第63話:魔王の鼓動、あるいは「最初の契約」
ドクン、ドクン。
アルスの胸の奥で、封印したはずの「漆黒の核」が熱く脈動する。スラムの湿った空気の中で、ネルガルの赤い瞳が、獲物を値踏みするようにアルスを射抜いた。
「……くくっ。いい音だ、鑑定士。……お前がどれだけ『普通』を装おうとしても、その魂に刻まれた魔王の残り香が、女たちを狂わせる。……お前はもう、ただのゴミ拾いには戻れないんだよ」
ネルガルがカウンターの下から、ボロ布に包まれた「何か」を取り出した。
それは、一見すればただの薄汚れた布切れだ。だが、アルスが【鑑定】を走らせると、その裏側に潜む禍々しい文字列が網膜を焼いた。
『鑑定結果:【深淵の残滓・外套】』
『状態:未起動。……使用者の「良心」を10%削ることで、一瞬だけ存在を世界から消去する』
「……これを使え。……お前の半分を喰った私からの、再会祝いだ。……ただし、代償は分かっているな?」
「……俺の『良心』、か。……もう、半分しかないっていうのに」
アルスは苦渋の表情でその外套を羽織った。
その瞬間、彼の身体の輪郭が、陽炎のようにゆらりと歪む。魔王時代の圧倒的な武力ではない。だが、今の「最弱のアルス」にとっては、狂ったヒロインたちから逃げ延びるための唯一の糸口だった。
その時、酒場の扉が――**ドォォォォォォォン!!**という轟音と共に、蝶番ごと吹き飛んだ。
「……見ーつけた。……アルス様。スラムの酒場で密会なんて……。……いけない子には、少し『お仕置き』が必要かもしれませんわね?」
爆煙の中から現れたのは、セレスティアだった。
彼女の手には、先ほどの銀のナイフ。そして、その背後には……。
「……セレスティア。……約束だ。……捕まえたら、一晩ずつ交代で『管理』する。……異論はないな?」
アイリスが、黒い大剣を軽々と担いで現れた。
前世では「正妻」の座を巡って殺し合った二人が、なんと「逃げ足の速いアルスを確実に捕獲する」という共通の目的のために、**【アルス共有協定】**を結んでいた。
「……な、なんだよそれ……っ! 二人で組むなんて、反則だろ!!」
アルスは絶叫した。
セレスティアの「広域索敵魔法」と、アイリスの「圧倒的機動力」。
この二人が手を組めば、この街のどこにいても、一分と持たずに捕まる。
「……あら。……反則? ……アルス様こそ、私たちを置いて一人で死のう(ループしよう)としたのですから、お互い様ですわ」
セレスティアが指を鳴らす。
酒場の出口という出口が、黄金の魔法陣によって瞬時に封印された。
「……ネルガル! 助けろよ、君の『おもちゃ』が壊されるぞ!!」
「……ははは! 断る。……修羅場を乗り越えてこそ、男は磨かれるというものだ。……せいぜい、二人の『愛の檻』の中で、中身がなくなるまで搾り取られるがいいさ」
ネルガルは酒瓶を抱えて影の中へと消えた。
アルスは、じりじりと距離を詰めてくる二人の美女……いや、二頭の飢えた獣を見つめた。
「……【再構築】……っ! 壁を、壁を『出口』に書き換えろ……っ!!」
アルスが必死に右手をかざす。
だが、その指先が光るよりも早く、アイリスの剛腕がアルスの胸ぐらを掴み、そのまま壁へと押し付けた。
「……捕まえた。……もう、指一本動かさせんぞ、アルス」
アイリスの熱い吐息が、耳元を焦がす。




