第93話 蚊帳の外
ドアの向こうから聞こえてきた少年の声に対して、目の前の少女が俺に向かって「……よろしいですか?」と尋ねてきたので。
それが、少年の入室を許可してよいか聞かれているのだと理解し「大丈夫です」と返事をした。
そうして、俺の答えを受けた少女が中からドアを開けると、開けた瞬間勢いよく入ってきた人物がドアのすぐ近くにいる少女を見つけると「……なんでお……、貴女がここにいるんですか……」と困惑と苛立ちの混じったような表情を見せた。
「……わたくしのことはお気になさらず。蓮様に会いにきたのでしょう?」
「なぜここにいるのか」と問われた方の少女の方は、そんな焦燥した様子の少年の言葉をさらりと受け流し。
次の瞬間、俺に目を向けた少年は、俺を見ていったん少女の存在は置いておくことにしたのか、気持ちを切り替えたようにつかつかとこっちに向かって近づいてきた。
「おい。お前……、大丈夫なのか?」
――何があったら5日も寝込むんだよ?
という少年の言葉から。
この時になってようやく、俺は自分が5日間も寝込んでいたのだということを知ったのだった。
「……おい」
なんとか言えよ、と心配そうに声をかけられてはっとする。
5日も寝ていたということに気を取られ、少年の言葉に返事を返すことを失念していたので、返事がないことを訝しく思った少年が声をかけてきたのだ。
――とはいえ。なんと答えて良いものか。
目の前の相手が、誰なのかもわからない。
情報がなさすぎるし、そもそも何を話してよいのかもわからないまま「えっと……」と考えあぐねて言葉をつまらせると、
「……東條様。蓮様は――記憶を無くしていらっしゃるのです」
と、少女が助け舟を出してくれた。
「……………………は?」
「ですから。記憶がないのです」
「…………記憶が、ない…………?」
そう言って。
東條と呼ばれた少年は、何を言われたのか一瞬わからないような表情になり。
少女を見――、俺を見て。
「……どういうことだよ」
震える声と。
困惑と、動揺の入り混じった表情で。
吐き出すようにつぶやいた。
「……東條様」
「どういうことだよ!!」
諌める少女の言葉も聞かず、少年は感情のままに声を荒げ、俺の襟元を掴む。
「……俺のことも、何も覚えてないのか」
「…………はい」
張り詰めるような空気の中、俺がようやっとそれだけ返事をすると、答えを聞いた方の少年は憔悴したようにがっくりと力を失くし、近くの長椅子にふらふらと腰掛け、俯きながら片手で顔を覆った。
「…………嘘だろ…………」
――かろうじて聞き取れるほどの、掠れた声で小さくそう言うと。
そのまましばらく、誰ひとり口を開かない、静寂の時が続いた。
――その様子を。
なんとはなしに、どこか遠い気持ちで見つめながら。
俺はひとり、茫然と考える。
この、目の前の東條という少年にしても、未だ名も知らぬ彼女にしても。
彼らを、これだけ打ちひしがらせることができる、【蓮】という人物は、いったいどんな存在だったのだろう。
かつてそれは、自分であったはずのものなのに、さっぱりわからない。
魂の一部が欠けてしまっているからそれが分からないのだろうか。
誰も話し手のいない静寂の中、ひとりそんなことを考えていると。
突然、「――臭い」と。
また、どこからともなく。
それまでそこにいるはずのなかった第三者の声が、ふわりと聞こえてきた。
「亀と鳥臭い」
お主――、呼んだな――?
と。
声のしたほうへと目線をやるのとほぼ同時に、顎先に固く閉じた扇子の先があてがわれた。
「蒼」
東條がそう呼び、目の前の男を諌めるような声を出す。
そうして、扇の先で俺の顎先を弄ぶのは――、これまた時代錯誤な黒髪長髪のどことなく平安じみた青年。
これまでの話と、先ほど去っていった白と呼ばれていた神獣と似通った出立ち。
――なんとなく、これが蒼龍なのだとピンときた。
「のう、蓮。お主……、我を差し置いて呼んだのであろう?」
ぐ……、と、扇子の先を顎先から喉元に滑らせ、痛いほどの強さで押し付けられる。
「よ……んだ?」
「玄武と朱雀じゃ。あれだけ、我には都合のいいことを抜かしておいて……」
「蒼」
「……い、もうとのために、やむなくだったと、先ほど聞きました」
僕自身は記憶がないので詳細は分かりませんが、と、喉元を圧迫される中ようやっと答える。
先ほど、白が去り際に告げていったこと。
妹の異能を書き換えるために、玄武と朱雀と特例で契約をしたという話。
あの時白は、『以前にも蒼龍から契約を持ちかけられた時に断っておるのに』と言っていた。
おそらく、目の前の蒼龍が怒っているのはそのことが原因なのだと思った。
「……ふん」
――不快じゃ。
蒼龍が強くそう言い捨てると、それと同時に喉元を扇子でぐいっと押され、そのまま押し退けられるように解放された。
「どういうことだ? 玄武と朱雀って」
「………………」
そんな中、未だ事情が掴みきれていない東條が畳み掛けるように問いかけてくるが。
先ほどと同様、答えてよい範疇の判断がつかず口籠もる俺に、救いの手を差し出すよう少女が口を挟んでくれた。
「……蓮様がよろしいのであれば。わたくしが差し障りのない程度にご説明いたしますけれど」
おそらく、この中において状況を一番理解しているであろうと思われるのは間違いなく彼女だ。
そんな彼女の申し出に、俺が「……お願いします」と答えると、東條がまた苦々しい表情を見せたが、結局はそのまま黙って話を聞く姿勢をとった。
◇
「――つまりこいつは……。妹にかけられた異能の封印を解き、その強力な異能を変容させるために他の四神の力を借りた結果、記憶を失ってしまった、と……?」
「はい」
そして、失われた記憶を取り戻す方法は現在、白虎が追っておりますわ、と少女が簡潔に説明してくれた。
「…………」
一連の話を聞いた東條は、両手で頭を抱え、物凄く深く項垂れた。
「あの……」
「俺は今。人生で一番と言っていいほどに落ち込んでいる……」
「…………」
なんというか……、申し訳なさすぎて言葉も出ないというのは、こういう時に言うものなんだろうな……。
記憶がないから、具体的に何が原因で落ち込んでいるのかはわからなかったが、明らかにどん底の底まで落ち込んでるということだけはひしひしと伝わってきた。
「宮姫がそこまで状況を知っているのに、何故、俺はなにも知らされていないのか……」
「……そこは単純に、心配をかけたくなかったからだと思いますわよ」
あと、わたくしは立場的に協力する場面が多かったから知らせざるを得なかったのだと思いますわと宮姫がフォローをするも「俺だって協力したかった……」と悲痛な声をあげていた。
そんな落ち込む様子を見せる東條を、ようやく宮姫という名前がわかった少女がすぱっと切り捨て、「そんなことよりも」と毅然とした態度でぴしりと話を切り替えた。
「いま耳にした話は、くれぐれも他言無用でお願い致します。特にご家族の――妹様には。ご自分のせいで大好きなお兄様の記憶がなくなったと知っては、間違いなく傷付くのは彼女ですもの」
今回の件も、西園寺の家には(どうやら、俺の家の家名が【西園寺】らしい)、宮中の中でも神域に近い場所に案内したからきっと神力酔いして寝込んでしまったのですわ、と適当なことを言って誤魔化しているのだと宮姫が説明してくれた。
「玄武と朱雀の件だって、わたくしも今初めて聞かされたのです。きっと、蓮様としては……、これで何事もなく終わっていれば、わたくしたちに告げることなく胸に秘めたまま終わらせていたのでしょうね……」
何もかも、全部ひとりで抱え込んで、と。
どこか、寂しそうな微笑を湛えながら、宮姫がそう言った。




