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幻世  作者: 光闇居士


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第1章:無菌室の観測者と甘い痕跡

挿絵(By みてみん)

『幻指』と『幻影』の極限の生体感覚、現世と未来からなる狂気と愛の逃避行。サトルとあやが駆け抜けたあの夜、彼らを密かに監視する「冷徹な眼」があった――。


【しおの】


高感度光学スコープの冷たいレンズ越しに覗き込む世界は、いつだってひどく滑稽で、無防備だ。

 倍率を三十倍に引き上げると、通りを隔てた雑居ビルの三階、その南向きの窓の奥で営まれる「完璧な日常」が、無音の映画のように眼球へ直接流れ込んでくる。

 午後七時十五分。東京都内の、とある閑静な住宅街に身を隠した真新しいアパートの一室。

 システムキッチンの前に立つ女――結衣が、エプロン姿で小鍋をかき混ぜている。湯気が上がり、彼女の柔らかい横顔を包む。食卓にはすでに、色合いの整った和食が並べられていた。やがて、玄関のドアが開き、作業着姿の男――サトルが帰宅する。結衣は小走りで迎えに出ると、満面の笑みで男の鞄を受け取り、その厚い胸に頬を寄せた。

 絵に描いたような、甘く温かい新婚生活の風景。

 だが、右目にあてたスコープから視線を外し、肉眼で薄暗いコンクリートの壁を見つめ直した瞬間、小川加持カジの口から漏れたのは、ひどく冷めた、乾いたため息だった。


「……まるで、よく出来た水槽の金魚を眺めている気分ですね」


カジが呟くと、背後で微かな衣擦れの音がした。

「金魚はもっと不規則に動く。あれは、ただのプログラムされたループよ」


感情の起伏を一切感じさせない、冷ややかなアルトの声。

 振り返ると、部屋の隅に置かれたパイプ椅子の上で、シエが長い脚を投げ出して座っていた。

 特務機関におけるカジの直属の先輩であり、数々の非合法任務を完璧に処理してきた凄腕のエージェント。切れ長で涼しげな目元と、モデルのようにすらっとしたプロポーションは、誰もが振り返るほどの「冷たい美人」だ。

 だが、その実態は、カジの想像を絶するほどに無頓着で、無愛想な女だった。

 彼女は今、ヨレヨレになった大きめの男物のシャツを無造作に羽織り、髪は寝癖がついたまま。片手にはコンビニのプラスチック容器に入った冷めたナポリタンを持ち、フォークに巻きつけて無表情に口へと運んでいる。その視線はカジではなく、机の上に並べられた複数の監視モニターの熱源反応サーモグラフィに釘付けだった。


「先輩。ナポリタン、シャツに飛んでますよ」

「……後で洗う」

「昨日も同じこと言って、そのまま捨てたじゃないですか。経費の無駄です」

「私が何を着ようと、任務の遂行率には影響しないわ」


シエはナポリタンを飲み込むと、傍らのブラックコーヒーを一気に流し込み、モニターのチャンネルを切り替えた。

 この女には「女らしさ」どころか、人間としての基本的な生活への執着が欠落している。特務機関の徹底した感情排除教育の、最も純粋な成功例。それがシエというエージェントだった。


カジは再びため息をつき、スコープに目を戻した。

 彼自身の性格は、シエのように完全に機械化されているわけではない。29歳のエリートとして訓練を受けてきた自負はあるが、同時に、物事の「理屈」や「因果律」が通っていないと、どうにも納得できないという生真面目で理屈っぽい性分を抱えていた。

 だからこそ、この任務には苛立ちを隠せなかった。


――なぜ、俺たちはこんな男の「おままごと」を監視している?


カジの脳裏に、数日前の、あの凄惨な記憶が蘇る。

 足立区の裏通りにある、有機溶剤とインクの臭いが澱んだ古びた印刷工場。

 カジは、特務機関を統括する謎の黒ずくめの男――上司である『ナオキ』の密命を受け、お台場の港倉庫で死闘を繰り広げたサトルの身柄を確保し、あの工場へと向かった。

 そこでカジが目にしたのは、常識では到底説明のつかない「異常な戦闘の痕跡」だった。

 重装甲の工作員部隊が、まるで目に見えない巨大なトラックに轢き潰されたかのように、物理法則を無視した角度でひしゃげ、絶命していたのだ。高性能な爆発物を使った形跡はない。ただ「空間そのものが歪んで弾け飛んだ」としか思えない、狂気の惨状。

 そこで震えていたサトルは、呆然としながらカジたちに語った。

 ――あやが、あいつらを吹き飛ばして、消えたんだ……。

 底辺の売女を名乗っていた、あやという小柄な女。彼女が単身で、未知の武装集団を壊滅させ、そして文字通り「空間から消失」したというのだ。さらにサトルは、すべての発端となった「金型」という時空跳躍の概念を持つ謎の装置の存在を口にした。


理屈が通らない。オカルトか、集団幻覚か。

 エリートとして論理的な思考を叩き込まれてきたカジにとって、その印刷工場の惨状は、脳の処理能力を超えるバグだった。

 徹底的な調査と、その「あや」という女の行方を追うべきだ。そう進言したカジに対し、Nが下した命令は異常なほどシンプルだった。


『小川、お前は梓と組め。そして、サトルという男の日常をただ「監視」し、水面下で保護し続けろ。決して接触するな。世界がどう回ろうと、奴を生かしておくことが最優先だ』


納得がいかなかった。時空跳躍? 金型? 未来からの暗殺者?

 すべてが荒唐無稽でミステリアスすぎる。そんな得体の知れない爆弾を放置したまま、ただのアパートの監視役など、エリートのプライドが許さなかった。


「……不満そうな顔ね、カジ」

 モニターから目を離さず、シエが唐突に言った。

「顔を見て分かるんですか」

「ため息の周波数が、さっきから不平不満の帯域を上下してる。どうせ、因果律が成立しないとか、論理的じゃないとか、脳内で愚痴をこぼしてるんでしょ」

「……図星です。先輩は気にならないんですか? あの印刷工場の惨状。そして、あの男の持つ特異性。あの男に関わった連中は、ヤクザも、公安も、謎の工作員も、すべて異常な死に方をしています。だというのに、当の本人はこうして、幼馴染の女と新婚ごっこです。理不尽にも程がある」


シエは空になったナポリタンの容器をゴミ箱に放り投げ、パイプ椅子から立ち上がった。すらりとした長身がカジの背後に立ち、スコープの光学フィルターのダイヤルに冷たい指を伸ばした。


「私たちが気にすべきは、世界の理不尽さじゃない。ターゲットが生存しているか、それだけよ。……ほら、フィルターを『微粒子解析モード』に切り替えてみなさい」


カジが言われるがままにスコープを覗き込むと、視界が青黒いサーモグラフィへと切り替わった。

 アパートの窓越しの映像。サトルと結衣の体温が赤く表示される中、カジは息を呑んだ。

「……なんだ、これは」


サトルの左手――四本の指が欠損したその手首の周囲と、彼の分厚い胸板のあたりに、黄金色に発光する奇妙な「粒子」が、微かなもやのように纏わりついているのが見えた。

「有機的な残留粒子よ。成分分析の結果は、限りなく『バニラエッセンス』に近い人工化合物」

 シエの淡々とした声が耳元に響く。

「バニラ、だと……? そんなものが、なぜあいつの体にこびりついている?」

「さあね。ただ、あのアパートの換気扇から検出されるデータも、サトルの周囲だけ異常な濃度でその粒子が停滞している。まるであの男が、その匂いを手放すまいと細胞レベルで縛り付けているようにね」


カジは背筋に冷たいものが這い上がるのを感じた。

 あの夜、サトルと共にいた「あや」という女が纏っていたという、強烈なバニラの香り。それはただの香水などではない。サトルの肉体に深く染み込み、物理的な痕跡マーカーとして、今もなお彼を過去の狂気へと繋ぎ止めているのだ。

 そして、この論理を超越した「甘い痕跡」こそが、いずれカジたち自身をも時空の彼方へと引き摺り込む火種になることなど、この時のカジには知る由もなかった。


「……気持ち悪いですね」カジは吐き捨てるように言った。「目に見えない匂いの鎖に繋がれたまま、別の女と飯を食っているわけですか」

「それが人間というバグの塊よ。合理性なんてどこにもない」

 シエはそう言い残すと、再びパイプ椅子へと戻り、モニターの前に陣取った。


カジは光学フィルターを通常モードに戻し、再びアパートの室内を観察した。

 食事が終わり、サトルはソファに深く腰掛けている。テレビのバラエティ番組が流れているが、彼の目は明らかに虚空を彷徨っていた。その左手は、無意識のうちに失われたはずの指を動かすような、奇妙な痙攣を繰り返している。幻肢痛。あやと共に死線を潜り抜けた時に覚醒した、空間を把握する触覚の残滓。

 そこへ、後片付けを終えた結衣がやってきた。

 彼女はサトルの隣に座ると、ごく自然な動作で、その痙攣する左手を両手で包み込んだ。


「……痛むの? サトル君」

 指向性集音マイクが、ガラスの振動を拾って結衣の甘く優しい声をクリアに再生する。

「いや……大丈夫だ。なんでもない」

 サトルは曖昧に微笑み、結衣から視線を逸らした。


結衣は、公安のエリートであった佐島という夫の狂気的なドメスティック・バイオレンスから逃れ、サトルの元へ転がり込んできた。サトルにとって彼女は初恋の女であり、かつて光の世界にいた手の届かない存在だった。

 今、その女が、自分だけを頼り、自分だけを見つめている。

 本来なら、サトルにとってこれ以上の幸福はないはずだった。

 だが、カジの冷徹な分析眼は、結衣という女の持つ「静かな異常性」を正確に見抜いていた。


結衣は、サトルの心が自分ではなく、姿を消した「あや」という売女に向いていることを、おそらく確信している。

 普通の女なら、そこで嫉妬に狂うか、問い詰めるだろう。だが、結衣は違った。彼女はあえてサトルの本心を完全に「無視」するという、恐ろしく賢明で残酷な手段を選んだのだ。

 彼女は、徹底的に「愛おしく、献身的な良妻」を演じ切っている。

 サトルの好物ばかりを並べた手料理。彼を一切否定しない従順な態度。そして、傷ついた男の自尊心を包み込むような、底なしの甘やかし。

 それは、サトルという男の罪悪感を刺激し、真綿でじわじわと首を絞めるような束縛だった。俺がこの女を見捨てるわけにはいかない。俺がこの女を幸せにしなければならない。そんな強迫観念を、結衣は日常という名の檻の中で、サトルの脳髄にミリ単位で植え付けているのだ。


「……恐ろしい女だ」

 カジは無意識に呟いていた。

「結衣のこと?」と、シエがモニターから目を離さずに応じる。「サバイバル能力としては優秀よ。寄生する宿主を逃がさないための、最適な適応進化ね」

「先輩には、あれが愛情に見えますか?」

「愛情? 定義が不明確な単語は使わないで。あれは『独占欲』と『生存本能』の擬態よ。私たちエージェントがターゲットを取り込む手口と何ら変わりないわ」

「……」

 カジは反論を飲み込んだ。シエの言う通りだ。愛だの情だのといった不確かなものは、この無菌室のような観測拠点には存在しない。


夜の帳が完全に下りる頃、アパートの寝室の灯りが消えた。

 スコープを暗視モード(ナイトビジョン)に切り替える。緑色の視界の中で、二つの熱源がベッドの上で重なり合っていくのが見えた。


『サトル君……こっち、向いて』


集音マイクが、結衣の艶を帯びた、ひどく甘い囁きを拾い上げる。

 昼間の良妻の顔から一転し、夜の結衣はサトルに対して驚くほど積極的で、そして淫らだった。それは、かつてあやがサトルに教えた「極上の快楽」を上書きしようとするかのような、執念すら感じさせる誘惑だった。

 結衣の細い指がサトルの分厚い胸を撫で下ろし、柔らかな唇が彼の首筋に吸い付く。

 サトルは抵抗しない。いや、抵抗できないのだ。初恋の女が、自分のような底辺の男にすべてを委ね、喘ぎ声を上げている。その事実が、彼の男としての劣等感を満たし、同時に強烈な罪悪感で身動きを取れなくさせている。

 緑色の視界の中で、サトルの体がゆっくりと結衣の上に覆い被さる。

 布が擦れる音。肌と肌がぶつかる湿った音。そして、結衣の鼻にかかった、計算し尽くされたかのような愛らしい嬌声が、電波に乗って無機質な監視部屋に響き渡る。


「……」

 カジはスコープから目を離すことなく、ただ淡々と、その交尾の光景をデータとして脳内に処理していた。

 情欲は湧かない。エロティシズムの欠片も感じない。

 そこに在るのは、過去のあやの影に怯える男と、現在の女(結衣)の執念が絡み合う、ひどく滑稽で息苦しい泥仕合の光景だけだ。


ふと視線を横にずらすと、シエもまた、サーモグラフィのモニター越しに二人の熱源の交わりを無表情に眺めていた。

「……心拍数上昇。体表温度、三十八度まで上昇。ターゲットのバイタルに異常なし」

 シエはまるで工場の機械の稼働状況を確認するかのように、平坦な声で数値を読み上げるだけだ。彼女の美しい顔には、照れも、嫌悪も、好奇心すら浮かんでいない。


カジは、自分たちがひどく異質な存在であることに改めて気づかされた。

 通りを隔てた先にあるのは、血と汗と、嘘と罪悪感に塗れた、熱気を帯びた人間の営みだ。

 対して自分たちは、一切の匂いを持たない「無菌室」の中から、その熱をただ冷ややかに計測しているだけの観測者。シエの無関心な横顔を見ていると、カジは自分の中の人間性が少しずつ削り取られ、機械の歯車にすり替わっていくような薄ら寒さを覚えた。


「……俺たちは、いつまでこの幻世の観客を続けるんでしょうね」

 カジは集音マイクのボリュームを下げながら、独りごちた。

 サトルが生きているこの平穏な日常は、結衣という女が必死に作り上げ、そして俺たち特務機関が外部から防壁を張って維持している、ただの作られた「幻の世界」に過ぎない。

 そして、その幻世を外側から無表情に眺め続ける俺たち自身もまた、本当の世界の熱に触れることのない、ガラスケースの中の死体と同じだ。


「命令が解除されるまでよ。それ以外の理由が必要?」

 シエはモニターから目を逸らし、初めてカジの方を向いた。

 暗い部屋の中で、モニターの青白い光が彼女の端正な顔立ちを照らし出している。その黒曜石のような瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、カジの探るような視線を射抜く奇妙な熱が過ったように見えた。

 だが、シエはすぐに目を伏せ、ポケットから煙草を取り出して火をつける。


「考えるだけ無駄よ、カジ。私たちはエージェント。観客席からステージに降りた瞬間、死ぬわ」


吐き出された紫煙が、部屋の澱んだ空気に溶けていく。

 カジは何も答えず、再びスコープに目を戻した。

 視界の奥では、サトルの左手にこびりついた「バニラの痕跡」が、暗視カメラの緑色の光の中で、微かな黄金色の警告サインのように点滅し続けていた。

 それが、自分とシエという「冷徹な観測者」たちを、凄惨で熱狂的なステージのど真ん中へと引き摺り下ろす時限爆弾のスイッチだとは知らずに。カジはただ、論理の通らないこのミッションの終わりを、静かな苛立ちと共に待ち続けていた。

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