第6章:良妻の牢獄と罪悪感
監視のスコープの向こう側、足立区のセーフハウスでカジとシエが「エージェントとしての死」を受け入れ、狂おしい純愛の炎に身を投じていた頃。
彼らが防壁を張り、外の世界から隔絶し続けている「幻世」の中心――東京都内の閑静な住宅街にある真新しいアパートの一室では、全く別の、静かで、ひどく息苦しい愛の形が澱み続けていた。
トントン、トントン、と。
規則正しく響く包丁の音が、朝の冷たい空気を微かに震わせている。
結衣は、まな板の上のネギをミリ単位の正確さで刻みながら、ふと手を止め、リビングの奥にある寝室のドアへ視線を向けた。
隙間から漏れる微かな寝息。サトルが眠っている。その規則正しい呼吸音を確かめるたび、結衣の胸の奥で、安堵とも執着ともつかない重い泥のような感情が、ドロリと渦を巻く。
(今日も、彼は私の家にいる。私のベッドで、私の匂いに包まれて眠っている)
その事実だけが、今の結衣のすべてだった。
結衣は鍋に火をかけ、出汁の香りがキッチンに広がるのを確認すると、エプロンで手を拭い、洗面台の鏡の前に立った。
佐島というエリート公安警察官の妻であった頃、この顔には常にファンデーションで隠しきれない青痣や、恐怖に引き攣った影が張り付いていた。だが今は違う。丁寧に整えられた髪、ほんのりと血色を帯びた頬、そして、サトルだけに向けるための「完璧な微笑み」。
鏡の中の自分に向かって、結衣はふわりと笑いかけた。
愛する男を安らぎで包み込む、穢れを知らない貞淑な女。それが、今の結衣の纏う絶対的な鎧だった。
寝室から衣擦れの音がして、サトルがリビングに姿を現した。
寝癖のついた頭を掻きながら、不器用そうに欠伸をする。その左手には、親指しか残っていない。あとの四本は、かつて結衣へのプレゼントを買うための残業中、プレス機に食いちぎられて失われたものだ。
「……おはよう、結衣。いい匂いだな」
「おはよう、サトル君。よく眠れた? もうすぐ朝ご飯できるから、座って待ってて」
結衣は小走りで駆け寄り、サトルの厚い胸に顔を埋めた。彼から漂う、男らしい汗の匂いと、微かなタバコの匂いを深く吸い込む。
だが、結衣の鼻腔は、その奥にこびりついている「別の匂い」を、決して見逃してはいなかった。
甘く、濃厚で、脳の奥底を直接掻き乱すような、暴力的なバニラの匂い。
あの日、血まみれになって結衣の前に現れたサトルの体には、この匂いがべったりと染み付いていた。何日お風呂に入っても、どれだけ結衣が自分の香りのする柔軟剤で彼の服を洗っても、ふとした瞬間に、そのバニラの香りがサトルの毛穴から、呼気から、そして彼の「記憶」から立ち昇ってくるのだ。
――あやさん。
結衣は、サトルの口から一度だけ聞いたその名前を、心の奥底の最も暗い箱に封じ込めている。
自分と別れた後、サトルが死線を共に潜り抜けた女。ただの底辺の売女だと彼は言った。だが、女の直感は、そんな安い嘘をやすやすと見抜いていた。
サトルは、その「あや」という女に、魂の根幹を、そして男としての本能を、完膚なきまでに開拓されて帰ってきたのだ。
かつてのサトルは、結衣を「手の届かない光の世界のお姫様」として扱い、指一本触れることすら躊躇うような、生真面目で奥手な男だった。あの雨の夜、結衣が自ら佐島の暴力から逃れるために体を差し出そうとした時でさえ、彼は罪悪感に押し潰されて逃げ出した。
四十五年間、工場で鉄を削るだけの底辺の生活を送り、女性経験など無いに等しかった男。
それが、どうだ。
今、結衣の目の前にいるサトルは、まるで檻から解き放たれた獣のような、圧倒的なオスの匂いと熱量を隠し持っている。彼が夜のベッドで見せる、あの底なしの体力と、洗練されてはいないが狂気的なまでに女の体を貪る暴力的なまでの性欲。
それは、結衣に対する純粋な愛情から生まれたものではない。あの「あや」という女が、サトルの細胞に直接教え込んだ快楽の回路が、今も彼の中で暴走し続けているのだ。
(悔しい。……でも、絶対に手放さない)
結衣はサトルに背を向け、味噌汁を椀に注ぎながら、唇を強く噛み締めた。
佐島の暴力と支配に怯え、精神を削られてきた結衣にとって、サトルは唯一の救いであり、この世界でたった一つの「絶対的な安全圏」だった。
彼が他の女の匂いを纏っていようと、心が別の場所を彷徨っていようと、関係ない。サトルという物理的な存在が、今、自分の隣にいる。その事実だけを、何が何でも死守しなければならない。
「サトル君、はい。今日はだし巻き卵、上手く焼けたのよ」
食卓に料理を並べ、結衣は向かいの席に座った。
「ああ、いつも悪いな。……美味いよ、結衣の飯は世界一だ」
サトルは目を伏せがちにそう言い、箸を動かす。
その言葉に嘘はないのだろう。だが、彼の瞳の奥には、常に晴れることのない濃い霧がかかっている。
結衣は知っている。サトルが今、猛烈な「罪悪感」に苛まれていることを。
初恋の女である結衣を救い出し、こうして平穏な生活を与えられた。それは彼にとって長年の夢だったはずだ。だというのに、彼の心は、自分を命懸けで守り、未来へ消えていった(とサトルは思っている)「あや」への強烈な未練と喪失感で引き裂かれている。
そして、そんなあやへの想いを抱えながら、献身的で健気な結衣を抱いている自分自身を、サトルは心の底から嫌悪し、軽蔑しているのだ。
結衣は、サトルのその「罪悪感」を、自らの最大の武器として利用することを選んだ。
だから彼女は、決してあやの存在について問い詰めない。嫉妬して泣き喚くことも、サトルの心変わりに気づいている素振りを見せることもしない。
ただひたすらに、完璧で、愛おしく、何も知らない「可哀想で健気な良妻」を演じ続ける。
「サトル君」
結衣は箸を置き、テーブル越しにサトルの無骨な右手に自分の手を重ねた。
「私ね、今が本当に幸せ。佐島さんのことで毎日震えてたのが、まるで遠い昔の嘘みたい。……サトル君が、私を助け出してくれたおかげよ。サトル君がいなかったら、私、どうなっていたか……」
結衣の大きな瞳から、ぽろりと一粒の涙がこぼれ落ちる。それは計算された涙だったが、込められた恐怖と安堵の感情は本物だった。
「結衣……」
サトルの顔が、苦痛に歪む。
彼にとって、結衣のこの純粋な感謝と依存の言葉は、鋭いナイフで内臓をえぐられるような拷問に等しいはずだ。俺はそんな立派な男じゃない。他の女の幻影を引きずりながら、お前を抱いている最低のクズだ。そう叫び出したい衝動を、サトルは必死に喉の奥に押し殺している。
「だから、ずっと一緒にいてね。サトル君がいないと、私、もう生きていけないから」
サトルは、結衣の震える手を、両手で包み込んだ。
「……ああ。俺が、結衣を守る。ずっとだ」
絞り出すようなその誓いの言葉を聞き、結衣は胸の中で冷たく、そして狂おしい勝利の笑みを浮かべた。
これでいい。サトルという男は、底抜けにお人好しで、責任感が強い。私がこうして「あなたに救われた弱い女」であり続ける限り、彼の罪悪感は決して私を見捨てることを許さない。
真綿で首を絞めるような、息の詰まる牢獄。
結衣は、自らその牢獄の鍵を飲み込み、サトルと共に永遠の幻世へと沈んでいく覚悟を決めていた。
***
夜。
リビングの時計が深夜零時を回る頃、アパートの空気は、昼間の平穏なものから、ねっとりとした濃密な熱を帯びたものへと変貌する。
結衣は、薄いシルクのネグリジェを身に纏い、ベッドで横になっているサトルの胸元に滑り込んだ。
「……サトル君、まだ起きてる?」
甘く、鼻にかかった声。結衣の指先が、サトルの厚い胸板をなぞり、腹筋の起伏へと降りていく。
サトルはビクッと体を震わせ、大きく息を吐いた。
「結衣……」
「私、眠れなくて……」
結衣はサトルの上に身を乗り出し、その強張った唇に自らの唇を重ねた。
サトルは一瞬躊躇するが、結衣の柔らかい体が密着し、彼女の甘い吐息が流れ込んでくると、抗うように自らの腕を結衣の背中に回した。
そこから先は、結衣にとって、恐怖と、歓喜と、そして絶対的な依存が入り交じる、狂気の時間だった。
サトルが結衣のネグリジェを引き剥がし、彼女の上に覆い被さる。
四十五年間、ほぼ女性経験のなかった男。それが、あやという劇薬によって開拓された結果、サトルの肉体は、尽きることのないマグマのような精力と、暴走するオスの本能を獲得していた。
「ああっ……! サトル君……っ」
結衣の口から、悲鳴に近い嬌声が上がる。
サトルの愛撫は、決して洗練されたものではない。工場労働で培われた太い指と、不器用な舌が、結衣の体を貪欲に、時には乱暴にまさぐっていく。
それは、まるで自分の中に巣食う「あやへの未練」や「結衣への罪悪感」といったすべての不条理な感情を、結衣の体の中に叩きつけて粉砕しようとするかのような、悲痛なまでの行為だった。
「結衣……っ、結衣……っ!」
サトルが荒い息と共に、己の熱い塊を結衣の奥深くへと突き入れる。
「あぁぁぁっ! 凄いっ……奥、壊れそう……っ!」
結衣の体が弓なりに反り、シーツを掴む指が白くなる。
痛い。苦しい。だが、それ以上に、圧倒的な快感が結衣の脳髄を白く焼き尽くしていく。
佐島との夫婦生活は、ただの暴力的な支配の延長であり、結衣にとって苦痛と恐怖でしかなかった。だから彼女は、セックスという行為そのものを恐れていたはずだった。
だというのに。
今、サトルのこの容赦のない、暴力的なまでの質量と熱量に打ち据えられていると、結衣の細胞の一つ一つが歓喜の声を上げ、どろどろに溶けていくのがわかる。
サトルが激しく腰を打ち付けるたび、欠損した左手の「幻肢痛」が痙攣し、結衣の腰をありもしない幻の指で強く掴むのを感じる。
その幻の指が、誰の記憶をなぞっているのか。サトルが今、目を瞑って狂ったように腰を振っている時、彼の脳裏に浮かんでいるのは、自分なのか、それとも「バニラの匂いのする女」なのか。
結衣はそれを悟りながらも、決して目を逸らさなかった。
(抱いて。もっと、もっと私を無茶苦茶にして)
結衣はサトルの首に腕を絡め、自らも狂ったように腰を浮かせ、彼の暴力をすべて受け止めようと食らいついた。
サトルが「あや」から教え込まれた快楽のすべてを、結衣は自らの肉体で上書きし、搾り取ろうとしていた。
彼が他の女の幻影を見ていようと構わない。今、この信じられないほどの快楽を私に与え、私の奥深くで暴れ狂っているのは、サトル君の「本物の体」なのだ。
セックスに依存しているのは、サトルではない。結衣の方だった。
この圧倒的なオスの熱量で満たされていないと、結衣は自分がサトルを繋ぎ止めているという確証を持てず、不安で発狂しそうになるのだ。
「いいっ……サトル君、もっとっ! 私の中で、全部出して……っ!」
結衣が淫靡な言葉で煽ると、サトルの喉の奥から獣のような咆哮が漏れた。
サトルは形振り構わず、結衣の華奢な体を何度も、何度も打ち据え、ついに限界を迎え、彼女の最も深い場所へと、凄まじい勢いで己の白濁をぶち撒けた。
「あぁぁぁっ……!」
結衣の体も激しく痙攣し、幾度目かの絶頂と共に意識が白濁していく。
バニラの幻影を掻き消すような、濃密な汗と体液の匂いが、寝室に充満していた。
激しい情事の余韻の中、サトルは力尽きたように結衣の隣に倒れ込んだ。
滝のように汗を流し、肩で息をしている。
結衣は、まだ微かに震える自分の体を持て余しながら、そっとサトルの胸に顔を乗せた。
「……サトル君。好きよ。……愛してる」
甘く囁き、彼の額の汗を拭う。
だが、サトルは天井を見つめたまま、結衣の方を見ようとしなかった。
「……ああ。俺もだ」
空虚な、どこか機械的な返事。
サトルの視線の先には、結衣には見えない「過去」と、果てしない「罪悪感」の海が広がっているのだろう。
欲望の捌け口として初恋の女を散々に凌辱し、その体に自分の痕跡を残し続けながら、心は別の女を求めている。その自己嫌悪が、サトルの心を確実に蝕んでいるのが、結衣には手に取るようにわかった。
(苦しいでしょう? サトル君。……でも、絶対に逃がさない)
結衣は、サトルの分厚い腕をしっかりと抱き抱え、その胸に頬をすり寄せた。
サトルの体が、ほんのわずかに強張るのを感じる。
このまま、私が完璧な良妻を演じ、夜はこうして互いの体を貪り合い続ければ、彼はいつか罪悪感の重さに耐えきれなくなり、心を完全に閉ざして私の「所有物」になるだろう。
あやという女の記憶ごと、彼をこの平穏な狂気の牢獄に閉じ込める。
それが、結衣が見つけた、この「幻世」における究極の愛の形だった。
「明日は、サトル君の好きなハンバーグにするね」
結衣が柔らかな声で言うと、サトルは目を閉じ、小さく「ありがとう」と呟いた。
外の世界では、カジとシエという観測者たちが時空の歪みに身を投じ、未来の歴史が激しく胎動し始めている。
だが、このアパートの寝室だけは、結衣の執念とサトルの罪悪感が織りなす、分厚い蜘蛛の巣のような防壁に守られ、窒息するような甘い平和が延々と続いていた。
いつかその防壁が破られ、本当の世界の風が吹き込むその日まで。結衣は毎夜、己の肉体と精神を捧げ、サトルという男を真綿で縛り付け続けるのだ。




