第65話:逃亡の果て、名もなき廃村――「唯一の希望」との邂逅
ドォォォォォォォン!!
スラムの酒場が漆黒の魔力波によって内側から弾け飛ぶ。セレスティアの結界も、アイリスの剛力も、フィオナの蔦も、一瞬だけその強引な「魔王の波動」に押し戻された。
「……はぁ、はぁ……っ、死ぬかと思った……」
アルスは【深淵の外套】を深く被り、ステルス機能を全開にして路地裏を駆け抜けた。背後からは「アルス様ぁぁっ!」「逃がさんぞ!」「根っこで捕まえる……っ!」という、地獄の底から響くような三重奏が聞こえてくるが、振り返る余裕などない。
街の門を強引な【再構築】でスルーし、街道を外れ、生い茂る森を抜け……。
辿り着いたのは、地図にも載っていない、霧に包まれた「名もなき廃村」だった。
「……ここまで来れば、流石に『鑑定』の目も届かない……はずだ」
アルスは力尽きたように、朽ち果てた井戸の横に座り込んだ。
魔力は空っぽ。体はボロボロ。……あぁ、これだ。魔王だった頃には決して味わえなかった、この「生きている実感(最悪の疲労)」。
だが、その静寂を破るように、カサリと草を踏む音がした。
「……っ、もう追いつかれたのか!? セレスティアか、アイリスか……っ!?」
アルスは反射的に、手近に落ちていた腐った木の枝を掴んで構えた。
だが、霧の中から現れたのは、あの「執念の塊」のような妻たちではなかった。
「……あれ? 誰か、いるの?」
現れたのは、ボロボロのつなぎを着た、銀色の髪を持つ小さな少女。
彼女の瞳には、あのドロドロとした執着も、数千年の記憶も、魔王への崇拝も……何一つ宿っていない。ただ、純粋に「不審者を見つけた」という、真っ当な警戒心だけがあった。
「……君は……」
「私はリリィ。この村で、ガラクタを集めて暮らしてるの。……お兄さん、すっごく変な格好してるね? その真っ黒なマント、ボロボロじゃない」
アルスは呆然とした。
【鑑定】を、震える指で彼女に向ける。
『個体名:リリィ(村娘)』
『状態:健康、空腹。……【前世の記憶:なし】』
『特記:この世界の「バグ」に浸食されていない、唯一の純粋な存在です』
(……救われた……っ!)
アルスは思わず、その場に膝を突いて涙を流しそうになった。
狂った愛のループ。前世の因縁に塗りつぶされた世界。その中で唯一、自分を「ただの変な人」として見てくれる存在。彼女こそが、この地獄のような第3部における、アルスの唯一の避難所だった。
「……あぁ、リリィ。……俺はアルスだ。……ただの、ゴミ拾いの鑑定士だよ」
「鑑定士? ……ふーん、じゃあ、この壊れたバケツも直せるの?」
リリィが無邪気に差し出したのは、底が抜けた錆びたバケツ。
アルスは微笑み、封印された魔王の力ではなく、かつての「不遇な鑑定士」としての、ささやかな魔力を指先に込めた。
「……ああ。……お安い御用だ」
【再構築】。
バケツの錆が落ち、穴が塞がる。それは世界を壊す力ではなく、ただ一人の少女を笑顔にするための、優しい魔法。
だが。
その温かな光が灯った瞬間、アルスの外套に仕込まれた「通信機能」から、ネルガルの冷ややかな声が響いた。
『……おい、鑑定士。……いいムードのところ悪いが、警告だ。……セレスティアが、街のギルドを丸ごと買収したぞ。……「全土指名手配」だ。「愛しの夫を保護した者には、小国一つを買い取れる報奨金を出す」とな』
「…………は?」
『それと、アイリスが森を焼き始めた。……お前を燻り出すためにな。……フィオナは地下から根を伸ばしている。……あと10分で、その廃村も「愛の檻」に飲み込まれるぞ』
アルスの顔から、一瞬で血の気が引いた。
「……リリィ! 悪い、今すぐここから逃げるぞ!!」
「えっ!? なんで? バケツ、まだ水汲んでないよ!?」




