第23話:恋人ユージンの「プロの恋人としての流儀」
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【視点:ユージン・ラクロワ】
中央図書館での勤務を終え、私はリリアンのアパート「青い鳥荘」へと足を運んでいた。
合鍵で扉を開けると、室内には沈黙と、かすかにインクの匂いが漂っている。
壁一面を埋め尽くすアンティーク地図は、彼女がここをどれほど大切にしているかの証左だ。
カチリ、と時計の秒針が刻む音だけが聞こえる。
ほどなくして、重い足音が廊下に響いた。
「……ただいま戻りました」
現れたリリアンは、一見すればいつもの完璧な受付嬢だった。
背筋は伸び、制服に皺一つない。
だが、左耳のアクアマリンのピアスが、わずかに震えている。
「おかえり、リリアン。今日は随分と遅かったね。……顔色が少し、青白いよ」
「……ええ。少し、質の悪い『計算違い』が起きましたので。事務的な処理に、想定以上のリソースを割かれました」
彼女は淡々と告げ、力なくソファーに体を預けた。
私は彼女の言葉を額面通りには受け取らない。
アンリから聞いているギルドの噂、および時折彼女が漏らす、あまりに「洗練されすぎた」所作。
思えば、数年前に私が中央図書館の禁書庫管理を任された直後、彼女は唐突に私の前に現れた。
最初はただの「熱心な読書家」だと思っていたが、今ならわかる。
あの時、彼女は私を護衛する任務に就いていたのだ。
私は何も聞かず、台所へ向かった。
「……ユージン、何をしているのですか?」
「お茶を淹れているんだ。君の好きなお菓子も、市場で買っておいたよ」
私は彼女の隣に座り、温かなカップを差し出した。
湯気が、彼女の強張った表情をわずかに溶かしていく。
「……ユージン。私は今日、規約の守り手として、ある冷徹な『決断』を下しました。守秘義務がありますから、詳しい内容は言えません。……ですが、誰かの未来を奪う判を押すこともまた、この窓口に座る私の、逃れられない責務なのです」
彼女が、私を見つめる。
その瞳の奥には、冷徹な執行官としての孤独が揺れていた。
「リリアン。私は君がどんな仕事をして、どんな過去を背負っているのか、詳しくは知らない。……けれど、今の君が、ただの『リリアン』としてここに戻ってきたことはわかるよ」
私は彼女の手を、そっと包み込んだ。
「ギルドでの君がどんなに鋭い刃であっても、ここには君を切るものも、君が切るべきものも存在しない。ここは君の『日常』だ。……だから、今はただの地図好きの女性に戻っておくれ」
リリアンは一瞬、目を見開いた。
それから、ふっと憑き物が落ちたように微笑む。
「……ずるい人ですね。あなたは。……そう、そうですね。今夜は仕事の話はおしまいです。……ねえ、ユージン。先日手に入れた、北方の測量図の写し……あれの等高線のズレが、やっぱり気になって……」
彼女は子供のように瞳を輝かせ、夢中になって地図の話を始めた。
私はそれを聞きながら、ただ穏やかに相槌を打つ。
彼女が「鉄の女」として張り詰めていた神経を、ゆっくりと解き放っていく時間を守る。
それこそが、一級書記官である私にしかできない、彼女への「プロの恋人」としての流儀だった。
◇◆◇◆◇
【視点:リリアン・ヴェール】
ユージンが淹れてくれたお茶は、驚くほど私の喉を優しく通った。
鞄の中から、一通の手紙を取り出す。
今日、地方の分会に戻った研修生のフィーナから届いたものだ。
『リリアンさんへ! 教わった通りに書類を整えたら、支部長に「見違えたな」って褒められました! アクアマリンのピアス、宝物です。いつかリリアンさんみたいなプロになります!』
拙い文字で書かれた感謝の言葉に、ささくれ立っていた心が少しだけ温まる。
彼女のような「芽吹き」を守るためなら、私は何度でも鉄の仮面を被ろう。
「……あ。……失礼、ユージン。私、少し行儀が悪かったかしら」
気づけば、私はソファーの上で膝を抱え、ユージンの肩に頭を預けていた。
ギルド職員がこの姿を見れば、卒倒するに違いない。
「……ねえ、ユージン」
「なんだい?」
「あなたは、私が何者か、……本当は気づいているのでしょう?」
私の問いに、彼はしばらく沈黙した。
窓の外、夜の街の灯りがカーテンの隙間から差し込んでいる。
「……さあ、どうだろうね。君がたまに、寝言で『戦線の維持』や『補給線の確保』なんて、学術的で物騒な言葉を呟いていることや……市場の雑踏で、まるで見えない伏兵を避けるように歩く身のこなしを見ていると、ね」
「……寝言、ですか。それは……不覚でした」
私は顔を赤らめた。
彼は気づいている。私がただの受付嬢などではないこと、そしてその背後に血生臭い「戦場」の記憶があることを。
数年前、S級冒険者としての私が受けた最後の任務は、王国の英知が集う中央図書館の若き管理官――ユージン・ラクロワの極秘護衛だった。
護衛対象と恋に落ちるなど、プロとしてあるまじき失態だ。
けれど、彼の穏やかな瞳に触れるうちに、私は「武器」ではなく「人」として生きる喜びを知ってしまった。
ギルドの受付嬢というポジションを選んだのは、偶然ではない。
ここは街の情報の集散地。彼に忍び寄る不穏な動きをいち早く察知し、それでいて彼に悟られない距離で守り続けるための、最も効率的な戦略地点なのだから。
この「秘密」と「日常」を共有する者は、ギルド内でも数人しかいない。 事情を知るクラウディア主任、影からさらに私たちを警護してくれるナネット、そして「地図同盟」の相棒であるアンリ。 それ以外の者に、彼の存在は決して明かさない。
私の過去が呼び寄せるかもしれない火の粉に、この穏やかな「日常」を巻き込むわけにはいかないからだ。
彼の存在を秘匿し、情報のカーテンで包み込むことは、私にできる最大の防衛戦。
「ユージン。……もう少しだけ、こうしていてもいいかしら」
「もちろん。……気が済むまで、ここにいればいい」
私は彼の腕の中で、静かに目を閉じた。
明日になれば、私は再びアクアマリンのピアスを整え、「鉄の女」としてカウンターに座るだろう。
けれど、この温もりが記憶に刻まれている限り、私はどんな嵐の中でも、折れることなく微笑み続けることができる。
【リリアンのプロな流儀】
「完璧なプロであるためには、完璧に『無防備』になれる場所が一つだけ必要だ。鎧を脱ぎ、盾を置き、ただの自分に戻る一瞬の休息。それこそが、次の戦場へ向かうための、最強の武器になるのである」
(第23話:完)
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