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23.

 毒そのものは、身近なところにいくらでも存在する。農薬、医薬品、洗剤など、どの家でも当たり前に置いているのだから。


 だが、毒殺となると話は別である。そのような手段は、確かに往時にはよく使われたものの、すでに一般的ではない。貴族家であろうと、医者と検視官を呼ぶのは義務化されており、毒物検出技術の発達に伴って警察の捜査が入るようになった。主治医が死亡診断書に不審点を記載すれば、検視官を呼ばないわけにはいかず、毒殺とわかれば警察の出番となる。判断を司法に委ねる法治社会では、難しくなってしまったのだ。少なくとも、重要人物が対象である限り。


 マティアスは言葉を失いながらも、誰がなんのためにしたのかが察せられてしまった。


「失礼しました。続けてください」


 マティアスが先を促すと、フィオナは頷いた。


「お八つに出されたココアに、ストリキニーネが混入されていたんです」


 落ち着いた声が、淡々と殺鼠剤の名称を告げる。彼女はすでに事実としてきちんと受け止めているのだな、とマティアスは納得した。


 エレナとフィオナが子供部屋で過ごしていた頃も、夕方にはココアが出されていたそうだ。ミヒャエルも毎日飲んでいた。だからその日も、なんの疑いもなくいつものように口にした。


 途端に、ミヒャエルが腹部を押さえながら、床に倒れ込んだ。後に乳母《ナニー》がそう言ったという。


 エレナとフィオナが立ち寄ったのは、その直後だった。二人は日に一度は子供部屋を訪れていた。ナニーを付ける年齢であれば、タウンハウス内を好きに歩き回る自由がないため、顔を合わすには姉たちが足を運ぶ必要があった。このときも何気なく行ったのだ。


 二人が部屋に入ると、ミヒャエルは床で全身を痙攣させているところだった。反り返る弟をナニーが押さえつけている様子から、エレナは即座に状況を見て取り、加勢した。妹には、医者を呼ぶように言いつける。


 フィオナが伯爵を連れて戻ると、エレナはココアを吐き出させているところだった。ドレスが汚れることも厭わず、ミヒャエルを抱え込んでいる。


 またすぐに痙攣を起こしたので、今度は伯爵が押さえ込んだ。少しして体が弛緩したときには、すかさずエレナが水を飲ませては吐かせる。フィオナとナニーは、催吐水の用意に奔走した。ひたすらにそれを繰り返す。


 ほどなくして駆けつけた医師により、胃洗浄の処置がされた。そうして、どうにかこうにか事なきを得たのだった。


 落ち着きを見せたミヒャエルをソファに寝かせ、ようやく一段落ついたときには、皆が疲労困憊して座り込んでいた。部屋の入口で様子を窺っていたメイドが、おずおずと部屋の片付けを申し出る。伯爵は、まずは医師の器具を洗浄するように命じた。


 部屋は、見回してみれば、確かに汚れ放題である。生成り綿布のテーブルクロスには、茶褐色の液体が大きな染みを作っている。ミヒャエルが痙攣を起こした際に、ポットを引き倒したからだ。絨毯もひどい有様で、ココアと吐瀉物が斑模様を描いている。少し離れた場所では、落としたカップが破片に変わっていた。


 それを目に留めた伯爵が、一片を拾い上げた。ナプキンで包んでから、医師に手渡す。医師は心得た様子で、それを自分の往診鞄に収めた。


 数日間を、ミヒャエルはベッドで過ごした。エレナとフィオナは常に寄り添い、それこそ一日中、子供用寝室に詰めていた。医師が診察で訪れたときだけ、出ているように言われてしぶしぶ離れるが、必ず声の届く範囲にいたほどだった。


 医師からは、カップの破片を分析した結果ももたらされた。フィオナがストリキニーネという毒物を知ったのは、その時だ。


 だが、エレナはこの毒をすでに知っていた。当時報道された連続殺人事件で使用されたらしい。彼女には、新聞や週刊誌を読む習慣がある。そこから症状や対処について知識を得たのだと、フィオナは後に聞いたという。


 ココアに毒が含まれていたという事実があっても、伯爵と姉妹はそれ以上の調査はなにもしなかった。真犯人など見当が付く。しかし、たとえ実行犯を捕らえることができても、当の真犯人には裁きを与えることなどできないだろうともわかっていた。


 なにより、ミヒャエルの保護のほうが重要だ。このまま順調に回復すれば、また襲われるものと予想できた。ナニーを味方に引き入れて、それ以外の皆には未だ危篤であると伝える。


 青白かった頬に血の気が戻り、室内であれば動き回れるまでにミヒャエルが回復した頃、三人は彼を逃す策を練った。


 医師の協力を得て、死亡診断書を出してもらった。ココアの件では、伯爵家の主治医がたまたま捕まらず、近隣の町医者を呼び寄せたのだが、それが幸いしたといえる。


 屋敷の者たちには訃報を伝え、子供用の小さな棺を用意した。すべての算段が整った翌日、東の空が白み始めたばかりの冷え切った空気のなか、伯爵は棺を運び出させた。


 夫人には、弔いを済ませたことだけを告げた。彼女はすべてを家政婦長に任せきりであり、昼近くになるまで自室から出てこない。そのため早朝を選んだのだが、憂慮は不要だった。興味を示す様子もなく、短く頷いただけであり、泣き腫らした顔の娘たちにすら何も言わなかった。


「あの子が本当に死んだものと、母が思っていたのかどうかは存じません。生きていても、家から出てしまえばそれで良かったのかもしれません。私たちは本当に、母がどのように考えていたのか、わからないのです」


 抑揚のない話し方が、深刻さを浮き彫りにしているようだ。わずかに視線が揺れ、それだけがフィオナの感情を示す。


 その後、ミヒャエルは遠方に送られた。伯爵の知人が治める領地だ。成人するまで彼はその地で匿われ、伯爵と姉妹は援助し続けた。


 話を聞いている間、マティアスの脳裏では幻灯機が映す画像のように、光景が浮かんでは消えて、また浮かんでと繰り返された。少年の姿はどこかぼんやりとして、顔も判然としない。だがそれが急に、襲われた時の彼の顔に変わる。続けて、亡くなる直前に妻が見せた笑顔に変わっていく。


 肘掛けを掴む手に力が込もった。目の奥が熱くなるのを感じたマティアスは、それとなく俯いた。大きく息を吸い込む。


 フィオナとユリウスは、その様子に気付かない素振りを装った。静かにティーカップに手を伸ばし、マティアスが落ち着くのを待つ。


 呼気をゆっくりと吐き出し、瞬きをして視界の滲みを払った。マティアスは顔を上げ、二人に視線を向けた。

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