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14.

 寝室の扉を開けると、薬湯の匂いが鼻を突いた。カーテンを引いた薄暗い部屋の奥で、父はベッドに横たわっている。日に何度となく様子を見に来るが、マティアスはいつも掛ける言葉を探せず、手を握って祈るばかりだ。


 危篤の知らせで急ぎ駆けつけてから、数日が経過した。当座のところは持ち直した父だが、日がな一日うとうと眠る状態が続いている。呼吸は浅く、時折ひどく掠れた音を立てた。


 医師は日に一度訪れるものの、最初に処方箋を書いてくれただけで、具体的な治療法が示されることはなかった。以前、叔父が瀉血《しゃけつ》を言い出したときに、その時代遅れのやり方をマティアスが強く止めさせた。かといって特に治療法があるわけでもない。せいぜいジギタリスの茶を服用させるくらいだった。


 使用人たちも足音を忍ばせて歩き、屋敷全体が息を潜めているかのようだ。


 マティアスとエレナは当面の間、領地へ戻らずに、タウンハウスに留まることにした。処理すべき仕事は多岐に渡り、王都にいるときでなければできない仕事はそれなりにある。領地から届けられる決裁書類を確認し、手紙で指示を出しつつ、王都の商人と掛け合い、職人と打ち合わせる。二人が暇になることはなかった。


 タウンハウスで日々を過ごしている内に、街路樹が檸檬色に染まり、やがて見事な金色に変わった。それがさらに石畳に落ちて道を埋め尽くし、豪華な絨毯になっている。


 空を分厚い灰色の雲が覆う、肌寒い日の午後だった。マティアスは下町に赴き、麻の紡績と織布を依頼している工房を訪ねた。納入状況と今後の取引数量について話し合ってからそこを出て、染色工房に向かうために表通りに出る。


 日暮れにはまだ間があり、物売りの声と荷馬車の音が入り混じる通りは、買い物客で賑わっていた。乾いた土埃の臭いに、香辛料の刺激的な匂いが混じり、鼻についた。マティアスは行き交う人々と肩がぶつからないよう、人混みを縫って歩く。


 木箱を山積みにした荷馬車が脇をすり抜け、慌てて避けた。そのとき古着屋の軒先にいる男女の二人連れが目に入った。二人とも、こちらに背を向けて、店先の服を品定めしている。


 女性は、紺色の外套を纏っていた。その深い青色が、くすんだ灰色の景色の中で際立っている。前年にマティアスが妻への誕生日プレゼントに用意したものと同じ品に見えた。決して高級品ではなかったが、彼としてはかなり張り込んで用意したものだった。


 隣の男性がなにか話しかけ、女性がそちらに顔を向ける。横顔が見え、それは、エレナだった。


 途端に、周囲の音がかき消えたように感じた。


 咄嗟に脇道に入り、建物の陰から二人を観察した。朝食時に聞いた予定では、彼女は孤児院を訪れることになっていた。しかし孤児院は下町にはない。


 連れは、黒髪の若い男だった。二人は顔を見合わせては親しげに言葉を交わしている。見覚えのある横顔に、記憶を辿る。学院三年生の五月、古書店前でエレナといるところを見た少年だ。そのときに一度見ただけだが、よほど印象に残っていたらしく、マティアスは確信できた。


 かなり身長が伸び、体格はすっかり大人の男に変わっていた。少年らしさは、もうほとんど残っていないが、顔つきには以前の面影が残る。姿勢や仕草からも、それなりの教育を受けていると窺えるが、貴族とは思えない。質素だが清潔なフロックコートを着ているので、中産階級といったところか。


 値踏みしながら、つい数ヶ月前に、マルガレーテと叔父と言い争ったときを思い返す。胸の奥で、なにかが軋むような感覚があった。


 いっそエレナに話しかけようかと迷い始め、我に返る。染色工房との約束の時間に遅れてしまうと気付いた。マティアスは、わだかまりを抱えたまま、踵を返して道を急いだ。


 その後、すべての用件を終えて、屋敷に戻った頃にはすっかり日が落ちていた。


 すでにエレナが帰宅しており、すぐに二人は夕食をとる。マティアスは妙な緊張を感じながら、なるべくいつも通りに振る舞うよう努めた。視線を皿に落としたままにならないよう、かなり意識しなければならなかった。


「なんだか顔色が良くないわ。風邪かしら」


 気遣う声に顔を上げると、蝋燭の灯りに照らされた彼女と視線が合う。


「少し冷えただけだよ。今日は寒かったから」

「急に冷え込んだものね」

「そういえば君は今日、孤児院へ行ったのだろう。石炭を持っていったの?」

「ええ、備蓄が無くなっていたそうなの。ちょうど良かったわ。でもこの寒さでも、子供たちは元気だったわよ」


 エレナが小さく笑う。声色にも、表情にも、不審な点は見当たらない。嘘をついているような不自然さはなかった。様子を探っている自分に気付き、気が咎める。それでも自分を止められなかった。


 マティアスは曖昧に相槌を打ちながら、味のしない料理を胃に流し込んだ。


 夕食を終えると、いつもなら居間に移動して紅茶の時間にする。だが、工房とのやりとりで急ぎの書類があると言い訳して、書斎に向かった。


 部屋に入って即、帳簿を収めた棚の中をランプで照らす。慈善活動費支出帳簿はすぐに見つかった。マティアスはページを繰り、その日の記載を確認する。孤児院の名称と対応した職員名、寄付した菓子と石炭の費用が、几帳面な文字で記載されていた。摘要欄には、子供たちといっしょに隠れんぼをしたことまで記してあった。


 どうやら孤児院には確かに訪問したようだ。侍女が同行しているはずだが、さすがにそちらにまで聞き出す真似はできなかった。


 帳簿を閉じ、棚に戻す。それでもなお、胸の奥のざらつきが消えなかった。男の姿が目の前にちらついて仕方ない。


 貴族の夫人が慈善活動に赴くのは、通常は月に一度程度だ。タウンハウスに滞在する春から秋に、それを継続的に行う。だが、エレナはマティアスに合わせて、一年のほとんどをカントリーハウスで過ごすので、王都を訪れたときに限られた。そのため、滞在中は毎週のように施設を訪れる。


「知り合いが言ってたの。エレナさんは、慈善活動と称して出かける度に、男と会っているって。その人は何度も見てるって」


 従妹の艶っぽい声が頭の中に響いた。


 エレナは来週、救貧院を訪れる。マティアスは、自分で確かめなければ、と思った。

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