11.
歯車が狂う、という慣用句が、マティアスの頭に浮かんだ。
思い返すと、歯車が狂い始めたのは、結婚してから五度目に迎えた年末だった。実際は、気づかないところでとっくにおかしくなっていたのかもしれない。だが、マティアスにとって分岐点になったのが、ヴァルデック伯爵家から封書が届いた日だ。
その手紙を届けたのはクララだった。父のすぐ下の妹であり、マティアスにとって母とも言える存在だ。別棟ではあったが同じ敷地内に住んでいるとあって、領主館に届いた郵便物を執務室に届けてくれるのは、そう珍しいことでもない。
マティアスは礼を言いながら、封筒の束を受け取った。隣にいたエレナに、すぐにペーパーナイフを手渡される。
ちょうど二人は、取り引き相手の都合で面会予定がキャンセルになり、空いた時間は休憩に当てようかと話していたところだった。エレナはお茶の用意をしてくると言い置いて、部屋を出て行った。
この頃には領地の経営も新事業もすっかり軌道に乗り、毎日駆けずり回るように働く必要はなくなっていた。館ものんびりとした空気に変わりつつあり、親族が顔を合わせる機会が増え、交流が密になってきたところだ。
クララはさっさとソファに腰を下ろしたものの、マティアスの手元を気にしている。郵便物の一番上の封筒が、隣接地のヴァルデック伯爵家からだからか。すぐに封蝋を割った。
中の便箋に目を落とすと吉報であり、マティアスは自然と口元を緩めた。
「洗礼式の招待でした。無事に男児が誕生されたとのことです」
「まあまあ、おめでたいわね。もう三人目だったかしら」
クララが目を細める。
「お祝いは何にしようかしらねえ」
「銀のスプーンでいいのでは?」
「あら、古いわよ。最近ではナプキンリングが流行りよ。ガラガラもいいわね」
「スプーンより安くて、僕としては助かりますよ」
「いやねえ」
そう言って二人で笑い合った。
そこまでは、いつもと変わらなかった。
しかし、そのときクララがふっと表情を改め、マティアスを見つめた。歯車が軋んだのは、その瞬間だったのだろう。
「ねえ、マティアス。あなたとエレナさんが結婚してから、もう五年になるでしょう? ですから、その、ね、そろそろ跡継ぎについて、はっきりさせたほうがいいんじゃないかしらね」
「叔母上?」
マティアスは眉をひそめた。クララは一瞬だけ目を逸らしたものの、「でもねえ」と続けた。
「五年経ってもお子を授からないとなると、少し考えないといけないわ」
「何を、おっしゃりたいのでしょう」
「ハルフェン家の血を残すのは、あなたの大切な務めよ。……ですから、妾を迎えるというのはどうかしら?」
「そのようなつもりはありません」
「そうはいっても、エレナさんだって、子が望めないのであれば肩身が狭いでしょう? いっそ離縁も──」
「叔母上!」
マティアスが強い声で遮ると、クララは笑顔とも困り顔ともいえない曖昧な表情を浮かべる。
叔母が言っているのは、さほど冷淡な内容ではなかった。むしろ貴族家では当たり前とされる考えだ。どう答えたものかとマティアスは思案する。だが、当の叔母は仕方がないわねと言いたげに、甥に対して諭すような口調で続けた。
「それでね、マルガレーテならどうかしらと思っていたのよ。妾にしても後妻にしても、あの子なら、あなたも気心がしれているでしょう?」
出された名前にマティアスは唖然とした。妹としか思っていない従妹を、相手になど考えられない。自分の娘の名を上げる叔母にも、不快感を覚えた。マティアスはクララを真っ直ぐに見つめ返し、低くきっぱりとした声で答える。
「そのような心配は無用です。もし子に恵まれないようであれば、親族から養子を迎えればいいではないですか」
普段は温厚な甥の強い拒絶に、クララは目を丸くしてから、どことなく焦った様子を見せた。だが、すぐにまた笑みを浮かべる。
「……そうね。ちゃんと考えていたなら安心だわ」
クララは納得した様子を見せたが、どこか取り繕っているようにマティアスには感じられた。実のところは、養子などその場での思いつきが口を出ただけだ。詳しくは追及されなかったので、彼もそれ以上は何も言わなかった。
そこにエレナが戻ってきた。ティーセットの載ったトレイを運び入れて、ソファ脇のサイドテーブルに置く。
「エレナさん、使用人のような真似をして」
「お許しくださいな。身内だけですもの、よろしいでしょう?」
「我が家も、もう少し体面を気にするようにしなくてはね」
「はい、今後は気をつけますわ」
お説教口調になってきたクララに、悪戯っぽい言い方で返しながら、エレナはカップを用意した。
執務室のドアは閉めてあったので、跡継ぎに関する話題をエレナが耳にしたとは思えなかった。だが、マティアスは無性に後ろめたかった。
叔母の表情からは感情が窺えない。紅茶を飲みながら、いつものようにエレナ相手におしゃべりに興じる。その様子にも、妙な苛立たしさを感じた。
「いけないいけない、忘れるところだったわ。来月の慈善バザーの日取りが決まったのよ」
「いつでしょう?」
エレナは、傍らの小卓からメモ用の紙と鉄ペンを取った。
「まあ、珍しいこと。いつもの万年筆ではないのね」
「……あ……ええ、見つからなくて……。どこかに置き忘れたみたいです」
エレナは手を止め、一瞬だけ視線を揺らした。それから、穏やかな笑みを浮かべる。
クララは「あら、そう」とだけ言って、それ以上は何も言わなかった。




