9.
なだらかな斜面を登りきると、それまで木々で遮られていた視界が一気に開けた。頭上に雲一つない青い空が広がる。
初春の柔らかな日差しはさほど強くないが、歩き続けたために息が弾んでいた。マティアスは立ち止まって上着を脱ぎ、傍らの枝に掛ける。吹き抜ける風が心地よく、わずかに滲んだ汗を冷ましてくれた。
眼下に広がる景色を見下ろす。
麓には石造りの立派な建物が見えた。喧騒から切り離された静謐な空気を纏うそれは、王都でも最古の歴史を持つ神殿だ。その白い壁が、取り巻く木々の淡い緑を背景に、目に眩しい。
建物の前には馬車が何台も列をなして停まっており、手持ち無沙汰に立ち話をする御者たちの姿が小さく見えた。厩舎に納まりきれないほどの馬車の数から、相当な人数の招待客が訪れていると思われる。
神殿の扉は閉ざされているため、中の様子は窺い知れない。だが、あの場では今まさに、クロイツァー侯爵令息とロシュタール伯爵令嬢の婚礼の儀が執り行われている。
すべてが、あるべき形に収まったわけだ。
安堵する一方で、心がひどい喪失感に覆われるのを感じた。これですべてが終わった。とうとう終わってしまった。マティアスは深く溜め息を吐く。
この婚礼について知ったのは、ほんの数日前だった。商取引の相手との雑談で、話題に上ったのだ。以前より一年早かったため、マティアスは焦りながら、すぐさま日時と場所を調べた。さらに、神殿の周囲を見て回り、様子を伺うのにちょうどいいこの丘を見つけた。そして当日を迎えたのだった。
風に乗って神殿の鐘の音が届いた。重々しくも澄んだ音が幾重にも重なって和音となり、響き渡ってくる。
その音色が、マティアスの心の奥底から、無理矢理押し込めていた記憶を引きずり出した。
来年の初夏だった。エレナの婚約が、突然白紙に戻されたのだ。そして間を置かずに、ユリウスの新たな婚約者として発表されたのがフィオナの名だ。
当然ながら、さまざまな憶測が飛び交い、領地にいたマティアスの耳にも届いた。最初は、侯爵令息を姉妹で奪い合ったのだという話だ。その後に、エレナの素行不良が原因で婚約を破棄されたのだという内容に変わった。クロイツァー侯爵やロシュタール伯爵が、ユリウスとフィオナが想い合うようになったため、エレナが身を引いたのだと説明しても、噂は消えなかった。
王都に戻って参加した夜会でも、人々は無責任な憶測を口にしていた。その様子に、マティアスは苛立たしさを感じながらも、何もできなかった。
噂がどうにか落ち着き始めた頃、ロシュタール家からハルフェン家へ一通の書状が届いた。内容は縁談の申し込みだ。マティアスの妻にエレナをどうだろうか、という問い合わせである。
父の執務室に呼ばれたマティアスは、心底驚き、すぐには反応できなった。
借金まみれの子爵家に対して、裕福な伯爵家が長女を嫁がせようと働きかけるなど、通常であればあり得ない話である。しかも、破格の持参金が提示されていた。婚約を破棄された娘を、家の体面を保つために厄介払いしようとしているのだ、と受け取られても致し方ないだろう。
父は書面に視線を落としては、マティアスの顔を見上げ、また書面を読み直し、眉間に深い皺を寄せる。父の危惧はもっともだ。悪い噂のたつ令嬢を跡継ぎの妻にするなど、懸念材料になる。
だが、マティアスに迷いはなかった。父に意向を確認されて、妻に迎えたいと即答した。
彼女がどのような事情を抱えていようと、伯爵家がどのような思惑を持っていようと、どうでもいいと思えた。エレナが自分の妻になるのなら、なにを引き換えにしてもいいとさえ思った。
数日を掛けて、自分がどれほどエレナに思いを寄せていたのかを主張し続け、マティアスは父から承諾を得た。その後はトントン拍子に話は進み、半年後にマティアスとエレナは式を挙げた。
結果として、エレナの持参金はハルフェン家を救うことになった。彼女は、提示されたものより遥かに多い額を、実家から持たされていたのだ。そのすべてが水路の整備に投入された。おかげで、半分ほど土砂に埋もれたまま、資金不足で手付かずだった設備が完全に復旧した。長年に渡って領地を悩ませていた問題がひとつ減ったのだ。
それからは、領地全体がゆっくりと、だが確実に回復していった。領民たちの顔に活気が戻る。それをエレナと共に喜んだものだ。
ふいに、丘の上を一際強く風が通り抜けた。マティアスは風に煽られる前髪を押さえて、眼下の神殿を見つめ直した。
あの中で今、彼女は純白のドレスに身を包み、誓いの言葉を述べているのだろう。隣には彼女を大切に想う夫が立ち、周囲には二人を祝福する親族や友人たちが集っていることだろう。
神殿から視線を外し、マティアスは俯いた。足元に背丈の低い草が群生し、風に揺れてさやさやと乾いた音を立てていた。




