26.
それでも季節は巡る。
冷たい雨が窓ガラスを打ちつける秋の夜に、父が息を引き取った。薬の匂いが漂う部屋で、浅く途切れがちだった呼吸が完全に止まるまでを見守る。
簡素な葬儀を終え、帰宅した途端、マティアスは寂寥感に襲われた。自分を本当に気にかける者は、もうこの世のどこにも存在しない。一人、取り残されてしまった。
たった一人で生き続けるのは辛かった。
胸の痛みから目を逸らすために、マティアスは仕事に没頭した。日中は、ひたすら領地に指示を出し、帳簿と書類に向かい続ける。休めば過去の記憶が脳裏を苛むため、身を削るようにペンを動かす。無理矢理にでも意識を他に向けなければ、自己憐憫に浸るだけになってしまう。
夜になると、喉が焼けるような強い酒を煽る。泥酔で意識を失わなければ眠りにつけない。
そして朝がくれば、また仕事をする。就寝時には、また酔い潰れる。それを繰り返し続けた。
しかしそれでも、健康を損ないはしなかった。心が晴れることはなくても、身体は平気だった。過労による体調不良にもならず、風邪一つ引かない。
一度、どうしても出かけなければならない用件があり、その帰りに立ち寄った安酒場で酩酊したことがある。閉店時間となり店を出ると、ふらつく足で帰路に就いた。
橋の上に差し掛かり、見下ろすと川面が黒々と波打っていた。寒風が頬を刺す。
マティアスは、衝動的に石造りの欄干を乗り越えた。次の瞬間、氷のような水に全身を呑み込まれ、視界が暗転した。これでようやく、すべてから解放されると安堵する。
だが、気付くと、彼は河原に倒れていた。ずぶ濡れの服が肌に張り付き、全身が凍りつくように冷たい。ゆっくりと起き上がり、濡れた髪を掻き上げる。マティアスは、自分がまだ生きていることに失望しながら、よろよろと立ち上がった。
そのとき左手がポケットに触れた。中にある懐中時計の輪郭が、濡れた布越しに伝わってくる。
ふと、思いついたことがあった。慌ててタウンハウスに戻る。
マティアスは、迎えにきた執事をいなして父の寝室に直行し、戸棚から薬箱を出した。アヘンチンキの瓶を探し出すと、栓を抜き、勢いよく煽る。しばらくすると、強い眠気に襲われ、意識が遠のいていった。
それも深い眠りに落ちただけだった。翌朝、自室でいつものように目を覚ましたときには、ぐっすりと眠ったおかげか、体が軽いと思えたくらいだ。ずぶ濡れだったはずだが、それは執事や侍従が着替えさせてくれたらしい。すでに医師が呼ばれていたが、診察しても健康体であると確認しただけで、首を傾げて帰って行く。
マティアスは確信した。
「あなたがこの先も健やかに過ごせますように」
エレナの声が、聞こえた気がする。
彼女が心の底から本心でそう願ったのだと、マティアスは実感した。それなのに、その愛情を、己が呪いに変えてしまったのだと悟った。死ぬことすら許されないのだと……。
ミヒャエルの最後の願いと、エレナの最後の願い。魔女の遺品は、どちらの願いも確かに叶えていた。
ベッド脇の小卓に、懐中時計を見つけた。手に取ると、カチカチと規則正しく時を刻む音が聞こえる。壊れてはいなかった。表面に刻まれた蔦の模様を指先でなぞった。
それからのマティアスは、再び自身で商談の席につき、カントリーハウスにも出向くようになった。エレナが蘇らせた領地を守ることだけに尽力した。それだけが、彼の生きる意味になっていた。
常に、ポケットには懐中時計を忍ばせる。
さらに季節が巡り、歳月が流れ、やがてマティアスは引退した。それまでに、甥の一人を養子とし、家督を譲る手続きは終えた。迎え入れた青年は、熱心に領地経営を学び、今では領主として立派に采配を振るっている。
ハルフェン家は今もまだ裕福とは言えないが、足りるだけの暮らしを送れている。領地には、たとえ数年に一度水害や凶作が起きても、持ちこたえられるだけの体力がついた。
そうして、マティアスは八十代半ばを迎えた。髪はすっかり白くなり、顔には深い皺が刻まれ、背を丸めて歩くようになった。魔女の遺品といえども、老衰という現象は止められなかったらしい。
その日、窓辺に寄り、裏庭を眺めていたときだ。読書に戻ろうと体の向きを変えた瞬間、急速に足から力が抜けた。窓枠を掴もうとしたが、指は掠め、壁に寄りかかったままずるずると体が沈み込んでいき、床に倒れ込んだ。それきり自力で起き上がることができない。
ようやく生命の灯が燃え尽きようとしているのだと感じ、マティアスは深い安堵を覚えた。そして、最後に目にしたのがエレナの作った庭で良かったとも思った。
震える指先を必死に動かし、ポケットから懐中時計を取り出す。冷たい金属の感触が、掌に心地よい。その懐中時計を力なく握りながら、まぶたを閉じた。秒針の刻む微かな音が、聞こえる気がした。
もう一度、すべてをやり直したい。
マティアスは、深い闇の底へと沈んでいきながら、強くそう願った。時計の音が、次第に遠ざかっていく。




