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哀傷ゾルレン  作者: まじりモコ
第二章 狂気の隆替
26/77

二十四話 屋上会談


         24


 持ち出した日本刀を蔵へ返して、真っ暗闇で独り想いを巡らせる。

 この倉にはもうおじいさますら訪れない。手入れも、管理さえも放置された倉だ。母方の祖父に引き取られて以降、あたしはこの立派でされど薄暗く、やけに乾燥した静寂な空間を恐れ、昨年まで足を踏み入れることはなかった。



 いつも一歩、身を引いたところから見ていた気がする。心振るわせる感動や、己の身を犠牲にしてでも他者を守ろうとする類の、人間関係における優しい奇跡を。そんなものは確かにこの世のどこかにあるのかもしれないけど、少なくともあたしとは一切関係ないことで、目に映るのは映画のスクリーンの向こう側くらいのものなのだと。

 もしそういったものがこの世に、あたしの周囲に存在するのならば、どうしてあたしの前に現れない。凶暴性を隠すことしかできないあたしを、どうして救ってくれない。……なんて、とっくの昔に捨てた願いだ。


 あたしの周囲に奇跡は存在しない、手に入るわけがないと思っていたから、諦めることができた。だからこそあたしはいままで冷静に生きてくることができたのだ。


 けれど、友達と笑いあう瞬間に、ふと空虚がよぎる。掴んだ達成感の中に(うろ)がある。どれほど日常に埋没し、目標を掲げ道を邁進(まいしん)しても、それはひょっこりとあたしの前に現れる。

 あたしが手にする全て、あたしを取り巻く全てが、あたしを殺した結果に得たもの……。

 その事実に耐えて、忘れようと懸命になって、ようやくなにか掴んだと思っても、その何かは汚れている。──あたしの血で汚れていると気づく。

 それは決して切り離せない自分自身。あたしはそいつに傷つけられた己を無理矢理に剥ぎ取り、箱に仕舞い、牢に入れて鎖で巻いた。けれど傷口から溢れる血は止まらず、いつかあたしの内を満たす。

 それでも見ないフリをして、忘れたフリをして、今まで過ごした。


 それなのに、イチョウの舞い散る眩しいあの日、あたしは見てしまった。おじいさまの古い知り合いの老人が、早くに亡くした妻を生き返らせるためだけに、自分の持っていたものを全て捨て去った姿を。脇目も降らず机に向かい、おじいさまの用事で訪れた私は数年ぶりの客であったようなのに、一言二言で一瞥すらせずにあたしを追い出したその、枯れ果てた懸命な姿を。

 ――そうしてあたしは知ってしまった。《《それ》》は本当はいつも手の届く所にあって、あたしはただ、勝手に背を向けていただけなんだと。

 理解した途端、世界から温度が消えた。音も、色も、心すらも。そのくせ頭には割れそうなほど血が廻っていた。

 言葉にするなら、これはきっと「嫉妬」だったのだろう。誰かにはその誰かのためだけの特別がいるのに、あたしにはどうしていないのだろうかという自分勝手でみっともない嫉妬。

 閉じ込め、(よど)んでいた胸の内に風が吹いた。ただしそれは、やけに乾燥していて静寂を伴った、薄暗い風だった。


 自分の内と外とを同じに(なら)してしまいたかったのだろうか。あたしは気が付くと倉にいた。いままで、恐ろしくて一度も奥まで入ったことのない倉の中に。

 山のように積まれた骨董品と埃とを、見るともなしに眺めていると、細長い木箱が目についた。心もとめずに軽い動作で箱を開くと、そこにはあたしが隠し続けた狂気があった。

 ずっと仕舞い込まれ、時には持ち主その人にすら忘れられるほど巧妙に包まれて放置されてきたにも関わらず、一切の陰りなくギラギラと薄明りを反射して、それはそこにあった。

 あたしはこのあたし(・・・・・)を、このままにしてはおけぬ。

 手に取ってしまったからには、慰めてやらなければならない。


 幼い頃繰り返し見た動き。人目につかない広い庭の真ん中で、(くう)を裂いてあたしは踊り、()えた。

 泣きながら吼え、喉が枯れ、手が震えるほど振り回し、振り回され、膝をつくころにはもう、決意していた。

 一度放てばもう逃げられない。「特別」が降ってこぬなら自分から作りにいかなければならないのだ、と。


          24


「もしもし、どうしたんだこんな時間に。うん? 私か? 私は署に残って書類仕事さ。は? ゆかりべしぐさ? 殺人事件の資料? どうしてそんな──、わかった、わかったよ。五分待て。折り返す」


「……ったく。聞いたことが無い事件だと思ったら、私が配属される前のものじゃないか。苗字も違うし、捜すのに苦労したぞ。今、家にいるな? よし。パソコンにデータを送る。…………届いたか? そうか。この事件が誡の調べているものと関係があるのか? はぁ? わからないだと? 

 ……まぁいい。データはきちんと抹消しておけよ。うん? 質問か。どうした? ────日本刀を振り回す格上を相手に戦闘を長引かせるコツ? …………それは私の助けは必要か? ……そうか。ではアドバイスだけに留めよう。なんとなく事情は察したが。……事後報告はかならずしなさい。いいな」


         25


 少し重たい扉を押し開く。コンクリート打ちっぱなしで放置された屋上に出る。


 周囲は真っ暗だ。今日は新月。月明りは期待できない。コンセントもないのに光を放つテレビの明かりが頼もしく、薄気味悪い。


 赤井廃ビル。少し前に持ち上がった都市開発計画の残骸。形だけはビルとしてそびえ立っているここは、元々商業ビルとして建設された。けれど相次ぐ不祥事や事故により工事がストップして管理放棄され、以来一人の吸血鬼によって支配されている。


 自称千年生きた吸血鬼。

 恐るべき力を持つ銀色の男。


 自分(ぼく)の魔法の師匠である、レーゾン・デートルが住まう場所である。


 屋根もないただの屋上に家具やら電化製品を持ち込み、本人はだいたいベッドチェアーらしきものに横たわっている。もちろん許可など得ていない。違法占拠だ。


 自分(ぼく)としてはあまりここには来たくなかったんだけど、今日は直接聞くことがある。レーゾンは連絡機器を所有していない。だから直接ここまで足を運ぶしかないのだ。


「レーゾン、いる?」


 いつも足を組んで座っている椅子にいなかったので、そう声をあげた。返事はない。代わりにカーンと、低い音が鳴った。


 扉から出て右側、なぜかそこだけ一部低い鉄柵が設けられた位置に、男はいた。


 銀色の髪の毛と真っ白なシャツを風に揺らし、サングラスを頭にずらして、レーゾンは自分(ぼく)を観察していたのだ。音はベルトの金具が柵に当たった音だろう。


 押し黙って端正な顔をニヤニヤと歪め、身じろぎせずに男は自分(ぼく)を見ている。それだけで威圧感が自分(ぼく)を襲って潰しにかかる。逃げ出してしまいたくなるけど、そうもできない。


 自分(ぼく)は背中に冷や汗が浮かぶのを感じつつ、かすれそうな喉を整えて話しかけた。


「レーゾン。聞きたいことがあるんだ」


「ほう。あの異常者のことか? それとも妖刀のことか? どちらにせよ、俺は気分が良い。答えてやろうではないか」


「…………」


 やはり知っていた。いや、見ていたの間違いか。この男はこの屋上から街のあらゆる事象を監視している。それがこの男にとって最上級の娯楽なのだ。


 全て見抜かれていた事実に一瞬だけ背筋が凍る。けど、それを我慢して自分(ぼく)は一歩ずつレーゾンへと近づいていった。


 怯えて逃げるだけじゃ駄目だ。今のままのこの自分(ぼく)じゃ、誡さんと一緒にいられない。


「両方聞きたいんだ。あれは本当に妖刀なの? 湯苅部仕種はその刀に操られているだけなのかな?」


「ふはっ」


 怪物が笑う。心の底から楽しそうに。しばらく肩を振るわせたかと思うと、レーゾンは鉄柵から身を離し、自分(ぼく)の隣を通り過ぎてベッドチェアーに腰かける。


 すれ違う時心臓が止まるかと思った。


 この男、自分(ぼく)が怖がっているのをわかってやっているから性質(たち)が悪い。


 若干抗議を滲ませて見つめると、レーゾンはひょいと肩を(すく)め予想外の言葉を口にした。


「あの女、通っているのは総合栄養学科らしいぞ。文学系は授業がかぶる関係で少し履修したことがある程度だろうよ」


「え? どういうこと」


「だから、その女が刀に操られているとお前が考えた一番の理由は、女の口調が変わったことだろう。聞いていなかったのか? 女の文法は無茶苦茶だ。夏目漱石、与謝野晶子、ボードレール…………。所詮、どこかで聞きかじった口調を真似ているにすぎんのさ」


 飲み込みの悪い人間にそうするように、レーゾンは呆れ顔で説明する。サングラスで目元が隠れていても、鋭い眼光で睨まれているのがわかる。自分(ぼく)は身震いしながらどうにか言葉を返した。


「そ、それじゃあ」


「確かに、刀にまとわりつく陰の気は多少あの女の精神に影響を与えるだろう。だがそれは少し気が大きくなる程度のもの。あの女は自らの意思で刀を取り、人を殺し、笑顔を選択している。

 操られてなどおらん。女の行動は全てそいつの内から湧き上がるものに間違いない」


「そっか…………」


 断言するレーゾンの言葉が、喜ぶべきものなのか否か、自分(ぼく)には判別がつかなかった。心を外から操作されていなかったのは、喜ぶところだろう。

 けど人を殺すのが彼女の意思でさえなければ、刀をどうにかすれば、彼女はそれだけで止まることができたんだ。


 これじゃあ、自分(ぼく)が魔法を成功させても、誡さんの望む結末は迎えられないんじゃ……。


「案ずるな、更科奏繁。女の戦闘技術は刀に蓄積されていたものに根差したもの。本人が熟練の技を持っているわけではない。稀癌とは違う。

 あれはお前の予想通り、呪いに近い。だが手で触れていなければ影響も受けん」


「刀を持ちさえしなければ、技術は普通の人ってこと?」


「その通り。女がアレを手にしたのはほんの数か月前に過ぎん。動きが身体に馴染むほどでもなかろう。お前の魔法で妖刀をただのガラクタに戻してやれば、刀があろうとなかろうと、あの少女が負けることはない」


自分(ぼく)が、失敗さえしなければ……ってことか」


 じゃあ、まだどうにかなる可能性はあるのか? なら、なおさら失敗なんてできない。けれど、今回の作戦じゃ、失敗する可能性のほうが高い。


 そうすれば誡さんの命も、自分(ぼく)の命も、保証できなくなってくる。


 待ち受けるのは、死か。


 誡さんに見せてもらった写真が文字列として脳裏に浮かぶ。切断された身体と、そこから漏れ出す綺麗な内臓。自分(ぼく)らも、そうなるかもしれない。


 不安で心臓が大きく脈打つ。胸が締め付けられるように苦しく、口の中が苦々しい。こんな大役、自分(ぼく)にはとてもこなせない。人の命なんか背負えない。


 だから、自分(ぼく)(すが)るように師を仰いだ。


「今回の作戦は運任せなんだ。確かに、呪文を唱え終わる前に、湯苅部仕種には現場に来てもらわなくちゃいけない。けど、自分(ぼく)が呪文を唱え終わるより遥かに前に来られても、まだ時間まで呪いは消せない。

 誡さんが時間を稼ぐと言ってくれてるけど、どれだけ持ちこたえられるかはわからない。最悪二人とも殺されちゃうんだ。

 レーゾン。魔法の役を変わってくれないかっ。アンタなら演唱なしに発動できる。失敗しようがない。頼むよ。自分(ぼく)の失敗で誰も傷つけたくないんだっ」


 最後は半ば叫びに近かった。自分で聴いていても、それはとても悲痛な告白だった。


「それに自分(ぼく)らが失敗して湯苅部仕種を止められなかったら、また人が死ぬ。自分(ぼく)一人の命の問題じゃない。レーゾン・デートル、頼む!」


 だが、この怪物にはなにも響かない。


「おめでたい脳みそだな。俺がどうして人間のために労働せねばならん。お断りだ」


 咬みつくように吐き捨てられた言葉はシンプルな拒絶以外なにも含んでいない。この生き物にとって人間など数多(あまた)いる知的動物の一種に過ぎない。それがたまたまこうして会話できているというだけ。

 同じ価値観を期待するほうが間違っている。なぜならこの男は、人間を(えさ)とする側の存在なのだから。


 知っていた情報を、恐怖が心に理解させる。やはり自分(ぼく)にはこの吸血鬼に心を許すことなどできない。だって、あの眼光に見つめられただけでこんなにも足が震え唇が渇く。怖い、恐い。


「更科奏繁、お前は最近甘えが出ているぞ。俺はお前たちを救ったりしない。それほどの価値もない。情報を提供してやるのも気分のいい時だけだ。

 教えただろう? 丁寧に。よもや、それがいけなかったか。ではこのたびより、人に害成す霊獣の消え残りとして、存分に対応してやろうか? 毎度対価に肉を少しづつ削ぎ落すなんて愉快ではないか」


「──冗談はそのくらいで勘弁してくれ、レゾン」


 レーゾン・デートルがあまりに愉快そうに語るから、ついそう言ってしまった。

 冗談にしても性質が悪く、本気にしたって限度がある。聞いているうちに怯えよりもいらだちが先に立った。


 人が頭を下げているというのに、ぺらぺらと関係ないことを喋りすぎだ。


「さっきも言ったけど、これは自分(ぼく)だけの問題じゃない。失敗は決して許されないんだ。少しでも確率の高い手段を整えようとするのはあたりまえだろ」


「ふはっ、それもそうだがな。ああ、もちろん冗談だとも。君が(・・)そう言うなら確かにそうだ」


 思ったよりも簡単にレゾンが引き下がる。この吸血鬼にしてはあっさりし過ぎている。いつもならもう二、三言嫌味が続くと思ったんだけど。


 だが、レーゾンがすぐに会話を途切れさせた理由は、すぐにわかった。


 背後で扉の開く音がする。次いで届くのは、荒げた人の呼吸音。


「そう……よ、はぁ。でも、チャレンジ精神も……大切だと、思うの」


 疲れ果てた様子でそう言いながら顔を覗かせたのは、数日ぶりに見る幼馴染の顔だった。


「とりあえず、ゴホッ。──ここのエレベーター……。使えるようにしない?」


 階段を上ってきて疲労(ひろう)困憊(こんぱい)伊神(いがみ)依琥乃(いこの)がそこにいた。


「依琥乃……大丈夫?」

「……………………むり」

「だよね」


 肩を大きく上下させ、顔は真っ赤なのになぜか唇は真っ青。まだ外気は寒いのに汗が額に浮かんでいる。そしてついでに言えば、目が疲労で(うつ)ろだった。


 どう見ても死にかけだ。


 依琥乃は極端に身体が弱い。なにかの病気というわけではないものの、基本的に病弱だ。過度の運動はこなせず、そのため体力もない。七階分の階段を上がって来るだけでこうなる。


 自分(ぼく)は彼女を支えて椅子まで連れて行った。腰を下ろした依琥乃が一息つく。顔に生気が戻っている。


「ありがとう、奏繁。平気よ。悪いのは、こんなところに住み着くレゾンだもの。私は屈しないわ」


 そう言いながら、まだ息が整い切れていない。依琥乃は己の身体をよくわかっているし、簡単に他人に頼るタイプだけど、時々負けず嫌いだ。身体が弱い分、出来ることまで出来ないと思われるのは業腹(ごうはら)らしい。


「それよりも奏繁、レゾンを説得するのは諦めなさい。今回の件は、全て純粋に人間側の問題よ。あなたたちの力で解決するしかないの」


 矛先が突然自分に向いて、自分(ぼく)は驚いた。いつから会話を聞いていたのか。それとも、やはり知っていたのか。


「けど、自分(ぼく)が失敗すれば誡さんにも危険が及んでしまう」


「誡はその辺しっかりしているわ。それより貴方よ奏繁。魔法を行使する力。それは貴方のものでしょう。なら、貴方が責任を取らなくちゃならない事よ。他者を言い訳に目を背けては駄目。

 レゾンはあくまで、この町においては存在しないはずのもの。妖刀に対抗する魔法は貴方だけのものだと考えなさい。……特別になりたいのでしょう。なら、特別なことを成し遂げることよ」


 座ったままの依琥乃に見上げられながら、そう説教を受けた。


 特異な力を欲するなら、そこには力を持つ者の責任が生じる。そう最初に警告されたことを、忘れていたわけではないけれど。


 でも確かに。失敗を恐れるあまり責任から目を逸らしていたのかもしれない。力を求めたのは自分だ。自分(ぼく)は自ら進んでレーゾン・デートルに弟子入りした。なら、全部自己責任で行うべきだ。


「そうだね。誰に(すが)るも泣きつくでもなく、自分でやらなくちゃいけないことだった」


「再確認できたならよろしい。たとえできないと思っても、可能性がゼロじゃないなら、貴方が自身の努力でやり遂げなさい。

 いつも言っているでしょう?『自ら成したまえ』って。どれだけ作家や詩人が言葉を尽くそうと、人の努力に勝る感動は生み出せないのだから」


 依琥乃が持論を語る。あまり他人の言葉を借りない依琥乃だけど、「自ら成したまえ。それが人の存在意義だ」という、昔誰かに言われたというこの言葉だけは好んで使う。もしかしたら人に伝えると同時に、そう自分自身にも言い聞かせているのかもしれない。


 身体の弱さを抱える分、他者にその負担を背負わせることを、この他者想いの少女がなにも感じていないはずがないのだから。


 小さい頃から何度も彼女が倒れるのを見てきた。昔に比べれば、依琥乃が病院に通う時間は確実に減っている。けど小さい頃から繰り返した感情は、簡単に心から離れない。


 誰に、とか。どうして、とか。自分でも整理しきれない、漠然とした罪悪感。


 自分(ぼく)が自分自身に抱いているものに、それはきっと似ている。普通でありすぎて特別を失った自分の抱く、言いようのないこの感情に。


「人はなにかしらの罪悪感を抱いて生きているものよ。それは私や奏繁、誡だって例外じゃない」


「誡さんも?」


 問うと、依琥乃は気怠そうに頬杖をついて、答えた。


「そうよ。あの子は貴方と違って、自分のことを嫌っているわけじゃない。というか自分を好きか嫌いかなんて考えたこともないでしょうね。ただ誡は、自分の感情の薄さに罪悪感を持ってしまっている」


「…………」


「本人も気づいていないくらい薄いもの。けれど、確実にあの子を覆っているでしょう。それはきっと、あの子が心を得たとしてもなくなりはしないでしょうね」


 まるで今の誡さんには心が無いかのような言い方だった。そもそも誡さんの感情が薄いと言ったのは依琥乃だ。だから、自分(ぼく)も深くその意味を考えたことはなかった。

 けど、誡さんの心を語る依琥乃の口調があまりに冷たかったから。他人ごとだったから、ちょっと頭に来た。


 まるで、そのことについてはもう諦めてますとでも言いたげだったから。


「そん、なの。感情がないなんて言わない。確かに誡さんは表情も声の調子も変わらないけど。……心無い人形には見えない。心がなければ罪の意識なんて芽生えないだろ。罪悪感を抱え続けているのに、どうして感情が薄いなんて言えるんだ」


 有ると、言ってあげればいいじゃないか。最初はそれが嘘のようなことでも、いつか本当になるのなら。一番付き合いの長い依琥乃が、どうしていままで、誡さんの問題に触れなかったんだ。自分(ぼく)には変わるきっかけをくれたのに。


「それは、貴方が自分から「変わりたい」と願ったからよ。誡はそんなことすら考えはしないのだから」


「そんなの──……」


「そもそも感情ってなにかしらね」


「えっ?」


 突然の言葉に自分(ぼく)は反応できなかった。依琥乃がどういう意図でその言葉を言ったのか、わからなかったから。


 呆気に取られて勢いを失った自分(ぼく)を尻目に、依琥乃が続ける。


「だって、不快は鳥肌を立たせ、怒りは神経のささくれを伴い、せつなさは胸部の痛みか、胸やけのよう。

 ……感情ってつまるところ、身体のいたるところで感じる感覚の集合体を、脳が処理しているようなものに過ぎないのかもしれないわ」


 最初は何を話しているのか分からなかったけど、聴いていて、なんとなく、依琥乃の言わんとしていることがわかった。


 誡さんが処理している感覚情報は、きっと普通の人の二倍じゃきかない。感覚が感情に繋がるというのなら、どうして誡さんは、罪悪感を抱いてしまうほど、感情の薄さを自覚しているのだろう。


「あの子は別に、空気中に『危険』の文字が見えてるわけじゃないの。

 火事が起こりそうなら焦げた臭いが漂ってくるし、屋根が落ちそうなら全身に上からの圧迫感を感じるだけ。

 例えば私達は薬缶に触れなきゃ温度がわからないけど、誡は違う。誡はヤカンに触れようとしただけで、それが自分を害する程熱い場合だけ、それを指先に少し感じるの。まぁ、安全な温度ならなにも感じないのでしょうけど。

 誡は身体を走る感覚を稀癌のそれと現実のそれとを区別しながら、感覚がどうして生じるのかという可能性を判別して、やっと『危険』の内容を判断している。

 もう無意識にやってることだろうけど、本当はとても思考に負担を強いているはずなのよね。

 なのに押し寄せる感覚情報の中から、さらに感情だけを別に区分けして、処理して、表現するなんて、よほど強烈な感情情報じゃない限り不可能。

 だから、あの子は喜怒哀楽と快、不快ぐらいしかしっかり認識できてないんじゃないかしら。

 ……いいえ。『哀』……悲しいって感情をあの子はまだ強く意識したことが無いでしょうから、それも抜け落ちているかもしれない。体験したことのない事象に人は鈍感で無関心だから。それに誡の感情は、あの子の稀癌が薄く弱く調節してしまっているし。

 感情がないわけじゃないの。自分の中にどんな感情が表出したのか、誡は拾い出すことができていないだけ。

 だからどうか奏繁があの子を見守っていてあげてくれないかしら。誡はいつか、自分で気づくわ。けれど、私がいつまでも誡と一緒にいられるわけではないから」


 彼女が浮かべたのは、とても悲し気な笑顔。桜を愛でながら、その散りゆく最期を想うかのような、そんな寂しさが滲んでいた。


 いつも依琥乃は、結末を見ることができない前提で話をする。だから、どこか冷めたように物事を見ていることがある。誡さんに対してもそうなのだろう。

 依琥乃がどうしてそう考えるのかを自分(ぼく)は、深く追求することができない。手を伸ばせば(かすみ)しか掴めそうになかったから。


 だから自分(ぼく)は、依琥乃の言葉の意味するものを考えないようにしながら、心に広がっていく(せつ)なさを押し殺した。いつか消えてしまうのはすでに知っている。だから、せめて失わずにすむように口を閉ざした。


 その日(・・・)が来るまで、ただ先延ばしにしているに過ぎないとしても。


 後から思えば、きっと自分(ぼく)は後悔するんだろう。それがわかっているのに何もできないのは、自分(じぶん)の心の弱さのせいだった。


「だから、貴方が自分でやるしかないのよ、奏繁」


 悲しさの残滓(ざんし)すらかき消して依琥乃は自分(ぼく)を鼓舞する。だから自分(ぼく)も頭から暗い考えを追いやって返事をした。


「わかってる。自分(ぼく)は誡さんの力になるって約束してるんだから」


 視界の片隅。

 一言も喋らずただ自分(ぼく)らを傍観していた男だけが、目の前の光景に理解を示さぬというように、薄く(あざけ)るような笑みを浮かべていた。


 依琥乃はそんな彼に視線を投げかけることもなく、背を向け、自分(ぼく)にその屈託のない笑顔を見せた。


「ところで、どうかしら? 誡は」

「どうって言われても……」


 相変わらず彼女の質問には重要な情報が抜けている。これで完全に意思疎通できていると思ってる所が彼女らしい。


 まぁ、実際言いたいことはなんとなくわかる。相手が把握しきれていないことを訊いてくるほど依琥乃は愚かな子ではないから。


 けれど自分(ぼく)はなんだか気恥ずかしくて、つい言葉を濁す。

 依琥乃はそんな誤魔化しは通じないとばかりにまた訊いてくる。


「だから、誡のこと。好きになったでしょう?」

「んなっ!?」


 なんてことをストレートに訊いてくるんだこの幼馴染は!


 思わずのけ反った自分(ぼく)に、依琥乃はさらに追い打ちをかける。


「その反応からして間違いないわね。ふふふ。そうだろうと思っていたのよ。引き合わせた甲斐があるわ。だって私と奏繁は、人間の趣味だけはそっくりだものね」


 握った手で口元を隠しながら依琥乃が笑う。確かに依琥乃の言う通りだけど、こうも面白そうにされると、からかわれているような気がしてムッとした。そのせいか、つい恨みがましく口をとがらせてしまう。


 けれど、こうして明るく笑っている方が依琥乃らしいので、自分(ぼく)はため息をついて、諦めを多分に含んだ苦笑を浮かべた。


「まったく。今までは頼んでも無いのに人を紹介することなんか、しようとしなかったのに。何がしたいんだよ依琥乃は」


 冗談めかしてそう言うと、依琥乃は笑うのを止めて、ふと虚空を見つめた。こういう時の彼女の瞳はどこまでも透明で、自分(ぼく)は何も言えなくなる。何を考えているのか、何を想っているのか、自分(ぼく)には見当もつかなかったから。


 やがて、小さく口を開いた依琥乃が微笑と共に発したのは、とても静かな言葉だった。


「私には何も成せないわ。そこに運命があった。……それだけの話よ」




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