12.
木々の葉の緑はまだ淡い色合いだが、風は心地良く感じられるようになってきた。執務室の机には明るい日差しが落ちている。開け放した窓から入る風に、検分していた書類の端が揺れた。
注意書きを終えてから、マティアスは紙を書類入れに落とした。ペンをペントレーに置いて、手を休める。顔を上げると、向かいの席で作業する妻の姿が目に入った。
広い執務机を挟んだ対面の席は、本来ならば家令が座る場所だ。女性が執務室に入り、ましてや当主と手分けして領地の経営や事業に当たるなど、本来ならあり得ない。古いしきたりを重んじる貴族が見れば、眉をひそめる光景だろう。実際、叔父や叔母はあまりいい顔をしなかった。
だが、マティアスはまったく気にしなかったため、今だけだからと押し切った。一刻も早く領地を復興するには、何事も円滑に進められるように、時間を節約して効率的に動くのが一番だから、と。エレナもまた、合理的な考え方をするため、このやり方が理に適っていると思えた。そして確かに二人の尽力で、財政状態は急速に持ち直していった。
家令として領地運営に尽力していた叔父は、数年前にタウンハウスへと移った。体調を崩した父に代わって、王都での商取引に目を光らせてくれている。若いマティアスではなにかと軽く見られがちだが、叔父であれば相手も態度が違う。だがそれは、年長者としてなにかと口出しをしてきた存在が、身近にいなくなったということだ。
結果、マティアスとエレナのやり方は、今もそのまま続いている。
ただ、時間に追われるような忙しさがなくなり、執務室でも時折のんびりとした空気になることが増えた。それにマティアスは安らぎを感じる。
カリカリと紙を擦る音が聞こえた。エレナの細い指先が、ローズウッド軸のペンを操る。俯き加減の横顔が、真剣に帳簿と向き合っている。
ペン先を真鍮製のインク壺に浸し、引き上げてから、フチに当ててインクのしずくを落とす。エレナのその仕草を、ぼんやり眺めた。
そういえば最近の彼女はずっと付けペンばかりを使っているな、とマティアスは思った。万年筆を使う姿を、ここしばらく見ていなかった。
「最近そのペンばかりだね?」
マティアスが尋ねると、エレナは手を止めて顔を上げた。
「なんのこと?」
「いや、万年筆を使わなくなったなと思って」
「……そうね」
「もしかしたら、しまい込んでいる?」
「えっ? しまい込むって、万年筆のこと?」
「うん。ほら、前になくしたことがあっただろう? その後、見つかったって言ってたよね。だからもうなくさないように、大事にしまい込んでいるのかなと思ってね」
「ええと、そうじゃなくて……」
「なにせ魔女の遺品だからね。なくしたらたいへんだ」
マティアスが少し揶揄うような口調で言うと、エレナは目線を落とした。なんとなしに困ったような表情にも見える。
「……その……あれは……人に差し上げたのよ。前になくしたみたいと言ったときは、本当はもうあげてしまっていたの」
少し間を置いてからエレナが言う。思ってもいなかった言葉に、マティアスは目を瞬かせた。
「え!? 大切な品なんだろう? ああ、いや、誰かにあげるのは自由だとは言ってたね。でも手放してしまって良かったの?」
「いいの、上げたかったの。その……親しくしている方がね、とてもいいところに就職できたのよ。だからお祝いとして贈ったわ」
ペンをトレーに置いたエレナが、どこか満足げに柔らかく微笑む。
「へえ、そうなんだ」
マティアスは少し首をひねった。由緒ある品を贈るのだから、よほど懇意にしているものと思われたが、肝心の相手に思い至らない。とはいえ、彼女の交友関係をすべて把握しているわけではない。自分が知らない友人や縁戚もいるのだろうと、それ以上は何も言わずに、手元の仕事に戻った。




