6.
緩やかな坂道を下りきると三叉路があり、道は左右に分かれる。マティアスは右方向を選び、歩き続けた。
貴族といえど、皆が皆裕福なわけではない。ハルフェン子爵家は零落数歩手前といった状態で、平民と大差ない暮らしぶりだ。タウンハウスも質素なものであり、贅沢の象徴のような馬車など所有しているはずもない。通学はもっぱら徒歩だ。
実家が金銭的に逼迫したのは、数年前に領地で大規模な水害が起きた影響である。とはいえ、それ以前も決して潤沢な資金を持つ家ではなかったので、贅沢な暮らしをしたことがないせいか、別段の不自由さを感じたことはない。
次の四つ辻で、左折する。帰宅するのであれば真っ直ぐ進むのだが、下町に寄る用件があった。
しばらく並木道が続くので、散歩がてらにのんびりと歩く。
菩提樹の葉は濃い緑となって頭上を覆い、ところどころに淡い黄色の小花が咲き始めている。入学した頃はマティアスの背丈ほどだったが、たった二年半で見上げるほどの高さになった。
十五分ほど歩くうちに徐々に道幅が狭まり、やがて街路樹はまったくなくなった。それから間もなく、建物が肩を寄せ合うように密集した一帯に至る。労働者階級の住む地区だ。
通りには物売りの呼び声と子供の喚声が響き、それに犬や鶏の鳴き声が混じる。煮炊きや焼きたてのパンの匂いが漂い、その直後に生ゴミや家畜の糞尿の匂いが混じり合った悪臭が鼻を突く。高い位置に渡した紐には洗濯物が翻り、荷馬車が車輪を軋ませながら勢いよく石畳を走り抜けた。生活の気配が色濃く出ている地域だ。
活気があり、主要通りであればさほど治安も悪くない。マティアスは父親の使いで何度か訪れたことがあり、店舗によっては馴染みがある。商人や職人を自宅に呼びつけられるのは、身分が高いか財力がある家だけだが、ハルフェン家は残念ながらどちらでもない。
目的の路面店に入り、ガラスを取り替えるための算段を付ける。やんちゃ盛りの従兄弟二人が窓ガラスを割ったのは三度目で、工房の親方は「またですかい」と呆れながらも、快く引き受けてくれた。
その後、一区画戻ったところのティールームに入った。マティアスが待っていると、やがて斜め向かいの古書店の軒先にエレナが現れた。以前と同じように、黒髪の少年を伴っている。
カップを口に運ぼうとしていた右手が止まる。
以前も、三度目にガラスが割れた翌日、エレナたちを見かけた。だから来るだろうとは思っていた。だが、実際にもう一度目にしたことで、自分が思いのほか動揺しているとマティアスは気付いた。その一方で当然かもしれないとも思う。なにしろミヒャエルもまた、自分が死なせてしまった人物だ。
右手のカップをソーサーに戻したマティアスは、二人の様子をじっと眺めた。
エレナと少年は、軒先からはみ出した書架の前に並ぶ。少年が一冊を取り出し、エレナはそれを受け取って、ページをめくり、何か言う。少年が頷いてから笑顔になると、エレナも口元を緩めた。
彼女が、気を許した相手にだけ見せる、飾り気のない表情だ。
懐かしさと共に、少年への羨望が湧き上がる。それを向けられることはないのだという思いで、胸が抉られるように感じられた。
少年の名がミヒャエルだと、今では知っている。そして、ミヒャエルが誰であるのかも、エレナと会っていた理由も、知っている。
だが、前回は知らなかった。
知らなかったから、あの同じ光景を前にしたとき、黒髪の少年に対して苛立ちを感じ、エレナに対して落胆を感じた。さらに得体の知れない感情が沸き起こって、そしてその感情がなんと呼ぶものであるのか自覚しながら、足早にその場を離れた。
マティアスは一度ぎゅっと目を閉じた。過去を頭から追い出して目を開けると、ちょうどエレナが別の一冊をミヒャエルに差し出したところだった。ミヒャエルは遠慮がちに首を振るが、エレナが何か言い添えて、ようやく受け取った。それから何かを話しながら、二人は古書店を離れて行った。
近くの曲がり角で、エレナはミヒャエルを抱きしめた。それからエレナは丘のほうへ、ミヒャエルは通りの先へと歩いていく。
二人の姿が見えなくなってしばらくしてから、マティアスはティールームを出た。四つ辻まで引き返す。いつの間にか握り込んでいた拳を開くと、掌に爪の痕が残っていた。




