17.
数ヶ月前に完成したばかりの水路のほとりに立つ。マティアスは、ごうごうと音を立てて流れる水面を眺めて、なにも問題がなさそうだと確認した。
麻の栽培には給水と排水の管理が重要だ。根腐れを起こしやすいので、水はけのよい土地が適しているが、かといって初夏の生長期には、十分な水を必要とする。寒さに弱い植物であるため、温暖な気候が望ましく、その点ハルフェンは適している。だが、比較的に降水量の多い土地柄では、治水が重要だ。
雨が少なければ給水に、多ければ排水に、とにもかくにも水路なしには話が始まらない。マティアスはこれまで以上に熱心に、領地全体の治水事業に取り組んでいた。
額から流れ落ちる汗が目に入り、ハンカチで乱暴に顔を拭う。容赦なく照りつける太陽が、肌を焦がす。
だが、彼の心はひどく冷め切っていた。
エレナに対する想いは、曖昧なままだ。こうして領地での仕事に没頭していれば、心の中から一時的に追い出すことができる。だから、いつでもどこでも仕事の内容だけを考えるようにしていた。王都でも、父の代理としての務めに多忙であると言い訳をしては出かけ、領地への指示と称して書斎に籠もり、彼女を避け続けた。
逃げているだけであるのはわかっていたが、すべてをはっきりとさせるのも怖かった。そのためマティアスは、領地と王都の行き来を繰り返し続けている。
だが、今ではエレナを領地経営に携わらせていない。この春、王都から領地へと発つ前夜に、エレナが同行を申し出たことがあった。そのときにはっきりと拒絶した。
「いや、行かなくていい。ここにいてくれ」
「そういうわけにはいかないわ。私が担当している水路もあるのだし」
「君はもういい。今後はすべて僕がやる。それに、そのほうが君にとってもいいはずだろう?」
「いいって、なんのことかしら?」
首を傾げるエレナから、マティアスは目を逸らした。おもむろに机の上の書類を手に取り、束ね始める。
「王都にいれば、存分に慈善活動ができるじゃないか」
「なにを言っているの? 私は──」
「もういいんだ」
相手の言葉を遮り、マティアスは短く吐き捨てた。書類を抱え直して拳を握りしめる。
「マティアス?」
「今回は、向こうに長めに滞在するつもりだ。そろそろ跡継ぎを設けることを最優先にしなくてはならない。そのための相手は領地で選ぶつもりでいる。だから、君も王都で自由にしているといい」
エレナが息を呑む。マティアスは背を向けて、部屋を出た。
翌朝、タウンハウスを出るときに、エレナは見送りに来なかった。
結局は、さほどの期間を置かずに王都に戻ったのだが、戻ればやはり息苦しくなり、また領地へと発つ。その繰り返しを続けるうちに、季節は巡る。いつの間にか夏の盛りも過ぎていた。その間、夫婦は顔を合わせもしなかった。
水路の巡視を終えたマティアスは、木陰に繋いでいた愛馬の背に跨がった。手綱を握り直し、畑の合間を縫って、カントリーハウスへと走らせる。湿った土の匂いが鼻をくすぐった。
汗で湿っていた服が風で乾いたころ、館に辿り着いた。車寄せで馬から下りる。
マティアスが手綱を馬丁に預けようとした、その時だ。遠くから蹄の音が近づいてくるのに気付き、振り返ると馬が駆けてくるのが見えた。明らかにこちらに向かっているとわかったので、そのまま待っていた。
間もなく到着し、騎手が勢いよく馬背から飛び降りる。王都からの早馬だった。差し出された封筒を受け取ると、差出人の欄にはエレナの侍女の名が記されていた。
慌ててマティアスは封を乱暴に引きちぎった。折りたたまれた便箋を開くと、乱れた文字が並んでいる。
『奥様のお具合が非常に悪く、お命に関わる状態でございます。どうか、今すぐお戻りください』
書いてある内容を理解した瞬間、全身の血が引いていく感覚に襲われた。
マティアスは、まだそばにいた馬に駆け寄ると、その背に跳び乗った。馬を旋回させて、そのまま門を飛び出した。
宿場で次々と馬を替えながら、街道を突き進む。このときばかりは貴族という身分に感謝した。問屋場に押しかけて無理を言ったときも、シグネットリングを担保に手配して貰えたのだ。
翌未明には、王都の城門に辿り着いた。タウンハウスに馬を乗り入れた頃には、明るくなり始めていた。
出迎えた使用人たちは青ざめた顔で立ち尽くし、誰一人として視線を合わせようとしない。すぐに家政婦長と叔父が飛んできたが、マティアスは二人を押しのけるようにして、エントランスホールを横切った。その奥の階段を駆け上がった。
廊下を走る。エレナの部屋の扉前に立つ数名は、マティアスの足音に気づいて左右に道を空けた。
部屋に踏み入ると、生臭い鉄さびの臭気が鼻を突いた。
部屋の左手側にあるベッドが目に入る。だが、そのベッドのシーツはなぜか、一面が赤黒く染まっていた。真ん中には、やはり同じ赤黒いドレスを纏った人物が横たわっている。
ドレープに隠されて顔は見えないが、それがエレナだと確信した。
マティアスは恐る恐る近づいた。果たして、ベッドに横たわっていたのは確かにエレナだった。その顔は、血の気が失せて蝋細工のように白く、瞳は虚ろに空を見つめている。
マティアスは状況に納得できず、ただ立ちすくんだ。
傍らに座っていた侍女が、彼に気付いて立ち上がる。なにか言っていたが、その声は耳に届かなかった。
侍女に促されて、頽れるように椅子に腰を下ろした。訳はわからないが、赤黒さが血であるとようやく理解する。エレナは、ベッドを浸す赤黒い血の海の中にいたのだ。ドレスと思ったのは、寝衣だった。
ふと、脇に立つ医師の存在に気付いた。だが彼はすでに諦め顔で首を振りながら、血に染まった銀色の鉗子を盆に置いた。
そして医師の傍ら、ナイトテーブルの上に置かれた、柳の籠に目が留まる。小さな白い布の塊が入っているように見えた。引き寄せられるように中を覗き込み、マティアスは言葉を失った。
ベッドの傍らに膝をつき、シーツの上に投げ出されたエレナの白い手を両手で包み込んだ。氷のように冷たいと感じた途端、ひどく胸が締め付けられる。
「エレナ……」
涙が溢れ、零れ落ちた雫が、彼女の手の甲を濡らす。するとその指先が、微かに動いた。
弾かれたように顔を上げると、エレナの長いまつ毛がゆっくりと震え、持ち上がるところだった。焦点の定まらない視線が、空間を彷徨い、やがてマティアスを捉えた。瞳にわずかながら色が戻る。
「マティ、アス……?」
「ああ、そうだ。僕だよ。すまない、遅くなったね」
エレナが、微かな力で握り返した。青白い唇がかすかに動く。
「泣かないで」
「喋らなくていい。いま医者を……」
「もう、いいの」
エレナは、力なく口角を持ち上げた。
「良かった、もう一度、会えて……嬉しいわ。私……もう…………たい。……ごめんな……さ……い」
「何を言っているんだ。謝らなくてはならないのは僕のほうだ」
「……ううん……息子…………残して、あ、あげら……なくて……マティ…………私……先に…………ごめ…………」
エレナは静かに微笑みを浮かべた。不思議なほど穏やかな笑みだった。
「どうか……どうか……あなたが……この先も……健やかに…………過ごせます……ように…………祈って、る…………どうか…………」
微笑みを顔に残したまま、エレナが目を閉じる。その指先からすっと力が抜けた。
「エレナ……?」
返事はなかった。
そしてマティアスは、この日、妻と息子を同時に失った。




