第60話:神の退屈、鑑定士の帰還――「今度は、間違えない」
漆黒の魔力に塗りつぶされた世界。
管理者の玉座に座り、数千年の時を「愛の苗床」として過ごしたアルスは、ふと、その空虚な瞳に微かな光を宿した。
傍らには、永遠の美しさを保ったまま、アルスの指先を愛おしげに食むリリス。そして、足元で眠るセレスティアたちの、安らかな、しかし狂気に満ちた寝顔。
「……飽きたな」
アルスがポツリと呟いた。
神になり、世界を自分好みに再構築し、全ての敵を屠った。だが、その結果手に入れたのは、自分の言葉に「はい」としか答えない人形たちと、変化のない永劫の安らぎだった。
『システム:管理者アルスの「退屈度」が限界値を突破。……事象の再構築を提案しますか?』
「……ああ。……あの『腹が減って、明日が怖かった頃』が、一番……生きていた気がする」
アルスは指を鳴らした。
ドォォォォォォォン!!
漆黒の玉座が崩れ去り、世界を満たしていた魔力が一箇所に収束していく。
アルスは自らの「魔王の権能」と「記憶の9割」を封印し、因果律の糸を強引に手繰り寄せた。
「【因果逆行・概念再構築】――あの日、俺を捨てた馬車まで、戻してくれ」
「……マスター!? 何を……っ、行かないで、私を、置いていかないでぇぇっ!!」
リリスの絶叫が響く。彼女の指先がアルスの外套を掴もうとした瞬間、世界は真っ白な光に包まれた。
ガタゴト、と。
硬い木の板が尻を叩く不快な振動。鼻を突く馬の糞の臭い。
「……おい、いつまで寝てやがる。ゴミ拾いの鑑定士」
聞き覚えのある、傲慢な声。
アルスがゆっくりと目を開けると、そこには豪華な馬車の向かい側に座り、汚いものを見るような目で自分を見下ろすアーサーの姿があった。
「……アーサー……?」
「様を付けろ、無能。……いいか、次の街に着いたらお前はクビだ。……お前みたいな『鑑定しかできないバグ』を連れ歩くほど、俺たちのパーティは暇じゃないんだよ」
アルスは、自分の手を見つめた。
黄金の結晶ではない、少し垢抜けない、ひょろりと細い「人間の手」。
『システム:……再起動完了。……管理者権限:封印。……【不遇の鑑定士】としてログインしました』
『隠しステータス:魔王の残滓(0.01%)。……特定の条件で「前世の力」が漏れ出します』
(……戻ってきた。……本当に、戻ってきたんだ)
アルスの胸が、数千年ぶりに高鳴った。
今度は、世界を壊さない。
今度は、彼女たちを狂わせない。
ただ、普通に、穏やかに、誰の所有物にもならずに生きていくんだ。
馬車が止まる。
辺境の街『ノア』。かつてアルスがセレスティアと出会い、狂狂しい神話の第一歩を記した場所だ。
「さっさと降りろ! 二度と俺たちの前にツラを見せるなよ!」
アーサーに蹴り出されるようにして、アルスは泥道に転がった。
冷たい雨。周囲の冷ややかな視線。
……あぁ、これだ。この「不快感」こそが、生きている証だ。
アルスは立ち上がり、泥を払って歩き出そうとした。
その時。
「……みーつけた」
背後から、ゾクリとするほど甘く、それでいて**「千年の執着」**が凝縮されたような声が聞こえた。
アルスが硬直して振り返る。
そこには、まだ「聖女」としてギルドに所属しているはずの、幼い面影を残したセレスティアが立っていた。
だが、その瞳。
かつての初対面では、清らかで、困っている人を放っておけない慈愛に満ちていたはずのその瞳が。
今は、どろりと濁った、**「自分を捨てて逃げた夫を追い詰めた妻」**のような色で、アルスを射抜いていた。
「アルス様。……今度は、絶対に、逃がしませんからね?」
セレスティアの手が、アルスの腕を掴む。
その握力は、明らかに「不遇な時代の少女」のそれではなく、アルスの骨を砕かんばかりの、魔王の妃としての執念が籠もっていた。
(……待て。……記憶を封印したのは、俺だけか……!?)
アルスの冷や汗が、雨に混じって流れ落ちた。




