15.
マティアスは街角に佇んでいた。倉庫の陰に身を潜め、通りの向かいから斜め前方の建物を窺う。古びた鉄格子門の奥に見えるのは、くすんだ茶色のレンガ造りの館である。それがこの区画の救貧院だった。
エレナが訪れているはずの場所である。
正面の車回しには、黒塗りの馬車が停まっていた。御者台で待機しているのは、見知った初老の御者であり、扉に描かれているのは、ハルフェン家の家紋だ。それを確認して、マティアスはほっと胸を撫で下ろした。エレナは予定通りにここを訪れているということだ。
街を吹き抜ける風は冷たい。マティアスは外套の襟を立てた。口実を作って歩いて屋敷を出るとき、厚手の手袋に変えれば良かったと思う。
半時間ほど待った頃、黒いオーク材の扉が開いた。倉庫の壁に貼り付くように身を寄せる。
施設職員と思われる女性に付き添われて、エレナが出てきた。紺の外套を着込み、簡素な帽子を被っていた。彼女が会釈すると、職員側は深々と頭を下げる。その様子を遠目に眺めながら、マティアスは安堵の息を漏らした。
だが、エレナは馬車に乗り込まなかった。
御者を見上げて何か短い言葉をかけると、馬車はそのまま道に出て走り去った。エレナと侍女は連れだって、馬車とは反対の方向へと歩き始める。
マティアスは倉庫の陰を出て後を追った。
通りに出ると、二人はすでに角を曲がりかけていた。マティアスは外套の襟に顔を埋め、人混みに紛れながら追う。途中で大通りを外れて脇道に入ると、道幅が狭まり、すれ違う人の数もまばらになった。見失わぬよう距離を詰めたかったが、人目が少ない分、気取られる恐れがある。マティアスは煉瓦壁に沿って慎重に歩を進めた。
やがて大通りに戻る。抜け道だったようだ。確かな足取りのエレナは、周辺の道を詳しく知っているようだ。頻繁に歩いて回っているのだなと知れた。
小さな広場に出た。中央の噴水は冬の間は水が抜かれ、底に枯れ葉が溜まっている。エレナはその脇を回り込んで広場の対角へと進む。隅にある時計塔を目指しているのがわかった。
時計塔は待ち合わせによく使われる。大勢の人がたむろっているその中に、見覚えのある黒髪の青年が立っていた。前回と同じフロックコート姿で、寒そうに腕を摩っている。
マティアスは噴水脇のベンチに腰を下ろした。ちょうどそばに立つ人々が盾になる。
エレナが青年に歩み寄った。気付いた彼の顔に笑みが浮かび、二人はごく自然に言葉を交わす。
青年を見上げるエレナの横顔が見えて、マティアスは目を見張った。目元が柔らかく緩み、頬がわずかに紅潮して、唇もほころんでいる。
侍女も顔見知りのようで、青年に会釈してから近くに控えた。その侍女はエレナが実家から連れてきた者だった。いろいろな事情にさぞかし精通しているのだろう、と忌々しくなった。
エレナと青年は肩を並べて歩き出し、広場に面した文具店へと入っていく。
マティアスは噴水脇を離れた。店の近くに露店を出している古本屋があったため、そこで本を物色する素振りをして、一冊を開く。顔が隠れるように俯き加減になると、横目で文具店を覗き込んだ。
ガラス窓越しに、カウンター前に立つ二人の姿が望めた。
店主らしき年配の男が、カウンターの上に小さな箱を置いた。青年がそれを受け取り、エレナに顔を向けて、何か話しかける。
マティアスは本を開いたまま、じっとその様子を見つめた。指先が寒さでじんじんと痺れてくる。ガラスの向こう側は、やけに暖かそうだった。
少しして文具店のベルが鳴り、二人が侍女と共に店から出てきた。マティアスは振り返ることなく、前屈みになって身を縮め、帽子と本で顔を隠した。二人が近づき、会話が聞こえてくる。
「綺麗に直って良かったわ」
エレナの声だ。弾むような響きがあった。
「これでまた仕事に使えるよ」
青年は、耳に心地良い張りのある声音をしていた。
「頑張ってね。でも頑張りすぎてはだめよ」
「わかってるよ。心配性だな」
「あなたはすぐに無理をするから」
背後を通り過ぎる二人の会話から、親密さが伝わってくる。マティアスは鳩尾の辺りに重いなにかを置かれたような感覚を覚えた。
声が通り過ぎたので、露店の脇から二人の姿を覗き見る。
ちょうど立ち止まって、侍女を交えて話しているところだった。そのとき青年が、箱の中身を取り出して陽にかざす。仕上がりを確認しているといったところか。
青年が掲げるそれに、目が止まる。
万年筆だった。夜光貝を貼り付けたキャップに見覚えがある。おそらく胴には蔦の模様が刻まれているはずだが、マティアスの場所からはそこまでは見えなかった。
親しい人の就職祝いに贈った、そう彼女は言っていた。つまり、受け取ったのがこの人物だったのだな、と納得する。
青年は万年筆を外套の胸ポケットに収めた。それからエレナと共にまた歩き出す。三人は広場を横切り、やがて人混みの中に消えていった。
残されたマティアスは、しばらくの間、その場から動くことができなかった。




