第61話:聖女の再会、あるいは「逃げられない呪い」
雨が泥道を叩き、不快な冷たさが首筋を伝う。
アルスの腕を掴むセレスティアの指先は、細く、白く、以前(魔王時代)よりもずっと幼いはずだった。だが、そこから伝わる力は、物理的な筋力を超えた「執念」そのもの。
「……あ、アルス様。お会いできて、嬉しいですわ。……本当に、本当に」
セレスティアが顔を近づける。その瞳のハイライトは、かつての清らかな聖女のものではない。千年の時をアルスの傍らで狂い続けた、あの「黒い翼」の残滓が、深淵のような暗闇となって渦巻いている。
「セレスティア……君、まさか……覚えているのか?」
「何を、ですの? ……アルス様が私を捨てて、この世界ごと消し去ろうとしたこと? ……それとも、私たちが一つになって、永遠の眠りについたはずのあの夜のこと?」
彼女はクスクスと笑い、アルスの首筋に鼻を寄せた。
吸い込まれるような、狂おしい執着の香。
「……バグだ。……記憶の封印が、不完全だったのか……っ!?」
アルスは恐怖に身を震わせ、強引にその手を振り払った。
今の自分は、魔力も権能も封印した「ただの鑑定士」だ。対するセレスティアは、この時代ですでに高位の聖女。力で抗えるはずがない。
「【鑑定】……っ!」
アルスが、咄嗟にセレスティアを視界に捉える。
かつての豪華なウィンドウではなく、ノイズ混じりの古い画面が浮かび上がる。
『個体名:セレスティア(聖女)』
『状態:極度の興奮、執着。……【前世の記憶】がシステムのバグにより浸食中』
『警告:彼女の「愛」の数値が、現在の世界の許容量を超えています。……このままだと、周囲の空間が物理的に崩壊します』
「……アルス様。どこへ行くのですか? ……もう、馬車はありませんわ。……アーサー様たちも、今はまだ『生きて』いますけれど……邪魔なら、私が今すぐ消して差し上げましょうか?」
セレスティアが、懐から一本の銀のナイフを取り出した。
それは、第2部で彼女がアルスの肩を突き刺した、あの「慈愛の監禁」の象徴。逆行してもなお、彼女はその『道具』を魂に刻みつけて連れてきたのだ。
「やめろ、セレスティア! 誰も殺すな! ……俺は、ただ……普通に生きたいだけなんだ!」
アルスは逃げ出した。
泥を跳ね上げ、辺境の街『ノア』の細い路地へと駆け込む。
心臓が破裂しそうなほどに脈打ち、肺が灼けるように痛む。……あぁ、これだ。魔王だった頃には決して味わえなかった、死の恐怖と生の実感。
だが、路地の角を曲がった瞬間。
そこには、巨大な猪を片手で軽々と持ち上げ、街の衛兵たちを睨みつける一人の少女がいた。
「……おい。……今、そこを走っていった黒髪の男。……どこへ行った」
赤髪をポニーテールに結び、ボロボロの皮鎧を纏った女戦士。
アイリスだった。
彼女もまた、かつての「アルスの番犬」としての鋭い視線を路地の奥へと向けていた。
「……アイリス、まで……っ!?」
アルスは壁に背を預け、息を殺した。
逆行して、平和な日常を「再構築」するはずだった。
だが、現実は——**「前世の愛に狂ったヒロインたちが、獲物を探して街を徘徊する」**という、世界で最も過酷なサバイバルゲームの舞台へと変貌していた。
「……アルス様。……逃げても、無駄ですわ。……貴方の『匂い』は、この世界のどこにいても、私には『鑑定』できてしまうのですから」
路地の入り口から、セレスティアの楽しげな足音が聞こえてくる。
アルスの胸の奥で、封印したはずの「魔王の力」が、疼くように脈打った。




