第3章:過去へのダイブ――触媒と同化した女
世界が裏返るような、圧倒的な吐き気だった。
三半規管を直接ミキサーにかけられたかのような強烈な眩暈とともに、小川加持の体は濡れたアスファルトに叩きつけられた。全身の細胞が一度バラバラに分解され、粗雑な接着剤で無理やり繋ぎ合わされたような激痛が走る。
「……っ、が、ぁっ……」
カジは四つん這いになり、胃液を路地裏の側溝にぶちまけた。酸っぱい臭いが鼻をつくが、それ以上に、肺の奥にべったりと張り付いたあの濃密な「黄金色のバニラ」の匂いが、神経を麻痺させるように残っている。
荒い息を吐きながら顔を上げると、雨に濡れた新宿・歌舞伎町のケバケバしいネオンが、水たまりの中で乱反射していた。
横殴りの雨の中、カジのすぐ傍らで、静かな衣擦れの音がした。
「……バイタルチェック。脈拍120、血圧低下。空間跳躍による自律神経の不全ね。装備の欠損なし。弾薬、フルロード」
梓だった。
彼女は、カジのように地面を這い蹲ることもなく、まるでただの段差を飛び降りたかのような平然とした佇まいで、自らの大型自動拳銃のスライドを引いて薬室を確認していた。その美しい顔には、未知の領域へ放り出された恐怖も、混乱も、一切の感情が浮かんでいない。
「先輩……無事、ですか……」
「ええ。位相分断糸によるスーツの裂傷が三箇所あるけれど、肉体へのダメージはゼロよ。それより、息を整えなさい。ここは戦場よ」
カジは壁に手をついて立ち上がり、ひどく混乱する頭を振った。
自分のとっさの行動――未来人に向けて「機関」があやの残留分子から試しに作ったバニラカプセルを砕いたこと――が、この未曾有の事態を引き起こしたのだ。だというのに、この無頓着で無感情な女先輩は、カジを責める言葉を一切口にしない。それどころか、未知の時空の裂け目へ吸い込まれようとする自分を追って、後先考えずに飛び込んできたのだ。
なぜだ? 特務機関のエージェントは、自己の生存と任務の完遂を最優先するよう教育されている。バグを引き起こした同僚など、切り捨てるのがセオリーだ。
それに、時間を跳躍するなどという事象が、物理的にあり得るのか?
カジの理屈っぽい性格が、処理能力を超えた現実に悲鳴を上げ始める。因果律はどうなる。タイムパラドックスは。論理的破綻の渦に呑まれそうになったその時、パンッ、と乾いた銃声が路地裏に響いた。
「考えている暇はないわよ、カジ。仕事の時間」
シエが、迷いなくサイレンサー付きの銃口を路地の奥へ向けた。
その視線の先。ゴミ袋の山の向こうを、血まみれの男が必死の形相で走っていくのが見えた。左手を庇いながら、右手で何かを大事そうに抱えている。
サトルだ。
「……サトル? なぜ、あいつがここに……」
「ここは多分少し『過去』の新宿よ。あの男が追手から逃げ回っていた、最初の夜」
シエは淡々と自分の想定を事実かのように告げると、サトルの背後から迫るアジア系マフィアの残党に向けて、正確無比なタップ撃ちを二発放った。男たちが膝から崩れ落ちる。
「先輩、何をしているんです! 過去への干渉は……!」
「Nの指示は『サトルを保護しろ』よ。それがどの時間軸に存在するサトルであろうと、ターゲットが死ねば私たちの任務は失敗する。理屈をこねる前に手を動かしなさい」
その冷徹なまでの合理性。カジは圧倒されながらも銃を抜き、シエに並んでサトルの逃走経路を確保するための援護射撃を開始した。
理屈は後だ。今は、この女の狂気じみた精神力に付き合うしかない。
二人は気配を消し、サトルの逃走を俯瞰できる非常階段の上へと移動した。
そこでカジたちは、歴史の分岐点とも言える「あの瞬間」を目撃することになる。
路地裏を力なく彷徨うサトルの前に、けばけばしいドレスを着た小柄な女――あやが、絶妙なタイミングで飛び出してきたのだ。
あやはサトルにぶつかったふりをすると、追手の気配を察知した瞬間、まるで怯えた娼婦のようにサトルの首に腕を回し、強引に唇を奪って身を隠した。
「……見事な手際ね」
スコープ越しにその一部始終を見ていたシエが、感心したような、しかし底冷えのする声で呟いた。
「ただの偶然じゃないってことですか」
「歩幅、視線の誘導、接触のタイミング。すべてが計算し尽くされたプロの動きよ。パニックに陥ったターゲットの心理状態を完璧に掌握して、自分を『救い主』あるいは『利用しやすい女』として誤認させている」
カジも背筋が寒くなるのを感じた。
未来の特務機関から送り込まれたエージェント。それが「あや」の正体だ。あの小柄で脆弱に見える体の中に、自分たちと同じか、それ以上に冷酷な計算式が詰まっている。彼女はサトルを救うためではなく、金型に近づくための「最善の偽装」として、あの接触を仕掛けたのだ。
あやはそのまま、サトルを誘導するように、紫色のネオンが点滅する場末のラブホテルへと転がり込んでいった。
カジとシエは、隣接する雑居ビルの屋上から、指向性マイクと熱源センサーをホテルの小窓へと向けた。
薄暗い密室。オートロックの扉が閉まった直後から、その部屋の空気は異常な熱を帯び始めた。
サトルが、獣のような唸り声を上げてあやをベッドに押し倒す。
四十五年間で溜め込んだすべての屈辱、無力感、恐怖。底辺で削り取られてきた人間の、理性を完全に投げ捨てた暴力的な蹂躙が始まった。
「……止めなくていいんですか」
カジがマイクの音量を絞りながら、僅かに眉をひそめた。サトルの行為は、明確な犯罪だ。
「私たちの任務は道徳の維持じゃない。生存の確保よ。それに……」
シエはセンサーの画面から目を離さず、言葉を切った。
ベッドの上のあやは、抵抗するどころか、サトルのすべてを驚くほどの熱と湿度で包み込んでいた。暴力的な行為を「極上の快楽」へと変換し、男の狂気を完全に手なずけていく。
ズチュ、ズチュという卑猥な水音と、あやの喉の奥から漏れる淫靡な喘ぎ声が、マイク越しに二人の鼓膜を直接撫で回す。
それだけではなかった。
ラブホテルの換気扇から、むせ返るような「バニラの匂い」が路地裏にまで漏れ出してきたのだ。
それはただの香水ではない。カジが未来人に叩きつけた、時空を裂いたあの「バニラエッセンスのカプセル」と全く同じ、神経の奥底を直接焼くような、濃厚で甘い触媒の匂いだった。
「……くっ」
カジは無意識に首筋を掻き毟り、浅い息を繰り返した。
生身の男女の泥臭く、しかし純粋すぎる激しい性交の音。そして、大脳辺縁系を強烈に刺激するバニラの香り。
感情を殺す訓練を受けてきたカジの肉体が、自らの意思とは無関係に、恐ろしいほどの熱を帯び始めていた。下腹部に重い血が溜まり、喉が異常に渇く。
ふと隣を見ると、シエの様子も明らかにおかしかった。
スコープを覗き込む彼女の白い頬は、熱を帯びたように赤く染まり、その呼吸は不規則に乱れている。銃のグリップを握る指先が、白くなるほど強く食い込んでいた。
「……先輩。大丈夫ですか。顔が赤い」
カジが探るように声をかけると、シエはビクッと肩を震わせ、冷ややかな視線でカジを睨み返した。
「空間跳躍の副作用よ。急激な気圧変化と時空の歪みによる、自律神経の乱れ。……あなたも、妙な汗をかいているわよ」
「……ええ。副作用、ですね」
それが言い訳に過ぎないことは、互いにわかっていた。
サトルとあやの、命を削るような熱量。それに当てられ、無菌室で生きてきた彼らの内側に眠っていた「人間としての業」が、バニラの匂いを起爆剤として目を覚まそうとしているのだ。
やがて、部屋の中の嵐が過ぎ去った。
すべてを出し尽くしたサトルが、あやの胸の中で無防備な寝息を立て始める。
その瞬間だった。
あやの瞳から、淫靡な熱が完全に消え失せた。彼女は冷涼な、底知れぬ深さを持った眼差しで、床に転がった「金型」を静かに見つめた。
それは、恋する女のものでも、売女のものでもない。任務を遂行する極寒の捕食者の目だった。
「……なるほどな。そういうことか」
カジは、すべてを理解した。
「何がわかったの?」シエが息を整えながら問う。
「バニラの匂いですよ。俺が未来人のエージェントに砕いたのは、サトルの身体に残されたあやの残留分子の成分から作られた『カプセル』でした。だが、あやはカプセルなんて持っていない。あの強烈な匂いは、彼女の体液から……いや、細胞そのものから発せられていると考えられる」
カジの論理的な推論が、恐るべき真実を導き出す。
「あやは、ただのエージェントじゃない。彼女自身が、金型を起動し、時空を跳躍するための『生きたバニラエッセンス(触媒)』として肉体を改造されているんです。だからサトルは、彼女と交わることで、未来へ繋がる時空のマーカーを無意識に体に刻み込まれている」
驚愕の事実だった。そこまでして歴史を改変しようとする未来の組織の執念。
雨が上がり、白々しい夜明けが近づいていた。
「……私たちの目的は明確になったわね」
シエが、スコープを片付けながら立ち上がった。
「ええ。元の時間軸に戻るためには、金型と、触媒である『あやのバニラ』の秘密を解析するしかない」
「まずは、Nに暗号通信を送るわ。過去へ漂着した事実を伝え、指示を仰ぐ」
シエが通信機のコンソールを開こうとした瞬間、カジの分厚い手が、その細い手首をガシッと掴んだ。
「……待ってください」
「何をするの、カジ。手を離しなさい」
シエの冷たい声が響くが、カジは手を緩めなかった。
「Nに連絡して、どうなるんです。俺たちが過去に干渉したと知れば、Nはこの時間軸ごと俺たちを『消去』するかもしれない。あの男は、そういう合理性を迷わず選ぶ」
「それが私たちのルールよ。勝手な判断は命取りになるわ」
「俺は死にたくない。それに……」
カジは、ホテルの小窓を一瞥した。
「このまま、この異常な『幻世』の歯車がどう回るのか、俺たちの目で最後まで見届けませんか。サトルと、あの女の行き着く先を」
それは、特務機関のエージェントとしては完全な規律違反だった。感情に流され、任務を放棄するに等しい反逆。
シエはカジの手を振り解こうと力を込めた。だが、カジの目は真っ直ぐにシエを捉えて離さない。
数秒の、永遠のような沈黙が流れた。
シエの黒曜石のような瞳が、わずかに揺れた。いつもなら、問答無用でカジをねじ伏せ、通信を強行するはずの彼女が。
「……バカね」
不意に、シエの口から漏れた声は、カジが今まで聞いたこともないほど、しおらしく、微かな震えを帯びていた。
彼女は通信機のコンソールを静かに閉じると、濡れた髪を鬱陶しそうにかき上げた。
「あなたがそこまで言うなら、仕方ないわ。通信は傍受されるリスクもある。……今回は、あなたの我儘に付き合ってあげる」
その信じられないほどの譲歩に、カジは思わず目を見開いた。
あの氷の女王が、俺の意見に折れた?
シエはカジの驚きを隠すように背を向け、屋上の階段へと歩き出した。その耳元が、夜明け前の薄明かりの中で、ほんのりと赤く染まっているのを、カジは見逃さなかった。
「……ありがとうございます、先輩」
「勘違いしないで。これは、状況を客観的に判断した上での、最も生存率の高い選択をしただけよ」
背中越しのその強がりは、これまで彼女が纏っていた完璧な鎧の、決定的な綻びだった。
二人を狂わせたのは、時空跳躍の副作用か、それともサトルたちが放つ命の熱量か。
確かなことは、この過去の世界に落ちた瞬間から、カジとシエの間にある「絶対零度の同僚」という関係性が、音を立てて溶け始めているということだ。
バニラの甘い残り香が漂う新宿の空の下。元の世界へ帰るための、そして互いの心の奥底に隠された熱に触れるための、新たな監視の日々が幕を開けようとしていた。




