4.
朝の空気がひんやりと肌を刺す。中庭の芝生に降りた霜は、日が昇るにつれてゆっくりと溶けていくので、まだら模様になりかけていた。
マティアスは普段よりも随分と早く登校していた。
東棟の廊下を歩くと、靴音がコツコツと辺りに響いた。教室の扉を開けて中に入る。当然ながら、室内にはまだ誰もいなかった。
暖房が入るまで一時間ある。厚手のコートに身を包んでいてもかなり冷えるので、着たまま自席に着いた。階段教室の最上段という、全体を見渡しやすい上席だ。
持参した本を開いて活字を追い始める。読書はなにかと便利がいい趣味だ。楽しく時間を過ごせて、それでいて知見を広げられる。なにより、本当に用がない限り、読んでいる最中に話しかけてくる他者はほとんどいない。つまりマティアスにとっては、人避けの役目も果たしてくれるわけだ。
元々は、読書を楽しむような趣味はなかった。エレナが本好きだったため、妻との共通の話題を作るために読み始めただけだ。なんとも皮肉なものだな、とマティアスは思う。
やがて、廊下から複数の足音が近づいてきた。人気のない石造りの建物は、物音が反響してよく聞こえる。足音は教室の前で止まり、やがてそっと扉が開かれた。
入ってきたのは、二人の女生徒だった。学年も専攻授業もまったく異なるため面識はないが、ある侯爵令嬢の取り巻きであるのは承知していた。二人はあからさまに驚いた顔を見せ、動きを止めた。誰もいないはずの時間に、すでに座っている生徒がいたのだから当然だろう。
マティアスは本から顔を上げ、そちらを見下ろした。ボソッと「お早うございます」とだけ告げると、相手は気まずそうに挨拶を返す。読書に戻るとこちらをちらちらと窺っていたが、ほんの数分後には教室を間違えたのなんだのと言い訳しながら、そそくさと出て行った。彼女たちに対して用意していたこちらの言い訳は、口にする必要すらなかった。
そのまま読書を続けていると、いつの間にか暖房が入り、部屋が暖まっていく。マティアスがコートを脱いだときには、何人かの生徒が入室していた。エレナはいつものように早めにやってきて、友人と談笑する。
半数ほどの生徒が登校した頃、教室整備担当の雑役係がやってきた。陶器のインク壺を、各席のインクウェル・ホールに嵌め込んで回るのだ。中央通路近くにある前から三番目の机にもきちんと設置され、その席にはエレナが座った。
設置前にインクを補充するときにも気をつけていたので、雑役係がすべての壺に同じ容器のインクを注いだ様子を見届けた。先ほどの女生徒たちが戻って来ることもなかった。もういいだろうと判断し、マティアスは授業を受けるために自身の準備を始める。といっても一時限目は即興執筆だから、ペンと辞書だけ用意すればいい。
やがて教師がその日の課題を告げ、生徒は一斉に書き始める。マティアスもペンを走らせ、作業的に文章を組み立てていった。
エレナのいる方向には、意識して視線を向けない。
以前は、この授業でエレナの使ったインク壺だけ、中身がすり替えられていた。書いて数時間後に文字が透明に変化するという、子供が悪戯で使うインクだ。
このせいでエレナは、課題が未提出であると教員から告げられることになった。苦労して書き上げたはずの小論文が、ただの白紙に代わってしまったと知ったときの彼女は呆然としていた。厳しいことで有名なその教師に掛け合ったのはマティアスだ。なんとか紙の表面を分析してもらえたので、後日インクのせいだと判明した。だが教師陣はただの悪質ないたずらだと判断し、それ以上詳しく調べられはしなかった。
このときにも、背後ではそれぞれの思惑や力関係が絡んだのだろう。今なら察せられるが、子供と大人の間にいた学生にはどうしようもなかったことだ。そもそもエレナもマティアスも、悪意を原動力に行動できる人間がいるのを知らなかった。
どちらにしろ、すでにエレナは居残りで反省文を書かされていた。彼女からしてみれば、人生で初めて、理不尽さというものに直面したことになる。生きていればいやというほど遭遇するのだが、マティアスとしてはそれを可能な限り減らしてやりたかった。
鐘が鳴り、授業が終わる。生徒は一斉に教室を出て行った。マティアスは、エレナが友人たちと共に去って行く様子を静かに見送る。
その後、白紙で提出した生徒がいるという話を聞くことはなかった。




