8.
タウンハウスの執務室で、マティアスは机上の帳簿に目を通していた。確認を終えてからそれを閉じ、次の帳簿を手に取る。数字を追い、すべてが順調であるのを確認した。領地経営は着実に改善しており、以前ほどに金銭的な不自由はない。来年辺りから少しばかりは余裕すら持てるだろう。
今の彼は、貧乏子爵家の跡取りではなく、家を建て直した子爵家当主代理だった。在学中から、記憶にある知識を頼りに投資を始め、得た財を領地に還元し、少しずつ農地を増やしていった。さらに学院五年生の夏休みに株でそれなりの金額が手に入ったときは、それを元手に、知己を得た商人と共に商売を始めている。
扱ったのは、裂き織りと呼ばれる織物である。
ハルフェン家の領地は繊維産地だ。湿潤な地域性から、良質な麻を産出していた。その麻畑が大水害で壊滅的な被害を受けてしまい、それが家の傾いた直接の原因だ。とはいえ近年は増産できるまでになり、おかげで冬場の手仕事で作られる織物も増産が可能になった。
裂き織りは、古布を再利用するための方法だ。高価で貴重な布を簡単に捨てるわけにはいかない庶民の文化でしかなく、これまで貴族には見向きもされていなかった。だが、新品の麻布を使用して、デザイン性を高めて魅力的に見せると、独特の風合いもあって人気が高まった。さらにこの数年で、部屋着やポーチ、雑貨、さらにアクセサリーまで、多種の品を揃えることで、富裕層に流行らせることができたのである。
そして今もまた、領地にとって大きな収入源となった。エレナがかつて望んだように。
実を言えば、これはエレナの発案だった。結婚から半年後に彼女が最初に言い出したときには、マティアスは懐疑的であり、それでも彼女の願いはなんでも叶えたいと思っただけだ。それが何年か続けるうちに、見事なほどエレナの思惑通りに、王都の貴族女性に浸透していった。
昔も今も、エレナに頼っている事実に苦笑する。
書類入れから紙束を取り上げると、それはちょうど裂き織りに関した内容だった。領地から届いたばかりの書類には、次の冬に作成する品とデザインの案が図入りで記載されていた。それを評価し、意見を記すと、領地宛てに発送するための書類入れに載せた。
学院を卒業して以降、マティアスの居場所はタウンハウスのままだった。領地の屋敷には、まったく戻っていない。父が体調を崩した際に気候の穏やかな領地で静養するように薦め、代わりに王都での仕事にはマティアスが留まった形だ。
領地に戻る気にはなれなかった。なにせエレナとの結婚後は、二人で領地の立て直しに尽力したのだ。ふとした折りに、灌漑設備や水路の整備を進めながら、一緒に巡った様々な景色が思い出された。そのたびに目の奥が熱くなる。あの地には彼女との想い出が多すぎる。
それだけではない。親族が皆あの地で暮らしており、その誰とも顔を合わせたくなかったというのも大きい。過去を思い出すまでは、彼らもたいせつな家族だった。母親を早くに亡くした身には、叔母が母代わりだったし、官吏として王都に滞在する父の代わりに、領地経営を教えてくれたのは叔父だった。幼い頃を共に育った従姉妹たちのことは、実の妹のように思っていた。
だが彼らそれぞれが、エレナを死なせた一因だった。最大の要因はマティアス自身とわかっていても、恨まずにはいられない。たとえ今回は、誰もエレナに会うことすらないとしても。
エレナとは、卒業するまでまったく接触しなかった。彼女から見れば、マティアスは同学年の一人でしかないだろう。入学して間もない頃に、廊下でぶつかりかけたときに二言三言しゃべっただけだ。授業によっては同じ学級になったこともあるので、ひょっとしたら顔と名前くらいは覚えてくれているかもしれない。
彼女の顔と声が、明確に、明瞭に思い返された。
普段の生真面目な顔、話しかけてくるときの穏やかな笑顔、ケンカしたときの泣き顔や怒った顔、その後の拗ねた顔。それらの表情に伴って、彼女の声が聞こえてくる。柔らかで落ち着いた声、はずんだ声、沈んだ声、湿った声。記憶の中にいるエレナは、いろいろな姿をマティアスに見せてくれた
だが、それは今の彼にとって幻想でしかない。今のマティアスが校内で見たエレナは、表情などよくわからないほど遠くから、瞬間的に一瞥した姿ばかりだった。声など、授業中の発言以外には、あのぶつかりそうになったときにしか聞いていない。
感情の波が押し寄せ始め、マティアスは無理矢理に帳簿に集中した。




