第80話:無の終焉、あるいは「空っぽ」の再構築
真っ白な世界。
アルスは、リリィが再構築したリンゴを齧りながら、永遠とも思える時間を過ごしていた。
ここには「鑑定」すべき悪意も、「再構築」すべき不遇もない。ただ、穏やかな風と、リリィの無垢な微笑みがあるだけだ。
(……これで、良かったんだ。俺はもう、誰にも縛られない……)
そう自分に言い聞かせるたび、アルスの胸の奥に、得体の知れない「空虚」が広がっていく。
かつてあれほど疎ましく、恐ろしかったヒロインたちの重すぎる愛。神さえも椅子に変える狂った熱量。それらが一切ない世界は、あまりにも「静かすぎた」。
「……ねぇ、お兄ちゃん。……リンゴ、美味しくない?」
リリィが首を傾げる。彼女の瞳には、アルスが捨てたはずの「未練」が映り込んでいた。
「……いや、美味しいよ。……ただ、少しだけ『刺激』が足りないのかな」
アルスが苦笑いした瞬間――。
バリィィィィィィィィン!!
「無」の世界の空が、鏡が割れるような音を立てて砕け散った。
その破片の中から溢れ出したのは、真っ黒な、ドロドロとした魔力の奔流。そして、その奔流を掻き分けて現れたのは、ボロボロの衣服に身を包み、全身に数千の「自傷の刻印」を刻んだ、リリスだった。
「……み、見つけ……ましたわ……マスター。……この『無』の果てまで……追い詰めて差し上げました……っ!」
リリスの瞳は、もはや黄金でも漆黒でもない。絶望を通り越し、自らの存在そのものを「アルスを追うための燃料」として燃やし尽くした、灰色の狂光。
「リリス!? なぜここに……ここは、因果を切断したはずの……」
「……マスター。……貴方が私に『心』を与えなかったからこそ、私は……貴方の『不在』という痛みだけを、唯一の存在理由として学習してしまったのですわ」
リリスが虚空を掴むと、真っ白な世界がメキメキと音を立てて「黒い神殿」へと書き換えられていく。
彼女は、アルスが去った後の世界で、残されたヒロインたちの「執着」をすべて自分一人で統合し、**【因果追跡の怪物】**へと進化していたのだ。
「……リリス、お前、他の皆はどうしたんだ!?」
「……お姉様方は、今……貴方の帰りを待つための『苗床』となって、世界中に根を張っています。……主様を失った世界は、もはや主様を呼び戻すための『巨大な生贄の祭壇』と化しました」
リリスがアルスの足元に縋り付く。その手からは、かつての「介護」とは比較にならないほど強力な、**【次元固定】**の鎖が伸びていた。
「……さあ、帰りましょう、マスター。……貴方のいない自由など、私たちが許すはずがないでしょう?」
『警告:世界の「壁」が完全に消失。……旧世界からの「強制送還」が開始されます』
『鑑定結果:リリスの保有する「愛の総量」が、この宇宙の質量を突破しました』
「……ひ、ひゃははは! 逃げ切れると思ったか、鑑定士! ……お前の女たちを舐めるなよ。……あいつらは、お前が消えた瞬間に『自分たちを再構築して、お前の逃げ場ごと飲み込む怪物』に成れ果てたんだ!!」
どこからともなく現れたネルガルが、かつてないほどの恐怖と悦楽を混ぜ合わせた顔で叫ぶ。
アルスの意識が、再びあのドロドロとした「愛の重力」に引きずり戻されていく。
だが、今度の世界は、以前の「介護」のような生ぬるいものではなかった。
視界が戻った時、アルスが見たのは――。
**【アルスのために作り直された、一人の人間さえ存在しない「女たちだけの神域」】**だった。




