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幻世  作者: 光闇居士


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第7章:不器用なロマンチスト

挿絵(By みてみん)

「……できたわ、カジ」

 キッチンから、シエの声がした。

 カジが振り返ると、そこには、白いエプロン姿のシエが立っていた。彼女の手には、不格好な、しかしバニラの甘い匂いが立ち昇るスイーツが握られていた。


【しおの】

監視のスコープから目を離した瞬間、世界は再び、彩度を欠いた無機質なコンクリートの塊へと戻る。

 足立区のセーフハウス。埃っぽい空気と、微かに残る火薬の匂い。カジは、デスクの上に置かれた光学スコープの冷たい金属の感触を指先に感じながら、小さく息を吐いた。

 窓の外では、現代の東京の夜景が、無関心に明滅している。

 一歩、足を踏み出せば、そこは理不尽な暴力と、欺瞞に満ちた因果律が支配する戦場だ。つい数時間前まで、カジとシエは、その戦場のど真ん中で、未来からの暗殺者たちと血飛沫を上げながら殺し合っていた。


だが。

 カジは振り返り、部屋の奥にある小さなキッチンへ視線を向けた。

 そこには、戦場での冷酷な「氷の女王」の姿は、欠片もなかった。


シエは、大きめの男物のスウェット(カジの私物だ)を無造作に羽織り、髪は寝癖がついたまま。片手にはコンビニのプラスチック容器に入った冷めたナポリタンを持ち、フォークに巻きつけて無表情に口へと運んでいる。その視線はカジではなく、机の上に並べられた複数の監視モニターの熱源反応サーモグラフィに釘付けだった。


「……先輩。ナポリタン、シャツに飛んでますよ」

「……後で洗う」

「昨日も同じこと言って、そのまま捨てたじゃないですか。経費の無駄です」

「私が何を着ようと、任務の遂行率には影響しないわ」


シエはナポリタンを飲み込むと、傍らのブラックコーヒーを一気に流し込み、モニターのチャンネルを切り替えた。

 この女には「女らしさ」どころか、人間としての基本的な生活への執着が欠落している。特務機関の徹底した感情排除教育の、最も純粋な成功例。それがシエというエージェントだった。


……はずだった。


「……カジ」

 シエが唐突に、モニターから目を離さずに声をかけた。

「はい、何でしょう、先輩」

「ため息の周波数が、さっきから不平不満の帯域を上下してる。どうせ、因果律が成立しないとか、論理的じゃないとか、脳内で愚痴をこぼしてるんでしょ」

「……図星です。先輩は気にならないんですか? あのサトルと結衣の状況。そして、あの男の持つ特異性。……だというのに、当の本人はこうして、幼馴染の女と新婚ごっこです。理不尽にも程がある」


カジの理屈っぽい愚痴に、シエは初めてモニターから目を逸らし、カジの方を向いた。

 暗い部屋の中で、モニターの青白い光が彼女の端正な顔立ちを照らし出している。その黒曜石のような瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、カジの探るような視線を射抜く奇妙な熱が過ったように見えた。


「考えるだけ無駄よ、カジ。私たちはエージェント。観客席からステージに降りた瞬間、死ぬわ」


吐き出された紫煙が、部屋の澱んだ空気に溶けていく。

 シエは煙草を灰皿に揉み消すと、パイプ椅子から立ち上がり、カジに背を向けて寝室へと歩き出した。

「……先に休むわ。次のシフト、よろしく」


その背中を見送りながら、カジは苦笑した。

 冷徹なエージェント。無愛想で無頓着な先輩。

 だが。カジだけは知っている。その氷の仮面の下に隠された、彼女の本当の素顔を。


***


夜明け前。

 シフトを終えたカジが寝室に入ると、シエはベッドの中で、カジの枕を抱きしめるようにして眠っていた。

 布団から覗く、白く、柔らかな肩。戦場での鋭さは消え失せ、無防備で、少しだらしない寝顔が、そこにあった。


(……可愛い)


カジの胸の奥で、底知れぬ愛おしさが爆発した。

 この女を、守りたい。エージェントとしての任務でも、Nの命令でもない。俺という一人の男の本能が、そう叫んでいた。


カジは、シエを起こさないようにそっとベッドに入り、その細い体を抱き寄せた。

 触れた瞬間、シエの体が微かに跳ねた。

「……カジ?」

 潤んだ瞳が、カジを見上げる。

「はい、先輩」

「……シフト、終わったの?」

「ええ。……お疲れ様です」


カジはシエの額にキスを落とし、その髪を優しく撫でた。

 シエは、カジの胸に顔を埋め、彼の匂いを吸い込むように深く息を吐いた。

「……バニラの匂いがするわ」

「え?」

「……あなたが、砕いたカプセルの匂い。……あの日から、ずっと、あなたの体から漂ってる」


シエは、カジの胸元に爪を立て、そのシャツを引き裂くようにして、彼の素肌に触れた。

「……熱い。……あなたの熱が、欲しい」


それは、エージェントとしての要請ではなかった。ただ一人の男を欲しがる、情念に燃える女の、痛切で、狂おしい渇望だった。


カジは、シエのすべてを受け止めるように、彼女をベッドに押し倒した。

 シエのボディスーツのジッパーを引き下げる。

 現れたのは、これまでの冷酷なイメージからは想像もつかないほど、柔らかく、温かく、そして瑞々しい「女」の肉体だった。


(……綺麗だ)


カジは、彼女の白い肌を、壊れ物を扱うように、丁寧に、愛おしく、指先でなぞった。

 シエの体が、カジの愛撫に呼応するように、歓喜の声を上げ、どろどろに溶けていく。


「ああっ……カジ、そこ……あぁっ! もっと、もっと強く……!」


シエはカジの首に腕を絡め、弓なりに体を反らせた。彼女の奉仕は、あやがサトルに見せた「計算された快楽」とは決定的に異なっていた。彼女のそれは、自らのすべてを削り、カジという存在に捧げようとする、献身的で、かつ独占的な重い愛の結晶だった。


カジは、シエの最奥へと、己のすべてを一気に突き入れた。


「あぁぁぁぁっ!!」


シエの口から、魂を振り絞るような嬌声が弾けた。

 彼女の体内は、驚くほど熱く、滑らかで、そして吸い付くような湿り気でカジを迎え入れた。激しい摩擦熱が、二人の大脳辺縁系を焼き、理性を灰にする。


そこには、もはやエリートエージェントとしてのスマートさなど無かった。

 互いの汗を吸い、体液を撒き散らし、ただひたすらに「個」と「個」が混ざり合おうとする、泥臭く、しかし神聖なまでの生への肯定。


セーフハウスの空間が、二人の熱気とバニラの香りに呼応するように、黄金色の靄を纏い始める。

 ブロックノイズが激しく走り、二人の肉体が一瞬だけ黄金の粒子となって透け、再び実体化する。

 時間の連続性が失われ、現在と過去、そして未来が、この狭い部屋の中で一点に収束していく。

 だが、二人は止まらなかった。

 時空が崩壊しようと、自分たちが歴史のバグとして消去されようと、構わない。

 今この瞬間、互いの拍動を感じ、熱い粘膜を通して「愛」という名の絶対的なエネルギーを交換し合っていること。それだけが、この不確かな宇宙における唯一の「特異点」だった。


「カジ……私を見て……、私だけを……刻み込んで……っ!」


シエはカジの顔を両手で挟み込み、無理やり自分を見つめさせた。彼女の目は、悦楽の果てにトロンと蕩け、しかしその奥には、カジという男を永遠に自分の檻の中に閉じ込めておきたいという、底知れぬ愛の狂気が宿っていた。


ついに、限界が訪れる。

 カジはシエの最も深い場所へ、己の命の種を、熱い衝動を、一滴残らず解き放った。


「あああああっ……!」


シエの体が激しく痙攣し、彼女もまた、今までにない最大の絶頂へと駆け上がった。

 白光の中、二人の意識は一つに混ざり合い、時間の概念が消滅した。

 バニラの香りが爆発的に広がり、黄金色の粒子が二人の肉体を優しく、しかし残酷に包み込む。


***


夜明け。

 窓の外では、現代の東京の街が、静かに目覚め始めていた。

 セーフハウスの寝室で、カジとシエは、互いの汗ばんだ体温を感じながら、重なるようにして横たわっていた。


シエは、カジの腕の中で小さく丸まり、時折、思い出したように小さく鼻を啜っていた。

 仮面は、もう戻らなかった。


「……カジ」

 掠れた、蜂蜜のように甘い声。

「はい……」

「私……もう、元には戻れないわ。……あなたなしでは、一秒も、息ができない」

 シエはカジの手を取り、自分の頬にすり寄せた。その目は、エージェントとしての鋭さを完全に失い、ただ愛に溺れた一人の女の、蕩けるような情愛に満ちていた。


「……僕もです、シエ」

 カジは彼女の額に優しくキスを落とした。

「エージェントであることを忘れて……。この瞬間だけは、ただの『カジ』と『シエ』として、愛し合いたい」


シエは微笑み、カジの首に腕を絡め、再び彼の唇を奪った。

 鉄の匂いも、コンクリートの寒さも、Nの命令も、今の二人には関係ない。

 ただ、互いの体温と、鼓動と、そしてバニラの甘い残り香だけが、この作られた「幻世」における、唯一の「真実」だった。


***


数日後。

 つかの間の平穏な同棲生活を送る二人。

 シエは、無愛想な態度は周囲へのカモフラージュとなり、二人きりの時だけ、カジのために不格好なスイーツを作ろうとするなど、可愛らしくロマンチックな素顔を全開にしていた。


「……できたわ、カジ」

 キッチンから、シエの声がした。

 カジが振り返ると、そこには、白いエプロン姿のシエが立っていた。彼女の手には、不格好な、しかしバニラの甘い匂いが立ち昇るスイーツが握られていた。


「……何、これ」

「……クッキーよ。バニラエッセンスを、使ってみたの。……不格好だけど」

 シエは、少し照れくさそうに、スイーツをカジに差し出した。


カジは、そのスイーツを受け取り、一口齧った。

 甘い。バニラの匂いが、口の中に広がる。

 不格好で、少し焦げているけれど。シエの、不器用な愛が、詰まっている。


「……美味しいです、シエ」

「……本当?」

「ええ。世界一、美味しいです」


カジはシエを抱き寄せ、その唇を塞いだ。

 甘いバニラの匂いが、二人の間で、激しく混ざり合う。

 エージェントの正体を忘れ、このつかの間の甘い甘いラブストーリーを、先の結衣サトルの関係対象して、純愛そのものを二人の細やかな肉体関係も綴りながら。


氷の下に隠されていた業火は、今やセーフハウス全体を焼き尽くし、現代の夜の中に静かに、しかし消えることのない炎として燃え上がり続けていた。

 カジとシエの、観測者から当事者へと堕ちた、凄惨で美しい恋の歴史が、ここから本格的に始動したのだ。

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