第4章:熱の伝染と覚醒する媚薬
白み始めた新宿の空は、まるでひび割れた鉛のようだった。
昨夜の情事の熱がまだ路地裏に澱む中、ラブホテルの分厚い防音ドアがサプレッサー付きのアサルトライフルによって吹き飛ばされる。それを合図に、カジとシエの「観測」は、命懸けの「介入」へとシフトした。
「サトルたちが動くわよ。ポイント・ブラボーへ移動」
シエのくぐもった声がインカムから響く。カジは隣の雑居ビルの屋上から、狙撃用のタクティカル・ライフルのスコープを覗き込んだまま応じた。
「了解。……しかし先輩、息が荒いですよ」
「……気圧のせいよ。余計な口を叩かないで」
インカム越しのシエの呼吸は、明らかに熱を帯びていた。
無理もない。カジ自身の心臓も、肋骨を突き破りそうなほど暴力的に脈打っているのだ。原因は明確だった。ラブホテルの換気扇から、そして今まさに窓ガラスをぶち破って二階から飛び出してきた「あや」の体から放たれる、致死量に近いほどの濃密なバニラの香り。
時空跳躍の触媒であるその甘い匂いは、今や完全に大脳辺縁系を侵す「媚薬」として、エージェントたちの理性を内側から溶かしていた。
眼下の裏通りでは、狂気の逃走劇が幕を開けていた。
サトルが丸腰であやを抱え込み、ゴミの山へと飛び降りる。そこへ、未来からの工作員たちと、アパートを襲撃したアジア系マフィアの残党が入り乱れて殺到した。
「……バカな男だ。自分から死地に飛び込むなんて」
カジは舌打ちしながら、ライフルの引き金に指をかけた。
風速、湿度、コリオリの力を瞬時に脳内で計算する。サトルの背後からマチェーテを振り下ろそうとしたヤクザの頭部を、カジの放った亜音速弾がサイレントに吹き飛ばす。血飛沫が舞うが、パニック状態の群衆と怒号に紛れ、銃撃の出所に気づく者はいない。
「カジ、右斜め上。黒服の三人。位相分断糸の使い手よ」
「任せてください」
カジはボルトを引き、次々と未来の工作員たちの足元を正確に撃ち抜いていく。殺せば歴史が変わる恐れがあるため、あくまで「致命傷を避けた行動不能」を狙う神業の狙撃だ。コンクリートを砕き、跳弾を利用して敵の姿勢を崩させる。
だが、未来の工作員もただの案山子ではない。一人がカジの狙撃地点を逆算し、ビルを見上げて重力破砕扇を構えた。
――撃たれる。
カジが回避行動を取ろうとした瞬間、彼の頭上からワイヤーアクションで滑空してきたシエが、空中で二丁拳銃を乱射した。放たれた特殊炸裂弾が工作員の顔面で閃光を放ち、重力波の軌道を強引に逸らす。
「ボーッとしてないで! サトルたちが車を奪ったわ!」
着地と同時にカジの腕を掴み、シエが走り出す。その際、彼女の汗ばんだ肌がカジの腕に触れ、電気のような鋭い熱が走った。シエの瞳は、戦闘の興奮とバニラの媚薬効果によって、妖しく潤んでいた。
二人は裏路地に隠しておいた大型のステルス・モーターサイクルに飛び乗った。カジがハンドルを握り、シエが後ろからカジの腰に腕を回す。
大通りに出たサトルのワンボックスカーを、パトカーや黒塗りのセダン、さらに未来のエージェントたちが操る漆黒のチェイサー・ドローンが猛追していく。
「追いつきます!」
カジはスロットルを全開にした。排気音を極限まで抑えた巨大な電動モーターが唸りを上げ、ステルス塗料で闇に溶け込んだバイクが、朝の新宿を黒い弾丸となって駆け抜ける。
前方を走るサトルの運転は、エージェントであるカジの目から見ても異常だった。
重く鈍重なはずのワンボックスカーが、まるで四輪駆動のスポーツカーのようにアスファルトに吸い付き、あり得ない角度でドリフトをキメている。
「あいつ、人間離れしてる……。物理的にハンドルを握っているのは右手だけのはずだぞ」
「幻肢痛よ。失われた左手の神経回路が、車の挙動と空間の摩擦係数を直接読み取っているの。バニラの触媒効果で、脳の処理能力が限界突破している証拠ね」
シエがカジの背中に顔を押し付けたまま、耳元で解説する。その吐息が、ライディングジャケット越しでも分かるほど熱い。
「右からドローン接近!」
シエの警告と同時、バイクの側面に未来のチェイサー・ドローンが突っ込んできた。シエはカジの腰に片腕を回したまま身を乗り出し、もう片方の手で小型のEMP(電磁パルス)グレネードをドローンの吸気口へ正確に叩き込んだ。青白い閃光と共にドローンが火花を散らし、後続のパトカーのフロントガラスへと激突する。
さらに前方の交差点では、未来の工作員の一人がワンボックスカーの屋根に飛び乗ろうと陸橋から跳躍していた。
「先輩、飛びます!」
カジは廃車のボンネットをジャンプ台代わりにし、バイクを宙に浮かせた。
空中でシエがバイクのシートから蹴り出し、ワンボックスカーの屋根へと飛び移る。驚愕する未来工作員の首にシエの長い両脚が絡みつき、凄まじい遠心力を利用したルチャリブレのような関節技で、工作員を走行中の車上から路上へと無慈悲に放り投げた。
シエはそのまましなやかに宙を舞い、並走するカジのバイクの後部シートへと完璧なタイミングで着地する。
「……やりすぎです、先輩。歴史が変わったらどうするんですか」
「彼らは私たちが処理した。だから歴史は『サトルたちが自力で逃げ切った』という結果に収束するわ。問題ない」
シエはそう言い捨てると、再びカジの首筋に顔を埋め、その匂いを嗅ぐように鼻を押し当てた。「……それに、あいつらを早く片付けないと、私が……保たない」
カジは必死にハンドルを切りながら、左手の端末で新宿区の信号機の制御システムにハッキングを仕掛けた。サトルの車が通過する瞬間だけ青にし、追っ手が交差点に進入する瞬間にすべての信号を赤に変える。
交差点で盛大な玉突き事故が発生し、追っ手の足が完全に止まった。
サトルのワンボックスカーが、細い裏路地へと逃げ込んでいく。
その直前だった。
ワンボックスカーの助手席の窓から、身を乗り出したあやが、後方を――正確には、ステルス迷彩を展開して高架下に停止したカジたちのバイクの方を、振り返った。
カジのヘルメットのバイザー越しに、あやの底知れぬ深さを持った黒い瞳と視線が交差する。
あやは、パニックに陥った売女の演技をほんの一瞬だけ解き、先ほどのシエの空中戦を称賛するように、微かに、だが明確に「ウインク」をして見せたのだ。
「……気づかれていたか」
カジが息を呑む。
「彼女も未来のエージェントよ。私たちのステルスくらい、とっくに見破ってるわ。自分たちの逃走ルートが不自然に開けていくこともね」
シエがカジの肩に顎を乗せ、甘ったるい声で笑った。
「あやは、私たちを『都合のいい共犯者』として利用したのよ。……ずるい女。自分の体を触媒にして男を操り、時空も、私たちも狂わせるなんて」
サトルたちの車が、足立区の印刷工場の方へと消えていくのを見届け、カジはバイクを近くの廃ビルの屋上へ停めた。
ここからなら、印刷工場の出入りを完全に監視できる。
ヘルメットを脱いだ瞬間、濃密なバニラの匂いが再び肺を満たした。あやから放たれた時空の触媒は、風に乗り、この足立区の上空にまで目に見えない黄金色の粒子となって充満していた。
「……ハァ、ハァ……」
シエが、バイクから降りるなり、コンクリートの壁に寄りかかって荒い息を吐いた。彼女の長い足が震えている。
「先輩! 撃たれたんですか!?」
カジが慌てて駆け寄ろうとすると、シエはそれを手で制した。
「来ないで……っ」
シエの顔は、発熱したように赤く、その黒曜石の瞳は水気を帯びてトロンと潤んでいた。彼女は自らのタクティカルスーツの首元のジッパーを乱暴に引き下げ、豊かな白い胸元を露わにする。
「暑い……。血が、沸騰しそう……」
「副作用の限界です。解毒剤を……」
「違うわよ、バカ」
シエはふらつく足取りでカジに近づくと、その襟元を掴み、強引に引き寄せた。
「解毒剤なんかで、この熱が下がるわけないじゃない。……気づいてないの? 私たちは今、あのサトルとあやが交わした『狂気』にあてられて、発情してるのよ」
「せ、先輩……っ」
カジの言葉は、シエの熱く濡れた唇によって塞がれた。
鉄の血の匂いと、甘いバニラの匂いが混ざり合う、深く、貪るようなキス。
シエの舌が、カジの口腔内を蹂躙し、彼の理性を根こそぎ奪い去っていく。カジは抗うことができなかった。いや、本当は彼自身も、この冷たい仮面の下に隠された、シエという女の圧倒的な熱に触れたくて仕方がなかったのだ。
「……カジ」
唇を離し、銀色の糸を引きながら、シエがカジの耳元で囁く。その声は、かつての無感情なエージェントの面影は微塵もなく、ただ一人の男を欲しがる、情念に燃える女のものだった。
「私、ずっと……あなたのこと、見てた。あなたが、理屈っぽくて、不器用で……でも、誰よりも優しい目をしてること、知ってたわ」
言葉を紡ぐシエの手が、カジの胸板から腹筋をなぞり、ゆっくりと下方へ滑っていく。
彼女はそのまま、コンクリートの床にひざまずいた。
エリートエージェントであり、誰よりも誇り高く冷徹だったはずの先輩が、雨上がりの薄暗い廃ビルで、カジの足元に崩れ落ちるように傅いている。見上げる彼女の黒曜石の瞳には、かつての絶対零度の氷は消え失せ、ただカジという男を崇拝し、渇望するような、熱を帯びた服従の色だけが浮かんでいた。
「せ、先輩……何を……」
カジの声が裏返る。頭では止めなければと警鐘が鳴っているのに、体が指一本も動かない。
「しっ……。いいから、私に任せて」
シエの震える細い指が、カジのタクティカルパンツのベルトを外し、スライダーをゆっくりと引き下げる。
外の冷たい空気とは裏腹に、暴れ狂うような熱情の塊となったカジの分身が、窮屈な布地から解放された。シエはそれを見るなり、愛おしげに細い吐息を漏らし、自らの冷たい頬をそこにすり寄せた。
「ああっ……」
カジの口から、情けないほどの甘い苦悶が漏れる。
シエの絹のような髪がカジの下腹部をくすぐり、彼女の吐息から香るバニラの媚薬が、神経の先端までを焼き尽くしていく。
彼女は両手でカジの熱を大切に包み込むと、潤んだ瞳で彼を上目遣いに見つめながら、その柔らかな唇をゆっくりと沈めた。
「……っ! シエ、さん……!」
想像を絶する快感が、カジの脊髄を駆け上がった。
シエの口腔内は驚くほど熱く、滑らかだった。彼女はただ奉仕しているのではない。まるで、カジのすべてを味わい尽くし、自分の魂に刻み込もうとするかのように、熱を持った粘膜と舌のうねりで、執拗に、そして芸術的なほど丁寧に愛撫を繰り返す。
チュル、ズチュ……という卑猥な水音が、雨だれの音と混ざり合って廃ビルに響き渡る。
無機質だった彼女が、こんなにも甘い音を立てて自分を求めている。その事実が、カジの自尊心と征服欲を爆発的に満たし、同時に彼女への狂おしいほどの愛おしさを溢れさせた。
「んっ……じゅぷ……カジ……私、ずっと、こうしたかった……」
口の端から銀色の唾液をこぼしながら、シエが熱に浮かされたように囁く。彼女の指先が、カジの敏感な裏側を優しく、時には焦らすようになぞり、さらなる絶頂へと男を追い詰めていく。
カジの理性が、完全に飛んだ。
「……もう、限界だ」
カジはシエの肩を掴んで引き起こすと、彼女の背中を冷たい壁へと乱暴に押し付けた。
シエは痛がるどころか、待っていましたとばかりに妖艶に微笑み、自らカジの首に腕を回してその太ももに長い脚を絡めた。
「来て、カジ……私の奥まで、全部……っ!」
躊躇いはなかった。エージェントとしての規律も、未来の歴史も、すべてがどうでもよかった。カジは、極限まで昂ぶった己のすべてを、シエの最も深い奥底へと一気に突き入れた。
「ああっ!!」
交わった瞬間、シエの口から絶叫に近い嬌声が弾けた。彼女の体内は、あやがサトルを包み込んだそれ以上に熱く、狂おしいほどの力でカジを締め付けた。
激しい摩擦熱が二人の脳髄を白く焼き尽くしていく。カジが打ち付けるたびに、シエは涙を流しながらカジの背中に爪を立て、その名を何度も、何度も呪文のように叫び続けた。
それは、ただの肉欲ではなかった。感情を殺されてきた二つの魂が、初めて自分自身の意思で「愛」という名の業火に飛び込んだ、痛切で、美しすぎる儀式だった。
二人が激しく絡み合う中、廃ビルの空間に、奇妙な現象が起き始めていた。
カジたちが吐き出す熱い呼気と、空気中に漂うバニラの黄金色の粒子が反応し、彼らの周囲の空間が、微かに「ノイズ」のように歪み始めたのだ。
シエの肌に触れるカジの指先が、一瞬だけ、テレビのブロックノイズのように透け、また実体に戻る。
ジジ、ジジジ……という、耳鳴りのような低い共鳴音が、彼らの周囲を取り囲み始めていた。
それは、サトルとあやの過去の時間が彼らを拒絶し、元の時間軸――監視の拠点である「幻世」へと、二人を引き戻そうとする時空の修復力(強制送還)の兆しだった。
だが、快楽の絶頂と、互いの魂を貪り合うことに夢中になっているカジとシエは、その残酷なタイムリミットの足音に、まだ気づいてはいなかった。ただひたすらに、この作られた時間の中で見つけた「本物の熱」を、永遠に刻み込もうとするかのように、激しく互いを求め合い続けていた。




