そして生き抜いた、誇り高き一人の女の顔だった。
「……二人とも、感動している暇はないわ」
サトルの肩の上で、あやが微弱な声を絞り出した。
カジのカプセルによって一時的に意識を取り戻した彼女は、ひび割れた腕を伸ばし、タワーの奥、ガラス越しに見える巨大な構造物を指差した。
「このタワーは、私の抽出プロセスが強制終了したことで、自爆……『オメガ・パージ』のシークエンスに入った。あと数分で、ここは完全に崩落する。……でも、助かる道はある。あそこ……タワーの周縁部に、幹部用の『緊急時空跳躍ポッド(ワープポッド)』があるわ。あれを使えば、指定した時代へ飛べる……」
「ワープポッド……!」
カジの目に、希望の光が宿る。
「急ぐぞ! シエ、俺の肩に掴まれ!」
カジはシエの体を支え、サトルと共に、あやが示す座標へと走り出した。
タワー全体が、断末魔のような重低音を響かせて崩壊を始めている。天井から巨大なコンクリートの塊が降り注ぎ、床の至る所から紅蓮の炎が噴き出す。
ディストピアの象徴であった無機質な世界が、炎と瓦礫の地獄へと変貌していく中、四人は満身創痍の体を引きずり、ついに外壁部にせり出した巨大なハンガーへと辿り着いた。
そこには、流線型の銀色に輝く、二機のワープポッドが待機していた。
「……サトル。お前たちが先に行け」
カジは、サトルを第一のポッドへと押しやった。
「あやさんの座標入力は、あんたの『金型』と、あんたの左手が一番正確なはずだ。争いや組織の干渉がない、平和な時代を狙って飛べ」
サトルは、血と泥に塗れたカジの顔を見つめ、深く頷いた。
「……恩に着る。小川加持。お前たちがいなかったら、俺は一生、あやに会うことはできなかった」
「俺もですよ、サトルさん。あんたの狂気があったから、俺は……シエを愛し抜く覚悟ができた」
二人の男は、崩れゆく未来の世界で、固く拳を突き合わせた。
サトルはあやを抱きかかえ、ポッドの中へと乗り込んだ。インターフェースに金型を接続し、幻の指で凄まじい速度で座標を叩き込む。
「……サトルさん」
あやが、サトルの首に腕を回す。
「もう、離さない。今度こそ、俺がお前を幸せにする」
サトルはあやの唇にキスをし、コンソールにセットされた起動ボタンを叩いた。
ポッドの防爆ガラスが閉まり、内部に黄金色のバニラの光が充満する。サトルの持つカプセルとあやの残留エネルギーが共鳴し、空間がすり鉢状に激しく歪んだ。
凄まじい閃光と共に、第一のポッドは完全に空間から消滅した。サトルとあやは、結衣の牢獄も未来の死刑宣告も存在しない、彼らだけの新しい歴史へと旅立っていったのだ。
「よし……! 次は俺たちだ、シエ」
カジは、隣の第二ポッドのハッチを開け、シエを優しくシートに座らせた。
タワーの崩壊は最終局面に達していた。背後の隔壁が吹き飛び、そこから、赤いアイセンサーを光らせた無数の戦闘機械兵たちが、津波のように押し寄せてくるのが見えた。
「急いで、カジ!」
「ああ、今入力する!」
カジはコンソールに向かい、自分たちが帰るべき「幻世」の座標、あの足立区のセーフハウスの時間を入力した。
「あとは、このバニラカプセルを二人で飲んで、起動するだけだ……!」
カジは、自らのタクティカルベストのポケットから、サトルから受け取っていた二人分のバニラカプセルを取り出した。
黄金色に輝く、時空の荒波から肉体を守るための絶対的な命綱。
――その、瞬間だった。
瓦礫の下に埋もれ、完全に機能停止していたはずの一体のプレトリアンの『残骸』が、悪魔のような執念で跳ね起きた。
上半身の半分を失いながらも、その機械の右腕だけが、狂ったような速度でカジへと伸びた。
「カジ、危ないッ!!」
シエの絶叫。
カジが反射的に身を躱した。鋭利な機械の爪が、カジの首を刎ねる軌道を外れ……カジの右手を、掠めた。
ガキンッ! という硬質な音。
カジの指先から、二粒のバニラカプセルが弾け飛んだ。
「あっ……!」
カジが空中で手を伸ばす。
だが、機械兵の爪は、そのうちの一粒を空中で正確に捉え、無慈悲に握り潰した。
パシュッ……。
黄金色の粉末が、虚空に散り、熱波に巻かれて完全に消滅した。
そして、機械兵は機能のすべてを完全に停止し、今度こそただの鉄屑となって崩れ落ちた。
カジは、床に落ちた、たった一粒の残されたカプセルを拾い上げた。
時間が、止まった。
燃え盛る炎の音も、迫り来る機械兵たちの足音も、今のカジの耳には届かなかった。
彼の手のひらに乗っているのは、たった「一錠」のバニラカプセル。
時空跳躍の激しい負荷から人体を守る触媒。これがなければ、ワープの最中に肉体は素粒子レベルに分解され、永遠の虚空を彷徨うことになる。
一人分しかない。
「……嘘だろ」
カジの唇が、絶望に震えた。
ここまで来て。地獄の底を這いずり回って、愛する女を救い出し、一緒に平和な朝を迎えるはずだったのに。
そんな理不尽が、許されてたまるか。
「……カジ」
ポッドの中から、シエの声がした。
カジが顔を上げると、シエはシートから立ち上がり、ゆっくりとカジの前へと歩み寄ってきた。
その顔は、不思議なほどに穏やかだった。戦いの狂気も、死への恐怖も、微塵も感じさせない。ただ、果てしなく深く、透き通るような慈愛の光だけが、その黒曜石の瞳に満ちていた。
「シエ……駄目だ、待ってくれ。探せば、サトルのケースの破片に、成分が残ってるかもしれない。システムを弄れば、一人分の触媒で二人飛べるかもしれない! 俺が……俺が絶対に計算式を書き換えてみせるから……っ!」
カジはパニックに陥り、コンソールを狂ったように叩こうとした。
だが、シエの血に塗れた手が、カジの頬を優しく包み込んだ。
「カジ。……私を見なさい」
「シエ……っ、嫌だ。嫌だ! 俺は、あんたのいない世界になんて、帰りたくないんだよ!!」
カジの目から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。
エージェントとしての冷徹な仮面は、とうの昔に砕け散っている。そこにあるのは、愛する女を失う恐怖に泣き叫ぶ、ただの不器用で、ひたむきな青年の素顔だった。
「泣かないで、カジ。……私の、大好きな人」
シエは、背伸びをして、カジの涙を自らの唇でそっと吸い取った。
「あなたは生きるの。私の分も、私たちが手に入れたこの『熱』を、あの世界に持ち帰って。……それが、私たちが生きた証になる」
「ふざけるなッ! なら、あんたが飛べ! 俺が残って、こいつらを食い止める! あんたが生きろ!!」
カジは、握りしめていたカプセルをシエの口元に押し付けようとした。
だが、強化骨格を失い、ボロボロになっているはずのシエの力が、その瞬間だけ、カジを上回った。
シエはカジの手首を強く掴み、そのまま彼の体を力強く引き寄せた。
「……先輩命令よ、カジ」
シエの顔が近づく。
彼女は、カジの手からカプセルを奪い取ると、自らの口に含んだ。
「なっ……シエ!?」
カジが絶叫した瞬間、シエはカジの首に腕を回し、強引にその唇を塞いだ。
深く、熱烈な、血と涙の味がするキス。
シエの滑らかな舌が、カジの口腔内へと侵入し、同時に、彼女の口内にあった黄金色のカプセルを、カジの喉の奥深くへと容赦なく押し込んだ。
「んぐっ……!? んんッ!!」
カジが抵抗しようとするが、シエは唇を離さず、カジの背中を両手で強く抱きしめ、絶対に逃がさないようにホールドした。
強制的にカプセルを飲み込まされたカジの体内で、バニラの成分が爆発的に溶解し、脳髄と細胞に直接作用し始める。
時空跳躍のための強烈な麻酔効果と、細胞の量子化が始まり、カジの四肢から急速に力が抜け落ちていった。
「……し、え……やめ……ろ……っ」
カジの体が崩れ落ちそうになるのを、シエは支え、そのまま彼を後ずさりさせ、ワープポッドのシートの中へと強く突き飛ばした。
ドサッ、とカジの体がシートに沈み込む。
全身の神経がバニラの成分によって麻痺し、指一本動かすことができない。声すらも、まともに喉から出せなくなっていた。
シエは、ポッドの外に立ち、コンソールの『緊急射出』のボタンに手を置いた。
「シ……エ……!!」
カジは、血走った目でシエを見つめた。麻痺した喉から、空気が漏れるような絶望の音が鳴る。
やめろ。押すな。俺を、一人で行かせるな。
機械兵たちの大群が、ハンガーになだれ込んできた。
無数のレーザー照準が、シエの背中に赤い斑点を結ぶ。
シエは、背後の死の気配など一切気にする素振りも見せず、ただポッドの中のカジだけを見つめていた。
プシュウゥゥ……という音と共に、ポッドの分厚い透明な防爆ハッチが、ゆっくりと、残酷なほどゆっくりと降りてくる。
ハッチが閉まる直前の、その数秒間。
血まみれの、髪を振り乱したシエが、カジに向けて見せたその顔を、カジは永遠に忘れることはないだろう。
それは、感情を排斥された特務機関で育ち、氷の女王と呼ばれた女の顔ではなかった。
純粋で、無垢で、そして無限の慈愛に満ちた、聖母のような、あるいは初恋を知った少女のような、史上最高に美しい『笑顔』だった。
血と泥に塗れたその顔が、崩壊するタワーの紅蓮の炎と、ポッドから溢れ出す黄金の光に照らされ、神々しいほどの美しさを放っていた。
隔壁の隙間から、彼女の最後の声が、カジの鼓膜に直接届く。
「――愛してる」
シエの瞳から、透明な涙が輝きながら落ちた。
「あなたに出会えて……私の人生は、本当の世界になったわ」
ガコンッ!!!!
防爆ハッチが完全にロックされ、外界の音が完全に遮断された。
「あああああああああああああああああああああああああああああシエエエエエエエエエエエエエエエエエッ!!!!!!」
カジは、麻痺した体を無理やり引きちぎるような力で身を起こし、防爆ガラスに顔を押し当てて絶叫した。
血の涙が、目尻から止めどなく溢れ出し、ガラスを濡らす。
ポッドが凄まじい起動音を上げ、空間の量子化が始まった。
視界が、黄金色の光の渦に飲み込まれていく。
その光の向こう側。
カジの網膜に焼き付いた最後の光景。
それは、ローンチボタンを押したシエが、迫り来る何百という機械兵の大群に向かって、ただ一人で振り返る姿だった。
彼女は、残された二丁の拳銃を構え、一切の恐怖を見せることなく、むしろ愛する男の命を未来へ送り出した誇りに満ちた顔で、自ら死地のど真ん中へと突撃していった。
無数のレーザー光線が交錯し、タワーの心臓部が大爆発を起こす。
シエの漆黒の背中が、圧倒的な業火と、純白の光の中に包み込まれ……。
――そして、世界は完全に裏返った。
***
どれほどの時間を、虚空の中で彷徨ったのだろうか。
永遠にも似た一瞬の量子トンネルを抜け、カジの肉体は重力を取り戻した。
激しい衝撃と共にポッドが実体化し、ハッチが吹き飛ぶ。
カジはポッドから転がり落ち、アスファルトの上で激しく咳き込みながら、胃液をぶちまけた。
全身の骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げている。だが、麻痺は解け始めていた。
カジは、這うようにして顔を上げた。
頬に、冷たく、優しいものが触れた。
雨だった。
見上げれば、そこには鉛色のスモッグなどない。足立区の、くすんだ、しかしどこまでも人間臭い、雨の夜空が広がっていた。
遠くで、新宿の紫とピンクのネオンが、ぼんやりと空を焦がしているのが見える。
作られた世界。幻世。
だが、カジにとってここは、愛する女の命と引き換えに手に入れた、紛れもない「現実」だった。
「……あ、あ……アアアァァァァァァァァァァァッ!!」
カジは、雨に濡れたアスファルトを拳で叩きつけ、慟哭した。
その絶叫は、雨音に掻き消されることなく、東京の夜空に悲痛に響き渡った。
助かった。生き延びた。
だが、彼の世界を鮮やかに彩ってくれた、あの不器用で、冷たくて、誰よりも熱く、甘い匂いのする女は、もうこの世界のどこにもいない。
彼女は、あの鋼鉄と業火の地獄の中で、永遠の微笑みと共に散っていったのだ。
カジは、泥だらけの手を胸に当てた。
そこには、シエが無理やり押し込んだバニラカプセルの、甘く狂おしい残り香が、まだ確かに焼け付いていた。
そして、胸の奥底で脈打つ、彼女から受け取った強烈な「愛の熱」。
それは、特務機関の記憶操作でも、未来のAIの演算でも決して消し去ることのできない、永遠の座標。
「……俺は、生きる」
カジは、雨に濡れた顔を上げ、虚空を見つめた。
その瞳から、絶望の涙は消え、代わりに、シエの黒曜石の瞳を受け継いだかのような、深く、鋭く、そして揺るぎない光が宿っていた。
「あんたが命を懸けて守ってくれたこの世界で。……あんたの熱と一緒に、地獄の底まで生きてやる」
カジ・オガワ。
特務機関の最高のエージェントであり、一人の女を狂おしいほどに愛した男。
彼は、血と泥に塗れた体をゆっくりと起こし、雨の降る街へと歩き出した。
彼が背負うのは、失われた因果律でも、未来への恐怖でもない。
最果ての地で見せた、史上最高に美しい、あの女の微笑みだけだった。
(了)




