第50話:愛の盾――流された黄金の血と、歪みゆく「正気」
セレスティアの放ったナイフが、空を裂く。
かつての聖女とは思えぬ、迷いのない必殺の一撃。逃げ遅れたガレスの喉笛を貫こうとしたその瞬間、アルスはその身を投げ出した。
「……ぐ、あぁっ!!」
鈍い音と共に、アルスの左肩にナイフが深く突き刺さる。
かつての神の肉体ではない、ただの少年の肩から、真っ赤な――しかし、微かに黄金の魔力が混じった血が、どろりと溢れ出した。
「アルス様……!? なぜ、なぜそんな『不浄なもの』を庇うのですか!?」
セレスティアの絶叫。
彼女の瞳のハイライトが完全に消失し、周囲の空気が急速に凍りつく。アイリスもまた、番えていた弓を引き絞ったまま、その指先を細かく震わせていた。
「……セレスティア。アイリス。……君たちは、もう誰も殺さなくていいんだ。……俺が、そう『再構築』したはずだろう……っ」
アルスは激痛に顔を歪めながらも、肩から滴る血を無視して二人を見据えた。
だが、彼が庇ったガレスの様子がおかしい。彼が抱えていた【暴食の心臓】が、アルスの流した「黄金の血」の香りに反応し、ドクンドクンと狂ったように脈打ち始めたのだ。
『鑑定結果:【暴食の心臓】が活性化。……アルスの魔力残滓を吸収し、周囲の「愛」を「侵食力」に変換中』
「あ、あぁ……っ。温かい……。アルス様の血が、私の体に、染み込んでくるぅぅっ!!」
ガレスではない。声を上げたのは、セレスティアだった。
彼女の足元から伸びた黒い茨が、アルスの血を吸い上げ、彼女自身の血管へと逆流させていく。
「アルス……すまない。……でも、貴殿が傷つくのは耐えられない。……貴殿を傷つける世界なら、やはり、一度壊して作り直すべきなのだ」
アイリスが静かに弓を下ろし、その瞳に宿ったのは、狂気を含んだ「決意」だった。
彼女たちは、アルスが傷ついたことで、一度はパージされたはずの「アルスを管理し、閉じ込めたい」という支配欲を、正当な『保護』として再定義してしまった。
「ひ、ヒィィッ! 化け物だ……やっぱりこいつら、化け物なんだぁぁっ!!」
ガレスが呪物を放り出し、這うようにして逃げ出す。
だが、その背後に音もなくカゲロウが立ち塞がった。
「主様を汚した罪。……万死に値します」
カゲロウの手がガレスの頭を掴む。その指先が、再構築された「肉の触手」へと変貌し、ガレスの耳や鼻へと侵入していく。
「やめろ……カゲロウ! 殺すな!!」
アルスの叫びも虚しく、工房の周囲は再び、黄金と漆黒が混ざり合う「地獄の聖域」へと変貌しつつあった。
「……くくっ。言っただろう、鑑定士。……お前の『再構築』は、ただ表面を撫でただけだ。……女たちの奥底にある、お前への『呪い』は、何一つ消えてなどいない」
工房の影から、薪を抱えたネルガルが冷笑を浮かべて現れた。
その瞳は、狂気に走るヒロインたちを憐れむように、しかしどこか楽しげに眺めている。
「……ネルガル、助けてくれ……。このままじゃ、また……っ」
「助ける? ……お前をか? それとも、彼女たちをか?」
ネルガルは足元に転がった【暴食の心臓】を拾い上げ、アルスの目の前に突きつけた。
「これを使え。……もう一度、神に戻れ。……さもなくば、お前は今夜、この女たちに『慈愛』という名のナイフで、バラバラに解体されて愛でられることになるぞ」
アルスの左肩の傷口が、ドクドクと熱を帯びる。
逃れられない「神の座」への誘惑。
そして、自分を囲む、愛しき怪物たちの微笑み。
第2部、本当の絶望が動き出す。




