第29話:桜の散り際、主任の昔話
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【視点:クラウディア・マルソー】
昨夜の嵐が嘘のように、空は抜けるような青に染まっている。
ギルドのテラスからは、強風に耐え抜いた桜が、最後の力を振り絞るように花びらを舞わせているのが見えた。
「――お疲れ様、リリアン。クリフォードったら、昨夜の心労で今朝はベッドから起きてこないのよ。眼鏡のブリッジを押し上げすぎて、指が腱鞘炎になりそうだなんて、情けないったらありゃしない」
私は溜息を1つ吐き、差し出した紅茶のカップを揺らした。
「ギルドマスターとしての結界維持は立派だったけれど、終わった瞬間に私の膝で泣き言を言うのはどうかと思うわ。……まったく、あの胃の弱さはどうにかならないのかしらね」
「マスターなりに、必死だったのだと思います。……ですので、次の予算会議の際は少し手加減して差し上げます」
背後に立つリリアンが、いつもの「永久凍土」のような声で応じる。
私はふふ、と喉を鳴らし、眼下に広がるホールの活気を眺めた。
「でも、昨夜を乗り切れたのは彼やあなただけの功績じゃないわ。エリスもパニックにならずに避難者を誘導したし、ボロスの炊き出しは最高だった。ナネットの鉄壁の守りも……。みんな、あなたの『指示書』という名の信頼に応えていたわね。この街の風景を守っているのは、私たち全員の『調整』の結果なのよ」
私は紅茶を一口啜り、トーンを1段落とした。
「ねえ、リリアン。私がかつて『S級』の冒険者だったことは知っているわね? 『紅蓮の戦姫』と呼ばれ、剣1本で全てを解決できると信じていた頃の話よ」
リリアンは無言で聞き入っている。
「でもある日、気づいたの。私が最前線でドラゴンを1頭倒す間に、後方の兵站ミスで100人の新人が餓死しかけていた。……剣で守れるのは半径数メートル。けれど、この窓口で正しい数字を積み上げれば、100人の命を明日へ繋ぐことができる。1人の英雄を育てるよりも、100人の日常を『事務処理』で守る方が、ずっと難しくて尊い……」
私は振り返り、彼女のアクアマリンの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「あなたは自分を前線から退いた『脱落者』だと言っているけれど、それは間違いよ。あなたは今も、この街で最も困難な『S級極秘任務』の最中ではないの」
リリアンの肩がわずかに強張る。
「中央図書館の『生ける禁書庫』ユージン・ラクロワ様の護衛。そして彼を狙う影を窓口から監視・排除する防衛。……現役の『軍師』でなければ、これほど完璧な二重生活は送れないわ。……リリアン、今のあなたの立場では権限が足りない。来期の『主任代行』、受けてもらうわよ。あなたの『大切な人』を守るための、新しい武器としてね」
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【視点:リリアン・ヴェール】
テラスを吹き抜ける風が、主任の深紅の髪を鮮やかに揺らしている。
私は、その横顔をしばし呆然と見つめることしかできなかった。
(……この人には、敵わない)
背筋が凍るような畏怖と、それを上回るほどの熱い尊敬が胸を去来する。
私は、自分がこのギルドで完璧な「受付嬢」を演じているつもりだった。
ユージンの護衛任務、かつての軍師としての身のこなし。それらはすべて鉄の仮面の下に隠し通せているのだと。
けれど、この人は最初からすべてを知っていたのだ。
知った上で、私が「受付嬢」として生きるための余白を、この窓口という名の聖域を用意してくれていた。
「主任……。私は、自分の保身のために、ここへ逃げ込んだのだと思っていました。S級という重責を捨て、事務作業という隠れ蓑に甘えているのだと」
「ふふ、隠れ蓑? 昨夜の地獄のような運営をやってのけて、まだそんなことを言うの?」
主任は可笑しそうに目を細めた。
「リリアン、私にとっての事務処理は、かつての剣よりずっと重いのよ。あなたは脱落者なんかじゃない。……私が見込んだ、最強の守護者。昨夜、あなたが守ったのは500人の冒険者だけじゃないわ。この街の『平穏』そのものを守り切ったのよ」
その言葉は、私の心の奥底に沈んでいた呪縛を、一瞬で解き放ってくれた。
私は誇りを持っていいのだ。
窓口でペンを走らせることも、ユージンを守るために情報を操作することも。
すべては、主任がかつて選んだ「より尊い守り方」と同じ地平にあるのだから。
「主任代行……。それは、私に『盾』を捨て、再び『剣』を執れと仰るのですか」
「いいえ。さらに強固な『城壁』になりなさいということよ。主任代行になれば、ギルドの最高機密へのアクセス権も、いざという時の人員動員権もあなたの自由。……あなたが守りたいものを、王国の法とギルドの規約という名の鎧で包み抜くのよ。それが、大人のプロの戦い方だと思わない?」
主任は、すべてを見透かしたような、それでいて母親のような温かな微笑みを浮かべていた。
(クラウディア主任……。あなたは、本当に『仕事の神』だわ)
私は静かに、だがかつてないほど確かな意志を込めて、その場で最敬礼を捧げた。
ユージンという存在。彼が背負う「王国の知恵」という重すぎる荷物。
それも含めて、私はこの「春風の窓口」から、最強の主任代行として受け止める。
「……謹んで、お受けします。クラウディア主任」
「期待しているわよ。……さあ、お茶が冷める前に戻りましょう。階下では、みんながあなたの『最終チェック』を待っているわよ。ナネットがホールのワックスがけを終えて、あなたが1ミリの曇りも見逃さないことを楽しみに待っているんだから」
主任の背中を追いながら、私はアクアマリンのピアスに触れて背筋を伸ばした。
ユージン。
あなたの守る知識の海が、いつまでも凪いでいられるように。
私は、この偉大な先達から受け継いだ「プロの流儀」を胸に、永遠にこの窓口の番人であり続けましょう。
【リリアンのプロな流儀】
「剣で守れるのは半径数メートル。だが、ペンで守れるのは、この街の明日の風景全てである。プロとして生きることは、己の役割を誇りに思い、愛する者の日常を、情報の盾で包み抜くことなのである」
(第29話:完)
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