第2章:散乱する甘香(エッセンス)と時空の裂け目
深夜二時。世界は死に絶えたかのような静寂に包まれていた。
通りを隔てた雑居ビルの監視拠点。カジは光学スコープの冷たい接眼部に右目を押し当て、微動だにせずターゲットのアパートを見つめていた。
緑色の暗視視界の中で、サトルと結衣はベッドの上で重なり合い、泥のような眠りに落ちている。二人の熱源は安定しており、心拍数も呼吸も、偽りの平穏を維持するための一定のリズムを刻んでいた。
カジの隣で、シエはパイプ椅子に浅く腰掛け、モニターの青白い光に照らされながら、無表情にデータをスクロールさせていた。彼女の指先は、戦うためだけに鍛え上げられた冷徹な機械のように、寸分の無駄もなくキーを叩く。
「……因果律が、震えてる」
カジが、スコープから目を離さずに呟いた。
「気のせいよ。ただの静寂」
シエは、コーヒーを一口すすり、カップをデスクに置いた。
「違う。理屈じゃない。この静寂は、何かが爆発する前の、真空の状態だ」
カジの理屈っぽい性分が、論理を超えた直感として警告を発していた。彼はスコープのフィルターを『微粒子解析モード』に切り替える。
サトルの体に纏わりつく黄金色の粒子――『バニラの痕跡』。それが、今、異常な動きを見せていた。
粒子は、サトルの左手から湧き出し、彼の胸元で渦を巻き、まるで目に見えない何かに、外側から強く引き寄せられているように、激しく脈動しているのだ。
「先輩。バニラの濃度が、コンマ一秒ごとに倍増してる。……来るぞ」
カジの声が、緊張に強張った。
その瞬間、監視拠点の空気が、物理的な圧力を伴って歪んだ。
モニターの映像が砂嵐に変わり、サーバーが悲鳴を上げる。
「熱源反応、ゼロ。空間歪曲、臨界突破」
シエの平坦な声が、戦闘モードへと切り替わった。彼女はデスクの下から、愛用の大型自動拳銃を取り出し、スライドを引く。
――そこだ。
カジは、スコープを放り出し、セーフハウスの窓から夜の闇へ飛び出した。
ターゲットのアパートの屋上。そこに、二つの影が、空間の裂け目から染み出すようにして現れた。
黒い、未来的なタクティカルギアに身を包んだ、男女のペア。
男は、カジを上回る巨躯で、背負った武器が異様な存在感を放っている。
女は、小柄で、動きは俊敏。彼女の手には、何も握られていないように見えたが、指先が不自然な角度で空間を弄んでいた。
彼らの纏う気配は、カジたちが特務機関の無菌室で叩き込まれた、感情を削ぎ落とされた殺戮者のそれと、驚くほど似通っていた。
ただ、彼らの装備は、カジたちのものよりも、数世代先の、未知のテクノロジーを内包している。
――同じ『場所(機関)』の匂いだ。
カジは、直感的に悟った。彼らは、未来の特務機関から送り込まれた、自分たちの「先輩」あるいは「後輩」にあたる存在。実力のレベルは、装備を除けば、さほど離れてはいない。
屋上のコンクリートに着地したカジは、一言も発さず、巨躯の男へ向かって突進した。
相手も、カジの接近を予期していた。男は背負った武器を、一瞬にして手に構える。
それは、武器というよりも、巨大な黒い『扇』のようだった。男がそれを横一文字に振るった瞬間。
――静寂が、世界を原子レベルで破砕した。
音はなかった。ただ、扇が振るわれた軌跡に沿って、空間が、不可視の巨大な拳に殴られたかのように、爆発的に粉砕されたのだ。
屋上のコンクリートが、手すりが、給水塔が。サイレントに、だが絶大なる爽快感を伴って、微塵に砕け散り、砂となって夜風に舞う。
男の使う武器は、『重力破砕扇』。扇状に放射される不可視の重力波が、面積で攻撃対象を捉え、その構造を分子レベルで崩壊させる、人間離れした、絶大なる破壊力を持つ兵器。
カジは、扇が振るわれる予備動作を読み、間一髪で真横へ転がり込んだ。重力波はカジの髪を掠め、彼の背後の空間を、静かに、だが徹底的に粉砕した。
「遅れているわね、現代の『型』は」
未来人の女が、冷ややかな声で呟いた。彼女の指先が動く。
「貴様ら……!」
カジが吼え、巨躯の男に肉薄しようとした瞬間。彼の頬に、赤い線が走った。
痛みは後から来た。
「先輩! 不可視の『糸』だ!」
カジの背後に着地したシエに向けて、叫んだ。
彼女の大型自動拳銃が、女の未来人へ向かって、火を噴く。
未来人の女は、銃弾の軌道を読み、最小限の動きで躱しながら、カジたちの周囲の空間に、不可視の糸を張り巡らせていた。
彼女の武器は、『位相分断糸』。空間そのものを微細に分断する不可視の糸。
カジは、自分の周囲の空気が、カミソリの刃の群れに変わったことを察知した。一歩でも動けば、全身を千切りにされる。
屋上という限られた面積の中で、カジとシエ、そして二人の未来人による、激しい戦いが激走する。
巨躯の男が、重力破砕扇を振るうたび、屋上の構造物が、サイレントに、だが壮絶な破壊音を立てて(カジたちの脳内では、それは爽快な破壊音として響いていた)、砂となって消える。
小柄な女が、位相分断糸を操るたび、空間が微細に震え、カジたちの皮膚を、服を、冷酷に切り裂いていく。
カジたちの連携は、完璧だった。互いの動きを完全に信頼し、死角を補い合い、敵の攻撃をギリギリの回避で凌ぎながら、反撃の機会を伺う。
だが、相手も同じ教育プログラムの匂いを纏っている。彼らは、カジたちの連携を、動きを、まるで自分の手のひらの上のことのように、完全に読み、先回りして攻撃を仕掛けてくるのだ。
汗が噴き出し、筋肉が悲鳴を上げ、神経が極限まで研ぎ澄まされる。汗ばむ展開。一瞬の油断も、思考の遅れも、死へと直結する。
「貴様ら……どこから来た」
重力破砕扇の衝撃を躱し、コンクリートの砂に塗れながら、カジが問うた。
カジの問いを無視した巨躯の男が、扇を畳み、冷徹な目でカジを見下ろしながら答えた。
「……ターゲット(サトル)は、世界の因果律を乱す、バグだ。消去する」
「ふざけるな。あいつは……ただの町工場のオッサンだ」
「それは、貴様の『型』が古すぎるから見抜けないだけよ」
位相分断糸を張り巡らせながら、未来人の女が冷笑した。
「あいつは、時空を跳躍する概念を持つ『金型』を起動させるための、鍵。あいつが生きていれば、世界の歴史は、何度も、何度も、幻の世界へと分岐し、崩壊を繰り返す」
「……だから、何だって言うの」
シエの声が、闇に響いた。彼女は、位相分断糸の網を、銃弾の嵐で無理やり切り裂きながら、巨躯の男へ向かって肉薄していた。
「私たちはエージェント。命令に従い、ターゲットを保護する。世界の未来なんて、知ったことじゃない」
シエの完璧な、そして躊躇のない接近。巨躯の男は、重力破砕扇を再び展開し、シエを面積で捉え、破砕しようとする。扇状に放射される不可視の重力波。
――そこだ。
カジは、男が扇を振るう予備動作の、さらに一瞬先の『因果律』を読んだ。
彼は、位相分断糸の網を、自分の体の一部を犠牲にして強引に突き破り、巨躯の男の死角へと飛び込んだ。
カジの右手には、いつの間にか、サトルの監視中に、「機関」があやの残留粒子を採集・分析したコピー品を持ち出した、『高濃度バニラエッセンスカプセル』が握られていた。
「これでも、喰らえ!」
それは直感だった、普通の戦い方は歯が立たないことを短時間で見抜いたカジは、巨躯の男のタクティカルギアの隙間、彼の胸元にある、おそらくは彼らの時空跳躍装置(金型)のコアへと向かって、カプセルを叩きつけた。
カプセルが、砕け散った。
その瞬間。
――甘い、強烈な、媚薬のようなバニラの香りが、爆発した。
濃密なバニラの霧が、屋上の空間を、一瞬にして包み込む。
それは、ただの匂いではない。時空跳躍のための、生体触媒(触媒)が、高濃度で散乱した状態。
巨躯の男の胸元の装置が、散乱したバニラの霧と反応し、異常な共鳴音を上げた。
キィィィィィィィン! という、脳を直接削り取るような、甲高い時空の共鳴音。
散乱したバニラの霧を、カジは肺の奥深くまで、限界まで吸い込んだ。
黄金色のバニラの飛沫が、カジの血液に、細胞に、神経に、染み込み、同化していく。
カジの目の前で、空間が、まるでガラスのように、派手な音を立てて砕け散った。
砕け散った空間の向こう側に、黄金色に発光する、渦巻く混沌とした『時空の裂け目』が現れる。
巨躯の男の装置が暴走し、散乱したバニラの霧が、カジの肉体を触媒として共鳴したことで、意図しない時空の裂け目が、そこに発生したのだ。
猛烈な重力が、カジを、黄金色の裂け目の中へと、引き摺り込もうとする。
「……っ!」
カジの体が、時空の裂け目の中へと、吸い込まれていく。黄金色の光が、カジの肉体を、細胞を、分解し、時空の彼方へと、運び去ろうとする。
「カジ!」
シエの声が、絶叫となって響いた。
彼女は、重力波の衝撃を躱し、崩れ落ちるコンクリートの砂の中から、カジへと向かって、手を伸ばした。
カジの手が、時空の裂け目の中に完全に消えようとした、その瞬間。
シエは、後先考えず、自分を縛る全ての命令を、規則を、エージェントとしての理性を、踏み倒し。
散乱した黄金色のバニラの霧の中へ、カジを失うまいと、その身を躊躇なく飛び込ませた。
「先輩! ダメだ!」
カジの声が、時空の渦に飲み込まれていく。
「……うるさい。あんたを、一人で行かせるわけないでしょ」
シエの声が、甘い、重い、バニラの匂いに溶けて、カジの鼓膜に届いた。
黄金色のバニラの霧に包まれた、カジとシエの体は。
砕け散った空間の向こう側、渦巻く黄金色の時空の裂け目の中へと、二人して、猛烈な重力に引き摺られながら、吸い込まれていった。
黄金色の光が、二人を包み込み、分解し、時空の彼方へと、運び去る。
屋上には、砕け散った空間が修復される音と、甘い、濃密なバニラの残り香だけが、夜風に吹かれて漂っていた。
未来人の男女のペアは、暴走する装置を制御しながら、カジたちが消えた黄金色の裂け目を、無表情に見つめていた。
こうして、世界で一番冷徹で、無頓着だった観測者たちは、バニラの霧に誘われ、自らの命を、そして感情を凄惨で熱狂的なステージのど真ん中へと、引き摺り下ろされた。
甘いバニラの香りとともに、時空の裂け目の中へと、激走を始めた。




