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幻世  作者: 光闇居士


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第5章:氷の下の業火

挿絵(By みてみん)

「ああっ……カジ……、壊して……。私を、あなたの熱で、完全に壊して……!」


【しおの】

世界が断絶し、再構築される瞬間の、あの不快な電子音の残響がまだ鼓膜の奥で鳴り止まない。

 足立区のセーフハウス。無機質なコンクリートの壁、埃を被った革製のソファ、そして乱雑に置かれたタクティカルギア。窓の外には、先ほどまで見ていた「過去の新宿」とは異なる、どこか冷淡で洗練された現代の夜景が、紫色のネオンに縁取られて広がっていた。


帰還した。その事実は、肉体の重みが急速に増していく感覚によって裏付けられる。だが、脳髄だけはまだ、あのアスファルトを焦がす熱量と、肺の奥まで侵食した黄金色の霧の中に置き去りにされたままだった。


「……ハァ、ハァ……っ」


カジは、自分の手が震えていることに気づいた。それは時空跳躍の副作用などではない。体内に残留したバニラの粒子が、細胞の一つ一つを激しく揺さぶり、狂おしいほどの情動を強制的に生成し続けているのだ。

 目の前には、自分と同じように、荒い呼吸を繰り返すシエが立っていた。彼女の漆黒のボディスーツには、激闘の跡である煤と泥がこびりつき、裂けた隙間から覗く白い肌が、室内のデスクランプの光を浴びて艶かしく光っている。


いつもなら、ここで彼女は「バイタルを確認しなさい、カジ」と冷酷に言い放つはずだ。絶対零度の氷の仮面を被り、感情という名のノイズを完全に排して。

 だが、今のシエに、そんな防壁は残っていなかった。

 彼女の黒曜石のような瞳は、異常なほどに潤み、熱を孕んで揺れている。


「シエ……さん……」


カジは、抗えなかった。

 理屈ではない。因果律でもない。ただ、このバニラの熱によって暴かれた、剥き出しの「生の欲求」が、彼を突き動かした。カジはよろめくように一歩踏み出し、シエの細い肩を抱き寄せた。


「……あ……っ」


触れた瞬間、シエの体が微かに跳ねた。

 カジが彼女をソファに押し倒すと、彼女は驚くほど脆く、そのまま沈み込んだ。

 冷徹な先輩。凄腕のエージェント。氷の女王。

 そんな記号のすべてが、今、カジの腕の中で音を立てて砕け散った。


「カジ……カジ……嫌……行かないで……私を、独りにしないで……!」


シエの口から漏れたのは、命令でも拒絶でもなかった。

 それは、喉を掻き切るような切実な慟哭であり、泣きじゃくる少女のような純粋な渇望だった。彼女はカジの首に、折れんばかりの力で腕を絡め、彼の胸に顔を埋めた。

 その頬を伝う涙が、カジの鎖骨を濡らす。

 シエは泣いていた。ずっと、この無菌室のような「幻世」の中で、一人で死者のように生きてきた彼女の魂が、バニラの媚薬によって無理やり叩き起こされ、その反動で溢れ出しているのだ。


「ずっと……ずっと、あなただけを見ていたの……!」

 シエの声は震え、熱を帯び、どこまでも甘く、重かった。

「任務だからじゃない。命令だからじゃない。……あなたが、私の世界に光をくれたから。冷たい私を、見つけてくれたから……!」


彼女の告白は、もはやエージェントとしての矜持など微塵も感じさせない、重く狂おしい「純愛」の吐露だった。あやという未来のエージェントがサトルに見せたそれ以上に、シエの愛情は濃密で、逃げ場のないほどにカジを包み込んだ。


カジは、彼女の背中に回した手に力を込めた。

 シエのボディスーツのジッパーを、震える指で引き下げる。

 現れたのは、これまでの冷酷なイメージからは想像もつかないほど、柔らかく、温かく、そして瑞々しい「女」の肉体だった。

 汗ばんだシエの肌から、バニラの残り香が立ち昇り、セーフハウスの澱んだ空気を甘く塗り替えていく。


「ああっ……カジ……、壊して……。私を、あなたの熱で、完全に壊して……!」


シエは仰向けになり、潤んだ瞳でカジを見上げた。その瞳の奥には、もはや「先輩」としての理知は欠片もない。ただ、愛する男の手によって自分を完膚なきまでに蹂躙され、満たされたいという、狂気的なまでの受容の意志だけが宿っていた。


カジは自らの服をかなぐり捨て、シエの白い肌の上に重なった。

 肌と肌が触れ合った瞬間、時空のノイズが再び彼らの周囲で激しく点滅した。ジジ、ジジジ……という、世界の解像度が下がるような不快な共鳴。だが、それがどうした。

 たとえこの世界が「幻世」という名の偽物であろうと、今、腕の中で震えているこの女の温もりだけは、何者にも否定できない本物だ。


カジの唇が、シエの涙を吸い取り、そのまま彼女の熱い口腔内へと侵入する。

 シエはそれに対し、飢えた獣のように貪欲に応えた。彼女の舌がカジの舌に絡みつき、唾液が混じり合い、銀色の糸を引く。彼女はカジの背中に爪を立て、絶え間なく愛の言葉を囁き続けた。

「愛してる……愛してる、カジ……。私の全部、あげる……。だから、あなたも、私だけのものになって……!」


カジの下腹部で暴れ狂う熱が、限界を迎えた。

 彼は、シエの震える最奥へと、己のすべてを一気に突き入れた。


「あぁぁぁぁっ!!」


シエの口から、魂を振り絞るような嬌声が弾けた。

 彼女の体内は、驚くほど熱く、滑らかで、そして吸い付くような湿り気でカジを迎え入れた。激しい摩擦熱が、二人の大脳辺縁系を焼き、理性を灰にする。

 シエはカジの腰を自分の脚で強く締め付け、弓なりに体を反らせた。彼女の白い胸が激しく上下し、その頂がカジの胸板に押し潰される。


そこには、もはやエリートエージェントとしてのスマートさなど無かった。

 互いの汗を吸い、体液を撒き散らし、ただひたすらに「個」と「個」が混ざり合おうとする、泥臭く、しかし神聖なまでの生への肯定。

 シエの奉仕は、あやがサトルに見せた「計算された快楽」とは決定的に異なっていた。彼女のそれは、自らのすべてを削り、カジという存在に捧げようとする、献身的で、かつ独占的な重い愛の結晶だった。


「いい……っ、カジ、そこ……あぁっ! もっと、もっと強く……!」


シエはカジの動きに合わせて何度も絶頂を迎え、そのたびに彼の名前を、叫ぶように呼び続けた。彼女の涙がカジの頬にかかり、熱い呼気が首筋を焼く。

 カジもまた、自分がこれほどまでに激しい情動を持っていたことに驚いていた。

 理屈っぽい性格? 論理的な思考? そんなものは、シエの柔肉がもたらす圧倒的な快感と、彼女が注ぎ込んでくる執念に近い愛情の前では、何の意味も持たなかった。

 カジはシエの細い腰を掴み、さらに深く、彼女の魂の深淵にまで触れるかのように、激しく腰を打ち付けた。


セーフハウスの空間が、二人の熱気とバニラの香りに呼応するように、黄金色の靄を纏い始める。

 ブロックノイズが激しく走り、二人の肉体が一瞬だけ黄金の粒子となって透け、再び実体化する。

 時間の連続性が失われ、現在と過去、そして未来が、この狭い部屋の中で一点に収束していく。

 だが、二人は止まらなかった。

 時空が崩壊しようと、自分たちが歴史のバグとして消去されようと、構わない。

 今この瞬間、互いの拍動を感じ、熱い粘膜を通して「愛」という名の絶対的なエネルギーを交換し合っていること。それだけが、この不確かな宇宙における唯一の「特異点」だった。


「カジ……私を見て……、私だけを……刻み込んで……っ!」


シエはカジの顔を両手で挟み込み、無理やり自分を見つめさせた。彼女の目は、悦楽の果てにトロンと蕩け、しかしその奥には、カジという男を永遠に自分の檻の中に閉じ込めておきたいという、底知れぬ愛の狂気が宿っていた。

 彼女はカジの唇を奪い、噛み付くようにして彼と繋がった。


ついに、限界が訪れる。

 カジはシエの最も深い場所へ、己の命の種を、熱い衝動を、一滴残らず解き放った。


「あああああっ……!」


シエの体が激しく痙攣し、彼女もまた、今までにない最大の絶頂へと駆け上がった。

 白光の中、二人の意識は一つに混ざり合い、時間の概念が消滅した。

 バニラの香りが爆発的に広がり、黄金色の粒子が二人の肉体を優しく、しかし残酷に包み込む。


しばらくして。

 静寂が、セーフハウスに戻ってきた。

 窓の外では、現代の紫色のネオンが、相変わらず無関心に明滅している。

 ソファの上で、カジとシエは、互いの汗ばんだ体温を感じながら、重なるようにして横たわっていた。


シエは、カジの腕の中で小さく丸まり、時折、思い出したように小さく鼻を啜っていた。

 仮面は、もう戻らなかった。

 彼女はカジの胸に耳を当て、彼の心音を確認するように聞き入っている。

「……カジ」

 掠れた、しかし蜜蜂のように甘い声。

「はい……」

「私……もう、元には戻れないわ。……あなたなしでは、一秒も、息ができない」

 シエはカジの手を取り、自分の頬にすり寄せた。その目は、エージェントとしての鋭さを完全に失い、ただ愛に溺れた一人の女の、蕩けるような情愛に満ちていた。


「……僕もです、シエさん。……いや、シエ」

 カジは彼女の額に優しくキスを落とした。

「あやとサトルのあの夜を覗いた時、僕たちは壊れたのかもしれない。でも……今の僕は、壊れる前よりもずっと、自分が『生きている』って感じる」


二人の周囲には、まだ微かに黄金色のバニラの粒子が舞っていた。

 それは、自分たちがもう普通の人間には戻れないという宣告であり、同時に、この狂った「幻世」を二人で生き抜くための、血よりも濃い契約の証でもあった。


氷の下に隠されていた業火は、今やセーフハウス全体を焼き尽くし、現代の夜の中に静かに、しかし消えることのない炎として燃え上がり続けていた。

 重く狂おしい純愛の幕開け。

 カジとシエの、観測者から当事者へと堕ちた、凄惨で美しい恋の歴史が、ここから本格的に始動したのだ。

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