四十五話 鏡の中
8
そこには多くの人生があった。
歩を進めるごとに場面は移り変わる。
子を捨てる母の背中。
戦場に武勲を挙げんと猛進する将。
ただ穏やかな陽だまりの中に息を引き取る老人。
人間の魂の内、最も強く焼き付いた光景たち。
それは時代も場所もばらばらだった。古代を匂わせる景色もあれば、近世の街並みを歩くこともある。映る世界に私は干渉できない。ただ眺めるだけだ。
依琥乃に言われた通り、私はそれを横目にしながら真っすぐ進んだ。
最初は全て、一瞬で次に移り変わった。目まぐるしく変わる風景に酔いそうになるほどに。そうして徐々にその魂の記録は長く視界に留まるようになる。消化されていない部分が増えてきた証だろう。
かつて複製された魂たちの、最後の叫びのようだ。
けれど、それは全て過去のこと。知り合いの姿は見なかった。
今の私に関係はなく、また、これからの私の人生にも関わりはない。
そういうものか、と考えて、私はまた前を見る。今は一つ一つの映像が数分にまでのびている。今全体の内何割程度が終わったのだろう。いつになったら最奥に辿りつくのだろう。
また景色が変わった。
神殿のような場所で、果てしない階段を一人の少女が昇っていく。下はすでにどれほど昇ったか見当もつかず、上は何処まで続くか見通せない。
いままでのどれとも雰囲気の異なる世界。
両端に灯った松明の光に揺れる少女の姿に見覚えがある気がして、私は足を止めた。
息を切らせ、それでも上り続けるその少女は成人しているようには見えなかった。自然な緑髪と、燃えるように赤い目をしている。古代の人間が着るような白いローブに身を包んだ少女の顔を、私は知らない。
どうして見覚えがあるなどと感じたのだろうか。
気が付くと少女は最後の段を踏みしめていた。広い何もない空間には奥に一つだけ玉座があり、そこに少女と同じような恰好をした男性が偉そうに座っている。
男の顔は闇に包まれ、ここからではよく見えない。
息を整えた少女が男に近づいていく。その表情は、不満に満ちていた。
「まったく。なんで偉ぶってる奴って高いところにのぼりたがるのかしら」
昇ってきた階段を振り返りながら言う。それに男性は不快な笑みを張り付けて答える。
「気持ちがいいからなあ。それに、ここから見ると人がゴミにしか見えなくて面白いのだぞ」
「あらそうなの。けど知ってる? そのゴミってね、近くで見ると貴方にそっくりな姿をしているのよ」
空気が冷え込む。男が笑みを引っ込めた。この二人、仲はよろしくないようだ。
「どこかで見たと思えば、あの吸血鬼に肩入れしている娘ではないか。……それで、なにをしにきたのだ、人間」
地を震わせるような声が神殿に響く。少女は少し後ずさったが、それでも拳を握りしめて耐える。
「私は忠告にきたのよ」
「忠告? 人間風情がこの吾にか?」
「最近の貴方は横暴がすぎるわ。確かに創造主であり大きな力を持つ貴方は実際に偉いのかもしれない。でもそれだけ。
いい? 生きとし生けるものは、ちょっとは謙虚にならなきゃいけないの。生きるのって助け合いなのよ。例えば、めちゃめちゃ賢くて頭がいいけど体力なくて一人で生きていけない、人の優しさで生かされていると自負する私のように!」
用意してきたであろう台詞を、少女は胸を張って言い切った。その身体は少し震えている。けれど少女は男から決して目を逸らさなかった。
そんな少女に、男はまた愉快であるというように蔑みの笑みを浮かべた。
「ふははははははは! 神殿までわざわざ昇って来て、やることが文句つけるだけとは! 久々に笑わせてもらったわ! はは、脆弱な。そうかそうか。そうであろうな人間は。だがそれは吾には当てはまらぬ。吾の力は万全だ。誰にも脅かすことはできぬ。ああ、だがそうだな。お前は何も知らぬのだ。この吾の力を。ならばお前に授けてやろう、吾の力の一端を」
男が右手を振るう。すると少女はその場に崩れ落ちた。頭を押さえて苦し気に唇を噛む。
「なっ、なに、を」
「なにを? 今のお前は知っているはずだ。なにせお前にくれてやったのは全知の力だからなぁ。ふはは、人間の身では力に耐えきれぬか。残念だ。たぶんすぐに死ぬぞお前。どれほどもつかは分からん。────ああ、これが“わからない”か。なるほど。人間とは実に窮屈に生きていたのだな。これなら先の暴言も理解できるというもの」
訳の分からないことを大声でわめき散らす。なんとも不愉快な声だ。
「神の力である“全知”は、全能と対になってバランスを取っていた力だからなぁ。人間が片方だけ与えられても反作用が生じるだろう。これよりお前は何を行っても、誰と絆を深めようと、この世の記憶にも記録にも忘れ去られる。全能が働かない“不全能”に支配されるのだ。
愉快だなぁ? 全てを知ることができるのに、誰にも知られぬ価値なき存在となる。なんとも皮肉が効いているとは思わんか」
少女は頭を抱えたまま答えることができない。ただ、男を睨みつけるだけだ。その眼光は弱弱しくも、宿した意思は薄らいでいない。
男は自分を貫く視線の鋭さに気づかないかのように、手の平を掲げ少女を見下す。
「お前は、全ての人間に忘れられるために生きるのだ。はは、嘆くな。人間とはもともとそういうものであろう?」
「違うっ」
少女は男の言葉を否定する。その身体はもはや地に伏している。それで少女は顔を上げて、男に咬みつくように言い放つ。
「私は────人間は、生きた意味を得るために、……誰かの心に残るために、生きて死ぬのよ」
それは、少女の渾身の反論だったのだろう。けれど男には通じない。そもそもこの男は、人の話を聞いていない。男にとって人間の言葉など、鳥のさえずり程度にしか感じないようだった。
「そうだな。忘却に勝り続ければ、いずれ全知の力も弱まり解放されるだろう。何千年かかるか見物だなあ」
それで少女の魂の記録は終わりだったようで、景色が暗転していく。少女は最後まで、全霊をかけて男を睨みつけていた。
あの皮肉、喋り方。やはりあの少女は、依琥乃の魂の持ち主だったのだろうか。確信を持てないまま再び歩き始める。
また景色が変わる。
今度は、水の中だった。
一瞬呼吸を止めたが、これはただの上映に過ぎない。普通に呼吸できるし、水中なのに普通に歩ける。
水の中には庶民風の着物を着た青年がいた。いた、というか、沈んでいた。両手両足に石の重りがつけられている。
石の重さで少しずつ沈みゆく青年は、穏やかな表情をしていた。優し気な目で、水面の向こうの、日の明かりを見ている。
自殺だろうか。それとも……。
なぜだか胸が苦しくなり、青年に手を伸ばしかけた。けれど、すぐに景色が変わる。夕日の中の麦畑には、青年の姿はどこにもなかった。
そうだ。私はまだ歩き続けなくてはならない。
宙を掴んだ手を握りしめ、私は歩を速めた。
9
「ちょ、ちょっと待ってください。依琥乃は、そんなことのために人を危険にさらす人間じゃない!」
それは、もはや怒鳴り声に近かったと思う。射牒さんも少し驚いた顔をしていた。自分自身、こんなに大きな声を出すつもりじゃなかった。
けれど、結果的に強い語調になってしまう。
「不全能を克服すれば全知も薄まるとか、そういう話を嘘だと思ってるわけじゃない。けど、信じられないんです。依琥乃はいつも言っていた。前世の記憶があろうと、依琥乃は依琥乃だって。そうじゃないと伊神依琥乃として生まれた意味がないって!」
依琥乃には、いままで生きてきた全ての人生の記憶がある。それでも、依琥乃は己とその前の自分とを区別して考えていた。だから依琥乃は、生まれ変わる前の自分の知り合いには、決して自ら会いに行かない。ただ一人、レーゾン・デートルという例外を除いて。
「なら、なおさらだろう」
しかし、射牒さんは冷ややかに自分を見返す。
「全部が演技でなかったとどうして言い切れる。伊神依琥乃は、来世以降をまともに生きるために、今世を犠牲にしたんじゃないか?」
「つまり、依琥乃が自分らの記憶に残るためだけに、ずっといい人の演技をしていたと? 自分らが依琥乃を信頼する気持ちを逆手にとって、わざと館の老人や漆賢悟をけしかけたって言いたいんですか。」
「その通り。なんだわかってるじゃないか」
唇を噛む自分を見ながら、射牒さんが口角を上げる。冷たい瞳が、自分の心を見透かすように貫く。
射牒さんにはバレているのだ。自分が、その可能性を捨てきれていないことに。
依琥乃を信じたい。けれど、状況証拠だけ見れば確かに、射牒さんの言い分には理がある。
依琥乃を知る者なら誰でも不審に思う死に方といい、彼女の死後に巻き込まれた事件が両方、依琥乃をトリガーとしていることといい、まるで『私のことを思い出せ』と言っているかのようだ。
けれど、それはおかしい。おかしいと断言できる。
「けれど、依琥乃にはそんなことできませんよ、射牒さん。大声を出してすみません。感情的になっていました。だから、ここからは冷静に語りましょう」
「うん、いいだろう」
自分のその言葉を待っていたというように、射牒さんが体勢を整え、指を組んで挑戦的な笑みを引っ込める。
からかわれていたのだ、と気づいて羞恥が顔にのぼるが、自分は構わず続けた。
「全知の力は、不全能を克服することで弱まっていくと、あなたは言いましたね。きっとその通りだ。依琥乃の全知は衰えていた。依琥乃には、自分の死後のことまで知る力はなかった」
「と言うと?」
「知りたいことだけしか、知ることができないんです。それも、依琥乃自身が人生の内、入手可能な情報に限られる。例えば、投票中の選挙の結果はわかるけど、クラムボンの正体はわからない」
依琥乃の知識の幅には限度があった。現在以前の情報は、依琥乃が知り得ていたことしかわからない。大昔のことは、その代の依琥乃が知っていたことに限られる。
そして未来については、彼女が知り得る可能性のある情報なら、それがどんなことだろうと知ることができる。逆に言えば未知の概念や、依琥乃が死ぬまで触れることができないような場所にある情報については、決して知ることができない。そうしてその未来に、来世の彼女はカウントされない。
言うなれば、情報の前借りみたいなものなのだ、彼女の全知は。
「それすらブラフ、ということはないのか? もしお前らの知る伊神依琥乃の人格が、演技によって創られたものならば、全ての前提がひっくり返る」
確かにその通りだ。けれど、それを疑い出したらきりがないし、第一自分は依琥乃の笑顔を疑いたくない。
それに、もし騙されていたとしても、どうしてそれを責めることができる。
自身の抱えた問題に対して対抗策を講じ、実践することの何が悪だというんだ。例えそれで他者を巻き込もうとも、人間に幸せに生きる権利がある以上、当たり前の行動なんだから。
「というかですね、やっぱり自分には、依琥乃がそういう他者の犠牲を容認できるような人間には、思えないんです」
どうしてだ? と射牒さんが視線だけで問うてくる。
だから自分は、依琥乃を疑いそうになる己をいつも戒めてくれる事実を口にする。
どれほど不確かな拠り所でも、これだけは、胸を張って言える。
「だって、依琥乃はあの誡の親友なんですよ」
自身満々に自分はそう宣言した。射牒さんは一瞬目を丸くした後、ふっと噴き出す。
「ああ、これは一本取られたな」
誡に信を置いているのはこの女性も同じだろう。だからこそ、誡が親友であり続けた依琥乃という少女に対しても、射牒さんは不信感こそあれ、敵意を向けることはない。少なくとも、いままで射牒さんを観察してきて自分はそう感じた。
射牒さんはあくまで公正に情報を収集してくれている。
後は、自分が結論を出すだけだった。
「なあ更科、お前が伊神依琥乃を信じるのは自由だし、応援したくもなる。だが、実際問題、結果に裏切られたらどうするんだ?」
呼び鈴を押した射牒さんが、口元に笑みを残したまま訊いてくる。
それが彼女からの最後の質問なんだと、なんとなくわかった。だから、自分もメニュー表を見ながら、あくまでついでとばかりに答える。
「簡単ですよ、依琥乃の思惑にまんまと引っかかった愚か者。そうやって笑い合って、話は終わりです」




