10.
マティアスとエレナは、結婚後すぐに領地に移り、まずは水路の復旧工事から始めた。共に現場へ赴き、技師や職人と膝を突き合わせる。その後、新規事業を始め、並行して推し進めた。
二人とも、それこそ朝から晩まで休む間もなく動き回った。
だが多忙な毎日でも、朝は揃って食卓につき、夜には暖炉の傍らで紅茶を飲みながらその日の出来事を語り合う。そのような穏やかな時間を、二人は欠かさなかった。
やがて木々が葉を散らし、吹く風が冷たくなる。間を置かず暖炉に薪をくべる時期がやってきた。
冬の訪れと共に、マティアスが二十三歳の誕生日を迎えた。
その日の夕食には、普段とは違う料理が並んでいた。濃厚なポタージュ・スープ。バターソースのかかったタラのボイル。温野菜を添えた牛肉のロースト。デザートにはベリー・タルト。卒業式の夜以来の豪華さだった。
クズ野菜が浮いているスープや、食べ飽きたニシンやマトン、デザートとは名ばかりのブレッド・プディングではない。マティアスは目を丸くした。
「こんなときくらいはいいでしょ? 我が家の家計も、たまにだったら、このくらいは用意できるようになったのよ」
エレナがにこやかに言う。マティアスの「こんなに贅沢をしてもいいのか」という内心を読み取ったようだ。
「あなたの好物をクララ叔母様にお聞きしたの。メニューはマルガレーテ様と相談して決めたわ。どうかしら? お口に合うといいのだけど」
向かいの席で、エレナが小首を傾げた。
「美味しそうだ。ありがとう」
「ふふ、喜んでもらえてよかったわ」
満足そうに笑うエレナを見て、マティアスも自然と口元を緩めた。彼女は叔母や従妹とも仲良くやってくれている。
食事を終え、居間へと場所を移した。ティー・テーブルでエレナが紅茶を淹れると、それをマティアスが暖炉の脇にある椅子へと運ぶ。他者がいない場であれば、貴族としての見栄を張ることもないと考えるのは、実利主義の二人ならではだった。
紅茶を飲みながら一息ついていると、その間に部屋から一度出て行ったエレナが戻ってくる。マティアスの椅子の隣に立った彼女が、両手を差し出してきた。
「これを使っていただきたいの」
エレナの手にあったものを反射的に受け取る。それは銀の懐中時計だった。
掌に収まる大きさだが、見た目に反した重さがある。文字盤を保護する金属の蓋には、小さな傷がいくつもあり、長いこと使い込まれてきたのだと一目でわかる。
蓋に、蔦の模様が彫られている。マティアスはその凹凸を指先でなぞった。エレナが愛用している手鏡にあしらわれているものと、同じ意匠だ。
「この柄、君の手鏡と同じだな」
マティアスは、学生のときに温室で共に捜したことを思い出した。エレナが微笑みながら頷く。
「ええ、そうよ。それから万年筆もこの柄なの。知ってたかしら?」
彼女が書類仕事に使っている万年筆を指しているのは、察しが付いた。キャップに螺鈿細工が施された美しい万年筆だ。だが、愛用しているのは知っていても特に気にもせず、じっくり見たことがなかった。本体の胴軸に描かれている、という説明に、マティアスは首を横に振った。
「いや、わからないな」
「あら残念、執務室に置きっぱなしだわ。明日、見てみて」
「そうするよ」
「この三つはね、どれも私の父方の家に、代々伝わってきた品なのよ。魔女の遺品と呼ばれているわ」
「魔女の遺品?」
「ええ。なんでも父方の一族は、有名な魔女を何人も輩出した家系らしいの。代々、長女が引き継いできたそうよ。魔女の血を繋ぐのは女だから、かしらね。それで伯母が亡くなったときに、私が受け継いだの」
エレナは穏やかに語る。懐かしむように、ふっと目を細めながら。
マティアスも、その古い噂については、耳にした覚えがあった。お伽噺の類いであろうと思うが、それでもエレナにとってその懐中時計が特別な品だというのは伝わってくる。
「この魔女の遺品には、言い伝えがあるわ。大切にしていたら、願いごとが叶うんですって。遺品には魔女の魔力が残っていてね、強く強く心から願ったことを叶えてくれるの。手渡されたとき、そう父から聞いたわ」
「そんな大切なもの、僕が貰うわけにはいかないよ。それに長女が受け継ぐ品だと先ほど言っていただろう?」
マティアスが時計を返そうとする。だが、エレナは人差し指を唇に当てた。
「受け継ぐのは、先代が最後まで手元に残していた品だけよ。実はね、持ち主は、譲る相手を自由に決めていいの。元々は、大切な人に贈るための品として、何十と用意されたらしいわ。だからどんどんと減ってしまって、今では三つしか残っていない、というわけ」
エレナは、マティアスの手に自分の小さな手をそっと重ねる。
「私はね、あなたに持っていてほしいの」
まっすぐな言葉だった。重ねられた手から温もりが伝わる。エレナの真剣な表情を前にして、マティアスは静かに頷いた。託されたのは、懐中時計だけではない。もう一つは、彼女の思いだ。
「ありがとう。大切にするよ」
マティアスがそう言うと、エレナがふわりと微笑んだ。その表情を見て、マティアスも微笑み返す。
手の中の時計から、チクタクと規則正しい小さな刻みが伝わっていた。




