16.
並んで歩き、親しげに笑い合うエレナと青年の姿は、心の中で染みとなってこびりついた。
夕食を終えた後、エレナはいつものように居間で二人だけの穏やかな時間を過ごそうと準備する。だが、マティアスは首を横に振った。
「領地から届いた水路の修繕計画書を、今夜中に確認しなければならないんだ。君は先に休んでくれ」
そう言って視線を逸らす。
「でしたら、書斎にお茶をお持ちするわ」
エレナの気遣いが、今のマティアスには悲しかった。体の奥底から湧いてくる感情をどうにか押さえ込み、作り笑いを浮かべて、それを断る。そのままマティアスは書斎へと逃げ込んだ。
揺れるランプの灯りの下で、分厚い帳簿を開き、数字の羅列を目で追った。乾いた紙の藁のような匂いと、安物インクの酢のような匂いが、領地の執務室を思い出させる。
ふと、彼女と過ごしてきた穏やかな時間が思い浮かぶ。次の瞬間には、それを打ち消すように、黒髪の青年の微笑みが割り込んでくる。
マティアスは手にしたペンを強く握りしめた。大きく吐息をつき、帳簿の精査を諦める。時計の針の音だけが聞こえた。そのチクタクという規則正しい音が、今はやけに大きく感じられる。
その夜は、寝室に行くことなく、書斎で夜を明かした。
それから数日経っても、広場で見た光景を何度となく思い返してしまい、その度に染みは色濃くなっていく。次第にマティアスは、エレナの顔をまともに見ることができなくなった。
言葉数少なく夕食を済ませた後は、すぐに書斎に移動し、真夜中過ぎに彼女が眠りに就いたころを見計らって寝室へ向かう。
一度や二度なら、そんなときもあるということで済んだのだろう。だが何度も続くようになると、エレナも何かを感じ取ったようだった。食後の紅茶は、いつの間にか用意されなくなった。
二人の会話は減っていく。反して、マティアスが一人で書斎に籠もる時間は増えていった。
やがて、王都のタウンハウスにいること自体が息苦しくなり、マティアスは頻繁に領地へと赴くようになった。エレナには冬季を理由に同行を断り、一人だけで行く。
行き来する道すがら、窓の外を流れる荒涼とした景色は、彼自身の心のようだった。冷え切った座席で身を縮めながらの一人旅が、マティアスの身体を消耗させたが、心は妻と顔を合わせ続けるほうが辛い。
水路の護岸補強や凍結修繕工事の現場指揮という名目は、確かにあった。だが、その両方を一度で済ませずに、わざわざ二度に分けたのは、タウンハウスから離れる時間を長くしたかっただけだ。他にも領内巡検だの備蓄確認だのと、ちょっとした理由ですぐに領地へと戻った。
領地に着けば、職人たちと図面を睨みながら、怒鳴り合うように議論を交わした。体が疲れ果てれば、余計なことを考える余裕もなくなる。さらに強い酒を煽れば、床に就いた途端に泥のように眠りにつける。
冬の只中に、冷たい風が吹きすさぶ悪路を何度も往復するなど、決して快適なものではない。御者にも心苦しくはあったが、無理を通してしまった。
そんな生活を続けるうちに、どんどんとエレナとの距離は広がる。王都の屋敷に戻っても、顔を合わせることが減った。彼女のほうも、自分から歩み寄るのをやめてしまった。やがて、何日も言葉を交わさないことすら、珍しくなくなった。
それでも、たまに廊下や階段でエレナの姿を見かけることはある。そんなときには、互いに気まずげに視線を逸らすだけだった。
外出先から戻ったエレナと鉢合わせたときも、その場にたまたまマルガレーテがいなければ、軽い挨拶だけで終わっていただろう。マティアスが領地から戻って来るときに、マルガレーテが同行した。早めに春の祭に着ていくためのドレスを仕立てるためだ。
「あら、マルガレーテ様。いらっしゃいませ」
「エレナ様、ごきげんよう。お邪魔するわね」
マティアスが従妹の来訪目的を話すと、エレナは微笑んだ。
マルガレーテは、出迎えた使用人にケープを外してもらいながら、エレナを相手に早速、王都で流行りのデザインについて語り始めた。エレナが愛想良く受け答えし、二人は熱心な様子で相談し合う。その仲良さげな会話に、マティアスはなんとも言えない気持ちになった。
「マティアスはどっちがいいと思う?」
「えっ? どっちって、なにが?」
マルガレーテに問われ、マティアスはきょとんとした。二人の会話を聞き流していたため、まったく話が見えない。
「もう! 聞いていなかったの? 私にはどちらのデザインが似合うかしら、というお話よ」
呆れたように肩をすくめるマルガレーテに、苦笑いを返す。
「実物を見ないと僕には分からないな。ああ、でも、そういえば先週、服飾工房を訪ねたんだけど、そこにあったデイドレスが君によく似合いそうだと思ったよ」
「服飾工房? あなたが?」
小首を傾げるマルガレーテに、マティアスは頷いた。
「うちの麻生地を夏用に採用してもらえることになってね。その時に見せてもらった品が、色合いも刺繍も素晴らしかったんだ。あの工房に仕立てを頼んではどうだろう」
「そうねえ。デザイン画を取り寄せていただけるかしら?」
「ああ、もちろんだよ。それに、ドレスに合わせたショールや宝石も必要になるな。近いうちに僕が見繕ってこよう」
「本当? 嬉しいわ!」
マティアスが微笑みかけると、マルガレーテは嬉しそうに声を弾ませる。
その様子を、エレナはすぐ側で静かに見つめていた。一瞬、彼女が泣き出しそうな顔をしたが、すぐに表情が抜け落ちる。
男性が女性に衣裳や宝飾品を用意する意味を、彼女が知らないはずもない。マティアスとて、それを承知で言ったのだ。当てつけでしかないのは自覚していた。
エレナは、咎めるでもなく、取り乱すでもなく、ガラス玉のような瞳をこちらに向けた。それから、そっと立ち去っていった。マティアスは声を掛けることすらしなかった。
彼女の後ろ姿が階段へと消える。
すぐにでもエレナを追いかけるべきだとはわかっていた。だが、足は床に縫い付けられたように動かなかった。
それ以降、エレナのほうも自分からは夫に近寄らなくなった。書斎の扉がノックされなくなり、その内には食事すら共にしなくなってしまった。
自ら距離を置きながらも、マティアスは彼女の日々の動向を気にせずにはいられなかった。毎夜、家政婦長にエレナの動向を報告させた。
塞ぎ込んでいないか? 食事はきちんと摂っているのか? そういった質問をすると、ハウスキーパーは判で押したように同じ返事をする。
「奥様は今日も変わらず、お健やかですよ」
実直な表情でそう述べる相手に、マティアスは「そうか」とだけ答えた。
ふとしたときに、より詳しく尋ねたことがある。すると答えハウスキーパーは、エレナは以前と変わらず、とても幸せそうにしていると答えた。子爵夫人として家政を済ませたあとは、趣味の時間として過ごしているとのことだった。
「本日は刺繍をなさっておいででした。モノグラムと紋章を組み合わせて、素晴らしい出来でしたわ。昨日は、お庭で水彩画を楽しまれてらっしゃいました。スズランを描かれたのですが、そちらもまるで図鑑のような精密さでございました」
「外出はしないのか?」
「そうですね、時折ご実家には行かれますが……」
ハウスキーパーは言葉尻を濁す。エレナには王都に親しい友人がいない。領地で忙しく暮らしているうちに、学院時代の友人たちと疎遠になってしまったのだ。招く相手も、尋ねる相手もいないのだろう。
「ああ、ですが、もちろん慈善活動にはお出かけになります。きちんと義務を果たしておいでですよ。熱心に取り組んでらして、最近では毎週のように足を運んでらっしゃいます」
それを聞いた途端、マティアスは書類に目を落とす振りをして、顔を伏せた。自分が、どのような表情を浮かべているのかわからなかった。
彼は書き物を始めるふりをしながら、ハウスキーパーに告げた。今後は、エレナに何かしら変化があったときだけ報告するように、と。




