四十七話 忘れ去られた物語
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展開される映像は、一つにつき十分を超えていたと感じる。
もうどれだけ時間がたったのかわからない。けれど、少なくとも数時間は歩き続けたはずだ。現実の時間も同じように流れているのかどうかは、魂の記録の波にさらわれ続ける私には判別できない事柄だった。
今、全体のどのあたりを歩いているのだろう。最奥にはまだ辿り付かないのか。
この身体が精神体だというのなら疲労など感じるはずもないのだが、そろそろ足が痛くなってきた。心も痛む、依琥乃はそう言っていたけれど、私もそうなのだろうか。心などという形のないものが痛む様子など想像もつかないが。
小さな子供が二人、私の前を駆けていく。双子だろうか、見分けがつかない。
その内一人が後方から射殺され、世界が薄れ始めた。この魂の記録ももう終わりなのだろう。
後どれくらい、こんなことを続ければいいのか。ため息が洩れ、目を強くつむってまた開くと、やはり景色は変わっていた。
今度は日本だろうか。木とわらと土で作られたとおぼしき、ボロボロの小屋っぽいものが目前にあった。どこか山小屋にも似た簡素さの小屋には人が住んでいるらしく、鍋やら布団やらが隅のほうに片付けられている。今度の魂の記録は、この小屋の住人のものだろうか。
おかしなことに、小屋の前には野菜と米が小さく積まれていた。どうしてこんなところに置かれているのだろう。中に入れればいいのに。
まあ、私には関係ないことだ。さっさと進もう。
歩き出そうとして、身体が動かないことに気がつく。それどころか呼吸すら自由にできない。どれだけ強く念じても、私の指先は動いてくれなかった。
どうなっているのか理解できず困惑していると、急に視界がぶれた。小屋に背を向け、遠ざかっていく。
身体が走りだしたのだ。
自分の意思では止まれない。まるで、暴走する機械にでも搭乗しているようだ。風を切る感触が伝わってくる。早まる心臓と、荒くなっていく呼吸。私が感じている感覚は、全てこの身体の感覚に同調しているらしい。
まるで私がこの身体の人間になってしまったような…………。
(まさか──)
まさか私は、魂の記録の登場人物の身体に入ってしまったのか?
そう考えれば、この状況にも納得がいく。しかしこれほど感覚がシンクロしていては、この身体を他人とは割り切れない。
この身体の<私>は、誰かの魂の記録なのだろう。それほど私とこの<私>は、相性が良かったのだろうか。
「おうい。寄ちゃんどこいくのぉ」
枯れた声に呼び止められ、<私>は立ち止まった。そうか、たぶん女性だとは感じていたが、寄という名前なのか。言葉もわかるし、木々の茂りだけでは判別できなかったが、やはりここは日本なのだろう。
「滝ばあ、おはよう。兵部を見てない? 家にいなくて」
呼吸を整えながら、<私>は微笑みを浮かべ老婆に訊く。思ったよりも少女らしい可愛らしい声をしている。
「兵部なら泉のほうに行くのを見たよ」
老婆が皺をよせてもごもごと喋る。<私>は安心したように胸を撫で下ろした。柔らかな感触が指に伝わる。この娘、私よりも胸が大きい。
「ありがとう、答えてくれて」
「あたしゃ、外からの嫁入りだからねぇ。信仰なんて知らん、中立さぁ」
(…………中立?)
兵部という人間はなにかと対立でもしているのだろうか。
「じゃあね、滝ばあ!」
「あいよー。気を付けてね」
<私>はまた走り出す。進行方向を少し修正して。
教えられた通り、泉に行くのだろう。
はたして、池のほとりには人影があった。少年と青年の中間くらいの見目をした男だ。顔立ちは整っているが、打撲の痣と怪我が目立つ。真新しい傷もあった。
彼はさきほどの魂の記録の中で、水中に沈んでいった青年ではないか。
「兵部!」
<私>が呼びかけると、男はこちらを見た。
「ああ、寄。どうしたの?」
笑いかけられ、<私>の心臓が跳ねる。けれど<私>はなんでもない風を装って、兵部の横に腰かけた。
「どうしたもこうしたもない。今日行くって言っておいたはず──って、なにその傷、また子どもに石投げられたの!?」
「うん? まあ、うん」
「うんじゃない。どうして兵部はいつもそうなの。ちょっとは怒りなさい。それだから舐められる」
「でも、その後お饅頭くれたよ、あの子たち」
「だからそれを舐められてるっていうの」
兵部は苦笑いを浮かべるだけだ。
「どうして。ちょっと脅かしてやれば、きっともう近づいてこないのに」
「それは嫌だからなぁ。俺は、皆が何考えてるのか知りたいんだ。いろんな人といろんなことが話したい。話してみなくちゃ分からないことは多いから。だから、避けれれるのは辛いよ」
「昔からそうだよね。でも、見てるこっちの気にもなって」
「…………ごめん」
「ごめんじゃないっ」
やりとりをしていてようやく気付く。ああ、<私>は、兵部を心配していたのか。
けれど、兵部は謝るばかりで、行動を改めようとはしない。二人の間にどんな事情があるかはわからないが、たぶんずっとこんなやりとりを繰り返してきたのだろう。
たくさんの人と関わっていたい青年と、
青年に傷ついて欲しくない<私>。
意見はどこまでも平行線だ。
唐突に、泉から場面が変わった。時間は夜になり、建物の前になっている。集まっているのは村人だろうか。<私>は両親らしき二人を追って、外から中の様子を盗み見ていた。どうやら集まっているのは大人ばかりで、子供は参加できないらしい。
全員が集まったことを確かめてから集会は始まったが、やはり兵部の姿はない。
「皆に集まってもらったのは他でもない。続いている地震のことだ」
蝋燭の点された室内の、一番前に一人だけ立っている初老の男性は、この村のまとめ役なのだろうか。どこか現代の神主にも通じる袴のようなものを着ている。
「先週からずっと地響きが止まぬ。これは、龍神様のお怒りに違いない。そこでだ。龍神様を鎮めるために、生贄をだそうと思う」
村人たちがざわつく。
生贄。人や家畜の命を神に奉げることで怒りを鎮める行為。この村はどうやら、龍神というものを信仰してるらしい。
私は、滝ばあの言っていた言葉にようやく意味を見出した。滝ばあの言う中立とは、つまり龍神を信仰もしないし否定もしない、ということなのだろう。
生贄は古代には多く行われていた行為だと聞くが、実際にその話題になると、得も知れぬ緊張感が漂う。
「龍神を喰ったあの罪人を、明日泉に差し出す」
兵部のことだ。なにも知らないはずなのに、私はそう確信した。<私>は抗議しようとしたのか、中に入ろうとした。けれど先に、<私>の父親が勢いよく立つ。
「待ってくれ。それはさすがに早急ではないのか」
周囲の目が父親に集まる。母親は座ったままだが、自分の肩を押さえる彼女の身体は震えていた。
「あんた、情が移ってしまってるのは分かる。だが心配するな。あの罪人は、還るべき時と場所を得ただけだ」
まとめ役がそう言うと、周りからも同意を示す声が届く。ちらほらと苦い顔をしている村人もいるが、父親のように反対の声を上げる人間はいない。
父親は拳を震わせ、うつむいて唇を噛む。
「わかっている。だが、それでも……。十まで育てた。……半分は私らの子だ」
龍神様のものではない、と言外に抗議する。
あまりに悲痛な声に、<私>は何も言うことができなかった。
ただ胸が締め付けられ、強く歯噛みすることしかできない。
兵部の味方は確かにいるのだ。けれど、大きな集団から見ればその声は小さすぎて、なにかを守るにはか細すぎた。
「なら、あなたたちが生贄となるの?」
「えっ?」
しんと静まり返った集会場でおもむろに切り出したのは、前の方に座っていた女性だった。<私>の両親と席が近い。
それに呼応するように、まとめ役が頷いた。
「そうだ。君たちほど信心深い信徒なら、龍神様もご納得なさるだろう。君と、奥さんと、あの元気なお嬢さん。家族三人で仲良く龍神様の下へと巡礼するのもいいのではないかな?」
あまりに酷な言葉に、場に居る全員が絶句した。しかし、すぐに恭順する者達が同意を示す。
予想外の反応に、父親は焦ったように声を上ずらせる。
「ま、待ってくれ。娘は──寄は関係ない! あの子は信徒ではないんだ」
「しかし一人残されるのも可哀想だろう? なに、私達はどちらでも構わんよ」
それが決め手だった。
父親は完全に戦意を失い、母親は涙を流し口元を押さえるだけだ。
<私>はその光景を見ていられず、その場から去ろうとした。
しかし、自分の他にも集会の様子を覗く人間がいたことに気づき、<私>は身構える。けれど、そこにいたのは見覚えのある細身の青年。
「兵部……」
「うん。とりあえず、行こう」
兵部に手を引かれ、<私>はその場を後にした。
集会場の中では、まだ何か話し合いが続いていた。
泉のほとりまで来て、<私>は兵部の手を払った。
「どうして何も言わないの! このままじゃ殺されちゃうのに!」
堰を切ったように、叫びが洩れる。夏場だというのに、大きな泉を渡ってきた風は肌に冷たかった。
「逃げてよ、この村から! 龍神なんて嘘っぱち。ただ似たような形の痣があっただけで、兵部は罪人でもなんでもないのに。貴方が背負うようなものじゃないっ。だから、一緒に逃げよう、兵部」
縋りつく<私>に兵部は触れない。ただ、いつものように苦笑を浮かべるだけだ。
兵部は今何を考えているのだろう。知りたいと願った人間達の心根を見せられて、何も感じていないわけがないのに。
「俺は、逃げないよ」
ようやく呟かれたのは、そんな言葉だった。
<私>は兵部を見上げ、その胸を叩く。
「なんで? 逃げようよ。おかしいよこんなの」
けれど、やはり兵部は意見を変えない。
「駄目だよ。俺は、俺を拾ってくれたこの村に恩義がある。……それに、俺が逃げ出してしまったら、おじさんとおばさんに非難が向いてしまう」
おじさんおばさんとは、<私>の両親のことだろう。兵部は、自分のことよりも他人のことを心配しているのだ。ほんの五年間、一緒に暮らした、それだけなのに。
……五年? 私はどうして、そんなことを知っている?
兵部は縋りつく<私>の肩を掴んで自分から引き離す。そうして、<私>の涙を指先で拭った。
「俺にはなんの取柄もない。だからせめて、君たちを守らせてくれ」
微笑む兵部は、本心からそう言っているようだった。
それは決意をにじませた言葉だ。決して揺るぎそうにない。もし兵部が逃げ出せば、今度は<私>とその両親の三人が、生贄に選ばれるに違いない。村のことをよく知らない私にでも安易に想像がつく。<私>もそのことには気づいているのだろう。震える身体を抱きしめ、それでもまだ兵部を見据える。
「嫌だ……。わ、私は兵部と離れたくないっ。二度と会えないなんて、そんなの耐えられないよ!」
胸が苦しい。身体に力が入らない。これは、大切なものを失う恐怖だ。考えればわかる。私だって、更科君と二度と会えないとなったら、きっと同じような感覚に苛まれるだろうから。
「だって。だって私は兵部のことが、ずっと──」
言い切らないうちに、<私>は兵部に抱きしめられていた。
力強く、温かい。人間の、生きている鼓動。痛いくらいに強く、彼は<私>を抱きしめる。
「俺だって!」
大きな声に<私>が縮み上がる。声を荒げる兵部を、初めて見た。その背中は震えている。
「っ……俺だって、同じだ。でもだからこそ、俺は君を捨てて逃げることなんてできない。まして全員で逃げ出したところで、この村の人たちはきっと捕まえに来る。だから、後悔しないためには、これが最善なんだ」
言い聞かせるように、兵部はそう言った。
二人の想いは通じ合っているのに、この世界は小さな幸せすらもたらしはしない。
この世は残酷さで満ちている。しかもこの残酷さは、神ではなく、きっと人が作り出したものだ。
龍神などではない。人が、二人を引き裂くのだ。
「俺だって寄とずっと一緒にいたいよ。けどそれはできない。君を守りたい。だからどうか、待っていてくれないか」
どういう意味か捉えきれず、<私>は兵部を見つめた。そこにはすでに激昂の余韻はなく、ただ穏やかな笑みがあった。
なんだかその表情に見覚えがある気がする。顔のつくりは全然違う。けれど一瞬、私の見知った青年の顔が兵部の顔と重なった。
「待つって、いつまで?」
<私>が訊く。兵部は<私>の髪を撫でながら、一言一言を確かめるように話した。
「俺が何度死に、何度生まれ、また死のうとも。絶対に、君を迎えにいく。君が別人になっていたとしても、必ず見つけ出す。だから、それまで待っていてくれないか」
絶望しかない世界に、微かな希望を植えるように兵部は言葉を紡ぐ。それが気休めでしかないことは、二人ともわかっていたはずだ。生まれ変わってしまえば、前世の記憶は失われる。まして姿も変わるのだ。出会えたところで、お互い認識できない。
それでも<私>は、兵部を安心させたくて、必死に笑みを浮かべた。
「うん。待ってる。たとえ百を超える年月が流れようと、ずっと」
顔が引きつり、成功したかはわからない。けれど兵部も笑ってくれた。そうしてどちらからともなく、また抱きしめ合う。
ずっと貴方を待ち続ける。
それは、来世への約束だった。
目をつむり、また開けると、今度は朝になっていた。太陽が頭の上で嫌味なくらい輝いている。
場所は泉の前。多くの村人が群がっている。<私>はそんな人々の一番後ろで、その光景を見守っていた。
泉の前に、両手両足に石の重りをつけられた兵部が立っている。そうして彼は、ただ微笑みを浮かべてまとめ役に一礼した。正装を身にまとったまとめ役が、そんな彼の頭になにかの液体を振りかけた。漂って来る匂いからして酒だろうか。お神酒、というやつかもしれない。
兵部は一切抵抗を見せることなく、ゆっくりと泉へと入っていく。太陽を見上げた青年が何を思ったのかは、分からない。ただ、村人は皆、苦々しい表情でその様子を見ていた。兵部に石を投げていた子供達も、泣きそうになるのを堪えている様子だった。
その全てを、<私>は一番後ろで見続けた。
ひきつりそうになる喉を必死に堪え、涙に歪む視界は決して彼から逸らさない。
見届けること。それが彼の最後の願いだったから。
兵部が頭まで泉に沈む。しばらく空気の泡が浮いていたが、それもほどなく消えていった。
そうして村人が、少しずついなくなっていく。父親と母親は、肩を抱き合って最初に帰っていった。
最後まで残ってたまとめ役も、泉に頭を深く下げ、そうして去っていった。
結局<私>は、兵部の願いをぶち壊して我を通せるほど強い人間ではなかった。
だから、きっと<私>が人生の最後に願うのは、一つなのだろう。
零れ続ける涙を拭くこともせず、<私>はその場に一人、取り残された。
それで身体から力が抜け、<私>はその場にくずおれた。
私の魂の記録は、それで終わりだった。
私が膝をついたのは、さっきまでいた泉の淵の地面ではない。薄く水の張った、透明なガラスのような床だった。
床には、なぜか真っ青な青空が映っている。青空も、透明な床も、果てしなく続くなにもない世界。けれど、うつむいたままの私の視界に、人影が一つあった。
「……依琥乃」
「なあに?」
呼びかけると返事があった。顔を上げて少女を見る。十四歳の依琥乃が立っていた。
その奥には、一枚の大きな姿見がある。
あれが魔術を動かす根源である鏡か。私はようやく、最奥に辿りついたのだ。
「……それを割れば、終わりなのですか」
「そうよ。あぁ誡、そんなに顔をぐちゃぐちゃにして。悲しいものを見たのね。……ごめんなさい」
「……依琥乃が謝ることじゃ、ないです」
そう。私は泣いていた。<私>の涙を引き継ぐように。
だって悲しくて、やるせなくて、仕方がなかった。<私>の感じた悲しみは、とても強いものだったから。どうしても涙が止まらない。
私は座り込んだまま、スカートの中から拳銃を取り出した。真っ黒なリボルバー。その撃鉄を起こす。両手で照準を合わせようとしたが、どうしてか腕はあがらない。
身じろぎするたびに波紋が広がる。その波紋は依琥乃のものとぶつかり、そうして消えていった。
「……嫌です」
気づけば私は、そんなことを口走っていた。
「……これを割ってしまえば、二度と依琥乃にも会えなくなるのでしょう?」
震える唇をどうにか動かし、依琥乃に訴えかける。
しかし依琥乃は首を横に振る。
「私は本物の伊神依琥乃ではないわ」
「それでもっ。会えなくなるのはもう嫌なんです!」
自分にこんな大きな声が出せるとは思わなかった。涙がまた溢れだす。依琥乃の姿がさらに歪む。
更科君から電話をもらって依琥乃の死を知ったとき、私の心は穏やかだった。けどそれは伝えられたのがただの結果に過ぎなかったからだ。こうして目の前にいる彼女が消えるのとはわけが違う。
それに私は、知ってしまった。
大切な人が目の前でいなくなる恐怖と悲しみ、それと苦しみを。私は<私>に教えられた。
知ってしまえばもう、耐えられない。耐えられるわけがない。
「私は貴女に、つらいことばかりさせているわね。でもお願い。私にはこれしか言えない」
私の前に屈み込んだ依琥乃が、私の肩に触れ、鏡を指さす。
「さぁ、誡。撃って」
肩に触れる手は温かい。兵部と同じ。
たとえこの依琥乃が複製で、幻影でも、私は──。
けれど、腕がゆっくりと持ち上がる。依琥乃の指さす方へ、銃口を向ける。
私も<私>と同じだ。人の願いを裏切れるほど、強くはない。
「──それはね、優しさというのよ」
耳元で依琥乃の声がした。銃声にかき消され、意味までは伝わってこない。
鏡にひびが入ると、世界に同じようにひびが入った。青空は割れ、水しぶきが飛ぶ。
薄れゆく意識のなか、小さく手を振る少女の姿が、遠く、遠くなっていった。




