二十三話 今後の方針
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更科君が来るまでに何があったのか。私は仕種さんについての詳しい説明も含めて全て話した。
更科君は私の隣に座り最後まで黙って聞いていた。ほんの数センチ隣に座る彼の体温は、私の冷えた身体に温かかった。
普段ならば、こういった話は依琥乃か射牒さんぐらいにしか話さない。私の事情を知り、稀癌を知り、言葉を返してくれる人間は、私にはその二人しかいなかったから。
「……私では、あの彼女を止めることはできません。実力が違いました」
そう正直に告げる。見栄を張り嘘をつくことは容易いが、それはただ空虚を背負うだけのことだ。きっとそれは無駄なことだし、嘘を吐けばつくほど真摯になってくれている相手に失礼だと、私は知っている。
「でも警察に任せたくはないんだよね?」
予想外に更科君はそう言った。
脳内で更科君の言葉が反芻される。言われてみれば確かにそうだ。自分の手に負える問題ではないと痛感してはいたが、それを公の権力……あまつさえ射牒さんに任せようとは欠片も考えてはいなかった。
どうして、普通ならば一番に浮かぶはずの選択肢が抜けていたのだろうか。いや、それよりもどうして更科君には私の思考が読めたのだろうか。
「誡さんは行動力のある人だ。なのに自分が来るまで他の誰かに連絡をしたようには見えなかった。だからてっきり最後まで自分らで事件に関わろうってことだと思ったんだけど。……違った?」
「…………その、とおりです」
私の行動を言い当てられて言葉が淀んだ。更科君は私の様子に気づいていない様子だった。
「誡さんのことを待つって言ったんだから、その女性もきっと、新しく事件を起こすことはしないだろう。ここで解決できるならすぐ警察に打ち明ける必要はないはずだ。だって犠牲者は出ないんだから」
ともすれば無茶苦茶な理論を彼は語る。しかし、その言い分には一理あるような気がしたので私はただ頷いた。私の首肯を受けて更科君が続けて言う。
「湯苅部仕種の抱える問題は、自分ら──いや。誡さんが向き合ってあげなくちゃいけないものだ。他の人間に譲ったらいけない」
「……私が…………」
「うん。だって、君たち友達なんだろ?」
目を細め優し気に彼は言う。その表情はほんの一瞬で、すぐに引き締めてしまったけれど、どうしてか、瞼の裏に焼き付いたかのように消えてくれなかった。
私は人の感情を推し量れるほど器用ではない。けれど、彼が私の事を思い憚ってくれているのは、疑いようもないことのように感じた。
「……そうですね」
だから、だろうか。少しだけ何も考えずに、自分の内にせり上がってくる言葉をそのまま零してしまいたくなった。
「……私は、彼女のためになにができるのでしょうか。仕種さんは『親友』が欲しいから人を殺すと言った。私に『親友』になって欲しいとも。…………どうすれば私は仕種さんの親友になってあげることができるのでしょうか。やはり、彼女に殺されるしかないのでしょうか」
それは、仕種さんが去って、更科君が来るまでずっと私の内側を占領していた考えだった。
私は私に向けられる感情に疎いから、せめて私に良くしてくれた人たちには、行動を返すべきだと決めている。私には心で返すことはできないから。
だから考えていた。私に優しくしてくれた仕種さんに、私は何を返すことができるのだろうかと。どうすれば彼女の助けになるのだろうかと。
けれど私の足りない心と頭では、この程度のことしか浮かばない。
「いいや、殺されたらだめだよ」
いつのまにか、更科君は立ち上がっていた。雲の多い薄明りの夜空に溶けて消えてしまいそうな人影の、瞳だけが黒水晶のように月明りを照り返す。
「その女性はもう四人殺してる。それでも親友はできていないような口ぶりだったんだろ? やっぱり、殺しはただの結果に過ぎなかったんだ。殺すまでの部分に、彼女の目的はあるんだ。
…………隠すのが虚しい、悲しい。人を傷つけてでもその特別な誰かを見つけたい。その感情に、自分らは覚えがあるはずなんだ。湯苅部仕種は自分らと同じだ」
「……それは、どういう」
感情、と言われて覚えず首を傾げる。私の内に、そのようなものが宿った記憶はなかったから。けれど更科君が言いたいことの本質はそこにはないようだった。
「受け入れて欲しいんだよ。彼女が求めている親友とは、つまり理解者だ。稀癌という特殊を抱える人間が必要とするものと同じ。彼女は己の中の凶暴性を隠し続けることに絶望してしまっている」
その言葉を聞いて、私は自分の喉の下あたりに詰まっていた何かが胸に落ちていくのを感じた。
稀癌とは異常だ。この世にあるはずのないものだ。その異常を持たない人間は基本的に、異常を嫌う。疎い、嫌悪し、廃絶しようとする。それは自分たちの常識が破られるのを恐れるからで、また、自分たちの心身を守るためでもあった。
彼らは私達という異常を決して受け入れることはない。個ならば別かもしれないが、群となった彼らは異質を排除し安寧を保つ。それが人間という生き物で、決して変えることのできない真実だった。
そのため稀癌罹患者は己の異常を隠す。稀癌を持つものは稀癌を持って生まれたというただそれだけで、本質はやはり人間だ。全てに拒絶されて生きていけるはずがない。
だから、稀癌罹患者は普通の人間に紛れて暮らす。けれどいつまでも隠し続けることはできない。稀癌は、身の内に抱えた異常は、その人間そのものでもある。いつか表に露見してしまう日が必ず来る。
「稀癌罹患者は常にその恐怖を抱えながら生きてる。彼女は恐らく稀癌罹患者じゃない。危険がその人の内側じゃなくて、外側である刀から溢れてたのがその根拠だ。でも、今はそれは関係ない。同じ特殊なものを抱えているという点で、同じ存在だ。
だから、彼女も求めるんだ。己を、己の異常も含めて受け入れてくれる他者を。自分と誡さんには依琥乃がいた。けれど、湯苅部仕種には誰もいない」
ゆえに欲した。隠すことに疲れた彼女は、本当の自分を見せても変わらないでいてくれるような誰かを探すことにした。
しかし、彼女は四度失敗した。自分にできるだけ近い、精神の狂いを経験したことのある人間に近づき、結果──。
「湯苅部仕種は、きっと幼い頃から今まで、ずっと己の中の凶暴性を隠して生きてきたんだ。精神科の先生は彼女のことを『社会性の強い』人だと言ったんだろ? たぶんその通りだ。
彼女は、周囲の変化に気づき、周囲に自分を合わせて、不都合な自分は隅に追いやることのできる人なんだろう。そうやって反社会的な面を覆い隠してきたんだ。
けれどその寂しさに耐えきれなくなった。己の一面を隠していないと他人に受け入れてもらえないってことは、まるで自分の全部を否定されているような気分だと思う。いつか限界がきても、おかしくない」
更科君はそう自分の考えを語る。けれど、私にはどうしても理解ができなかった。
「…………だからと言って、他人を殺してまで、警察に追われていままでの全てを台無しにしてまで、どうして特別など求めるのでしょうか。……私には、わからない。更科君にはわかりますか」
確かに、もしも私があの頃依琥乃と出会うことがなかったらと考えると、途端に脳の末端が痺れ、思考に空白ができてしまう。
だが理解者とはそれほどに必要なものだろうか。居ないのならば居ないなりに、なんとなく生きていくのが人間というものではないのか。
「特別を求める気持ちは、わかるよ。共感はできる」
「…………共、感」
心もつ人間は、感情豊かな人間は、仕種さんの思想すら理解できるというのか。ここまで説明されても、私にはできそうもないというのに。
「誡さんには共感できなくてもしかたないよ。というか、共感できる自分がおかしいんだ」
見上げると、更科君は眉尻を下げ、薄く笑っていた。
「自分の稀癌は己を二重人格にするものだ。そしてこの身体の二人の自分は、互いに互いの言動を他者と比較して、突出した異常を排して平均的な人間へと変わっていった。
だからかな。自分は鏡のようなものなんだ。誰にでも似ているっていうのは、正しかったんだよ。自分は他人の言動、思想を己に少しずつ反映させてできた存在だ。『平均』っていうのは、それ以外を切り捨てたものじゃない。平常も異常も全てを内包して、『平均』はできあがる。
そのせいか、自分は他者の考えに共感しやすいんだ。それがどれほど狂った思想でも、すでに自分の中にあるもののどれかには近しいはずだから。だから自分は湯苅部仕種の『特別』への執着にも共感できる。その手段にまでは、理解を示すことはしないけど。
……誡さんがおかしいんじゃない。今回は、自分のほうが異常なんだ」
更科君は運動場の向こう側を見ながらそう言う。あそこに広がっているのは田んぼだけだけれど、別段田んぼを見ているわけではないのだろう。何も植わっていない田畑は、人の目を引き付けるようなものではないから。
更科君が他者の思想を映す鏡だというのならば、その鏡台に映すものに例外は無いのだろう。あらゆる思考が内包された人間。普通の良心ならば拒絶されるべきであろう考えにも、彼は共感を抱けてしまう。
けれどどれほど心通わせようと、更科君はそれらの悪逆を受け入れはしなかったはずだ。もし受け入れていたのなら、今目の前にいるこの純朴そうな少年は出来上がらなかっただろうから。
それでも彼は、特別を求める気持ちをわかると言った。それは少し共感とは違うニュアンスにも聞こえた。なら、更科君は。
「……更科君も、特別を欲しいと感じているのですか」
そう訊くと、更科君はすこし躊躇してから、やはり困ったよう笑顔で答えた。
「うん。そうだよ」
そうして、彼は私の前にかがみ、私の顔を見据えたまま話し出す。彼の瞳に私の姿が映り込んでいる気がして、少し、私は少年の目を覗き込んだ。
「全てが平均な自分は、全て平等に普通にしか思えない。綺麗な景色が感動的なのは当たり前だし、人間が他者を蹴落として生きる世界の醜さも、自分には当然すぎる当たり前なんだ。
この世のどんな奇跡も特異な思想も、自分にはあってしかるべきものにしか見えない。
だから、特別を欲してる。皆が瞳を輝かせる《《何か》》を、どうして自分は見つけることができないんだ、って。自分は欲しい。
何にも負けない特別を。誰にも譲れない特別を。
自分を他の誰でもない、ただ一人の更科奏繁にしてくれる何かを。
自分は己の歪みに気づいてから、ずっとそんなことを願ってる。自分はまだ誇れるほど自分を特別視できないから。
そんな考えだから、他人よりは湯苅部仕種に共感できやすい、ってだけかもしれないけどね」
俯く更科君の瞳には光が届かず、陰ってしまっている。この少年は、もしかすると落ち込んでいるのだろうか。自分の言葉にか。それとも、犯罪者である仕種さんの思考に共感できてしまう己の体質ゆえにか。
「…………」
こういう時、気休めの言葉が考え浮かばない自分に、少し苛立ちを覚える。
なにも言えない代わりに、私は目の前にある更科君の額に手を伸ばした。私に気づかず俯いたままのおでこに、私は中指を軽く弾く。
「っふぁ!?」
身体のバランスが崩れたらしい更科君はそのまま後ろに倒れ尻餅をついた。
「えっ? なにが起きたの!?」
ここまで綺麗に倒れるとは思わなかった。私は弁解を試みる。
「…………ちょうどいい位置に額があったので。……ごめんなさい」
瞬間パニックに陥っていた更科君だったが、弾いた体勢のままだった私を見て事の次第を覚ったらしく、尻を叩きながら立ち上がった。
「いや……、まあいいんだけどね、うん。びっくりしたけど。誡さん意外にお茶目だね」
「…………人並みのユーモアは解しますよ、これでも」
「そっかぁ」
あははと更科君は笑った。怒ってはいないようだ。彼の顔に浮かんでいるのが先ほどとは趣の違う笑顔だったので、私は用意していた二発目を引っ込めて代わりに質問をした。
「……更科君、私はなにをすればいいですか」
質問の意図に、更科君は数秒経って気づいたようで、笑みを引っ込めて口元を結び正した。
「そうだな。これはとても言いにくいんだけど……。湯苅部仕種の求めているものに応えたいと思うなら、誡さんは湯苅部さんと戦わなくちゃならない。しかも、できれば勝つべきだ」
「……仕種さんに、勝つ」
「彼女の求める親友ってのは、自分を受け入れてくれる存在のはずだ。最低条件として、彼女に殺されるわけにはいかない。そして恐らく。彼女は、己を打ち負かすほどの人間を求めていると考えていいと思う」
「……どうして」
「自分が彼女ならそう思うからだ」
断言して少年は目を細める。真っすぐ見つめる先はどこなのだろう。
「湯苅部仕種の衝動を受け入れ味方でいるためには、彼女の衝動を止められる人間である必要がある。
といっても、湯苅部さんはいままでその凶暴性を隠して生きてきた。理解者ができれば、今後も凶暴性はあまり表に出てこなくなるだろう。人間は、わかってくれる人がいるというそれだけで安心できるものだから。
それに、湯苅部さんは『疲れた』って言ったんだろ? きっと彼女は、大切な人を自ら殺して快感を得るような人間じゃない。
そうじゃないと疲れるわけがないんだ。本当は殺したくなんかないし、死んでほしくない。それでも後戻りできないから、心が擦り切れて疲弊する。
──肝心なのは最初の一度だ。一度、彼女に自分が対抗できるんだと示す必要がある」
「……それができれば、仕種さんは安心することができるのですか」
私は汗の滲んだ手で服の裾を握りしめた。どうしてか力の加減ができず、皮膚から血の気が引いている。そんな私の様子を見ていたのだろう。更科君は私に近寄り、握られた私の手に自分の手を添えて静かにほどいた。
「正直、湯苅部仕種を止めるだけなら、警察に通報するか、遠くから射撃して動けなくすればいい。でもそんな考え、誡さん浮かびもしなかっただろ? 誡さんはもう湯苅部さんの求める精神的なつながりは果たしてる。あとは行動で示すだけだ。
大丈夫だよ。君は彼女を救うことができる。人一倍他人の感情運動に敏感な自分が、断言するよ」
「…………それは、頼もしいですね」
添えられた手を握り返す。するとなぜか更科君は顔を赤くして、すごい勢いでそっぽを向いてしまった。けど、握った手はそのままだった。
行動の指針が決まり気が抜けかけたが、重大なことが頭から抜けていることに気が付いた。そもそも、私は最初に彼に断言したではないか。
「……ですが更科君。私ではあの仕種さんには勝てません」
そう。先ほどの邂逅で私はその事実を叩きつけられた。稀癌は明確に、私と彼女との実力差を示していた。
私の言葉で更科君も問題に思い至ったらしい。一瞬眉を寄せ、表情を曇らせる。だが、彼はすぐに顔を上げた。
「誡さんが感じた危険の大半って、湯苅部仕種が持ってた刀から出てたんだよね」
「……そうです」
「じゃあ、刀がなければ勝てる?」
「…………それは、……どうでしょう。彼女が他の得物に持ち替えた姿は見たことがありませんから。……ですが、仕種さんがあの刀を持ってこない可能性に賭けるのは、建設的ではないのではないですか」
考えた結果、更科君の意見を破棄する。私が感じた危険が全て刀が原因だとしても、ならば刀を持たない時に勝負を決しようというのは現実的ではない。
私は仕種さんの自宅も、行動範囲も知らないのだ。奇襲を仕掛けようにもできない。携帯で呼び出す他会う手段が無いのだから、刀を持つか持たないかは彼女次第だ。
「……それに、今までの犯行で犯人は全て同一の得物を使用していました。ならば彼女は、私と対峙する際も必ずあの刀を使うでしょう」
「だろうね」
反論を重ねるが、更科君はその見解をすでに承知していたように肯定する。なにか他に策でもあるのだろうか。
「その刀から脅威を消せればどう?」
「……はぁ」
言われた意味が分からず生返事を返してしまう。意思の疎通のなっていないことは織り込み済みだったらしく、更科君はすぐに説明を始めた。
「おそらく件の刀は妖刀の類だと思う。自分は以前、魔力の宿った壺の処理を依琥乃に押し付け――任せられたことがある。
あれは持ち主の性格を豹変させ人を傷つけるものだった。その日本刀も同じように、昔の怨念や元の持ち主の執念が宿った逸品かもしれない。刀の力のせいで湯苅部仕種が狂ってしまった。もしくは、刀そのものに操られている可能性もある。もしそうなら」
「……刀を破壊すれば収まると」
「だといいんだけど。刀に宿った怨念が呪いの域に達していたら、壊すだけじゃ意味がない。呪いってのは、解呪しないかぎりずっと残るものなんだ。
例えば、呪いを受けた魂は、本人が死んで来世に転生しても残る。どれだけ代を重ねても決して消えない。それほど色濃いんだ、呪いってものは」
身振り手振りで更科君が説明する。その動きに、どうしてか既視感がある。記憶を手繰れば以前依琥乃に同様の講義を受けた覚えがあった。その時の話と今聞いた話とを統合すれば、更科君の伝えたいことがなんとなくわかる。
「…………つまり、仕種さん自身よりも、その刀を無力化する方が先ということですか」
「ああ。彼女の精神がどれほど汚染されているのかわからないけど、妖刀を普通の刀に戻せばそれで一定の解決は見られると思う。うまくいけば戦う必要もないかもしれない。
そもそも親友が欲しいという願いも彼女自身のものなのか、刀から押し付けられたものを自身の願いと勘違いしているのか、それも判別できないし。刀を抜いた途端に口調が変わったなら、やっぱりなにかに憑りつかれているのかもしれない」
私は彼の言葉に頷いた。私がいままで接してきた仕種さんは、なにかに歪められたものではない本当の仕種さんなのだと私は考えている。
あの仕種さんに危険は感じなかった。路地裏で少年に襲われそうになったときもそうだったのだから、恐らくこの考えは正しい。もしも彼女が殺人を行う原因が刀にあるのならば、それを取り除けばいいだろう。仕種さんを傷つけずにすむなら、それに越したことはない。
……けれど。けれどなにかが引っかかる。喉元と後頭部に詰め物でもされたような感覚。この引っかかりはいったいなんだろう。
わからなかったので、とりあえず目先の疑問を先に片付ける。
「……呪いの解呪というのは、簡単にできるものなのですか」
「いいや。基本は専門の呪術師を呼ぶらしい。けど、解呪なら自分にもできるから」
「…………あ、前に言っていた」
「ああ。自分に使える唯一の魔法だ。この世のどんな異常も一つだけ消し去ることができる。呪いや怨念は異常なものだから、この魔法で消せるはずだ。けど、この魔法には致命的な欠点がある……」
「……欠点ですか」
眉を下げ、どこか気まずげに口ごもる更科君に、視線で続きを問う。彼は少し躊躇っていたが、話さなければなにも進まないことを更科君自身わかっていたのだろう。俯きそうになる己を鼓舞するように、彼はおもむろに口を開いた。
「呪文が長い。全て唱え終わるのに、ちょうど一時間かかる。リズムも呪文の要素になるから、これ以上は絶対に縮めれない」
「…………いちじかん……」
あまりの長さに言葉を失いかけた。つまり、その魔法を使うには一時間呪文を唱え続けなくてはならないというのか。
「それに、魔法の効果発動の猶予は、呪文を唱え終わった直後から、およそ三十秒。半径五十メートル圏内の異常を任意で消し去る。
……魔法は魔術よりも効果が強い分、融通が利かない所があるんだ。修行を積めば猶予は伸びる。けど、今の自分じゃ三十秒が限界だ。
ごめん。自分の魔法の師匠に代わりを頼むっていう手もあるけど、彼は十中八九了承してくれない。あいつは自分の苦しむ姿を見るのが好きみたいだから」
座っている私の顔よりも、さらに深く更科君が頭を下げる。それは清廉な謝罪の形だった。
確かに厳しい条件だけれど、彼が謝る必要などどこにもない。
私は更科君の肩を叩き、窺うように上げられた視線に応える。
「……言ったではないですか。私に足りないものを貸してくださいと。……私には呪いの相手などできない。貴方のその力を貸してください」
「誡さん………………ありがとう」
お礼を言うのは本来私の方なのに、そんな笑顔で言われたらなにも言い返すことができない。少し早くなったように感じる心拍を無視し、私は話を進める。
「……そうなると、呪文を唱え終わる前に仕種さんを呼び出し、魔法を行使できるようになるまで私が彼女を足止めする、ということになるのでしょうか」
「ああ、それしかないかな。湯苅部仕種が遅れて来る可能性も考慮しなくちゃならない。自分は呪文を途切れさせるわけにはいかないから、物陰とかに隠れているほうがいいかな。その間、彼女の相手は頼める?」
「……戦闘になれば十分も持たずに私は彼女に敗北するでしょう。できるだけ会話を長引かせることができればいいのですが」
「できそう?」
「…………努力はしてみます」
正直私は自分からなにか話を持ち掛けるタイプではない。意図的に会話を続けるなど不可能に近い。しかし、やるしかないだろう。できなければ作戦は失敗。命の保証はない。
「……しかし、いいのですか」
「え?」
更科君が気づいているのか分からず、そう訊く。すると間の抜けた返事が返って来た。大丈夫だろうか。
「……この作戦だと、更科君が呪文を唱え終わる前に私が失敗して倒れれば、貴方にも危害が加わる可能性があるのですよ」
まさか考慮していなかったのか。私が彼女に殺され更科君が発見されれば、仕種さんは目撃者である彼を消しにかかるだろう。その程度は考えておかねばならないだろうに。
けれど、更科君の返事は予期せぬものだった。
「それは考えてなかった……けど、そもそもこの事件は二人で調査を始めたことだ。つまり一蓮托生でしょ? だから、成功させるしかない」
「……依琥乃にも想定できないことは、起こりますよ」
「うっ、そうだけど。まあ……………」
依琥乃の指示なのだから命までは失うことはないだろう、と考えていたのか。この更科君は臆病ではないほうの更科君のようだけど、考えが甘いのは彼自身の問題のようだ。
仕方がないので、私は先ほどよりもさらに気まずげに視線を逸らしている彼に言った。
「…………認識自体は間違っていませんよ。私が必ず守りますから。大人しく隠れていてください」
「あ、ありがとう。なんだか情けないけど、よろしく。誡さんってやっぱり強いの?」
「……試合の類ならばそれほどは。しかし、戦闘なら話は別です。とりわけ命の取りあいならば普通の人間相手に死ぬことはありません。……私の稀癌は、死地にあってこそ有用なものですから」
と、以前言われた射牒さんからの評価を返す。私の稀癌は危険に反応する。スポーツの試合のようなものなら危険はあまり生じないから、対応が難しい。
しかし相手が私を害しようとして行動するならば、私はその動きを自らの五感全てで感じ取り、対応することができる。先刻のように脅威が大きすぎても対応できないこともあるけれど。
更科君は「そっか」とだけ言って、それ以上なにも言わない。気づいているのだろう。今回の相手がおそらく『普通の人間』ではなく、妖刀の力であることと、私がそれにどれだけ持ち堪えることができるかわからないということに。躊躇うように、更科君が私の瞳を覗き込む。
「それでも勝てないくらい、刀を持った湯苅部仕種は強いの?」
「……強いです。それに、私はあの脅威の前で十全に身体を動かすことができない。……稀癌が危険情報を拾いすぎるから」
そうは言うが、やはり更科君にはこの感覚は伝わらないだろう。同じ稀癌罹患者でも私と彼の稀癌に類似点はない。けど依琥乃にも、たまには言葉を尽くして相手の理解を得ろ、と以前言われたので、私は続けた。
「……目の前の脅威を、私は稀癌の持つ五感のようなもので感じ取っています。次の瞬間右頬を殴られそうなら右頬に違和感と熱を、そして拳が通る軌跡が光って見えるでしょうし、……自分のいる建物が崩壊するなら、私は体中に痛みと圧迫感と眩暈を感じ、口内に血の味を覚え、埃の臭いがするでしょう。他の人間には感じない。私だけがそう感じてしまう。
……私を襲う危険が大きければ大きい程、私の身体は実際の感覚と切り離された異常な感覚を感知します。仕種さんと対峙する時、私は体調不良を抱えて戦っているのと同じ状態になっているのです」
「稀癌の感覚から意識を逸らすことはできないの? 本当の五感とは別にあるんだよね?」
出会ったときに雑談と共に話した内容を覚えていたらしく、更科君はそう訊いてくる。その口調はあくまで確認をとるもので、期待ははらんでいないようだ。なら私も答えやすい。
「……視覚優位という言葉を知っていますか。視覚情報と聴覚情報に差異や矛盾が生じた場合に、視覚情報の方が優先されることです。……私の場合は同様に、自らに危険が迫った時に限り、本来の五感よりも、稀癌の収集した情報の方が優先されます。
意識を逸らすことは不可能ではありませんが、そうすると迫る脅威に対応できなくなってしまうからでしょう。…………私自身どうしようもないことなのです」
拙いながらもどうにか説明する。自分の感覚を正しく他人に伝えられるとは、私も考えてはいない。けれど、互いの認識に齟齬がある状態はなるべく避けたい。今回私たちは互いに命を預け合っているようなものなのだから。
へたに隠すよりも正確な情報を共有するほうが互いの信頼に繋がるうえに、無駄な過信をせず冷静に行動することができる。
更科君も同じ考えで魔法の欠点を教えてくれたのだろうから、私は自分にできるだけ言葉を尽くした。…………疲れる。
私の考えが伝わったのかは判別つかないが、更科君は一つ頷き、頭を軽く掻いた。
「ますます失敗できないね。誡さんにあまり負担をかけないよう、作戦の開始時間はできるだけ調整しないとかな」
そう笑う更科君の髪が揺れる。周囲から葉が擦れあう音が聞こえ、風が吹き始めたことを知る。四月の夜はまだ肌寒い。身震いすると、更科君は校舎の時計をあおり、私に微笑みかけた。
「寒くなって来たね。時間も時間だし、今日はもう帰った方がいいかな。湯苅部仕種の持つ日本刀が正しく妖刀なのかどうかは、今日中に魔法の師匠に確認しておくよ。詳しい話はまた、明日にしよう」
「………………ありがとう、ございます」
「? どうかした?」
「いえ…………少し、だけ。……なにか引っかかるものが消えなくて」
妖刀。その単語を聴くとどうしても、解決されていない違和感がせりあがってくる。それは更科君がこの場に現れる前、仕種さんと会話しているときから感じていたものだ。
理由はわからない。ただ、彼女との会話の中のどこかでそれを感じたのは確かだ。これは稀癌とは違う。なら危険でない以上、無視してもいい些細な食い違いのはずなのだが。
「そういえば、どうして湯苅部仕種はいままで捕まらなかったのかな。確か、刃物の所持は許可がいるでしょ? 持ち主は警察に把握されてるんじゃないの? もしかして盗品だったり」
「……それこそすぐに足が付いて捕まりますよ。──そう、仕種さんはあの刀をいつどこで手に入れたのか……。彼女が家族を殺したというのが本当なら、その頃から持っていなくてはいけないはずでしょう」
更科君の言う通りあの日本刀が、仕種さんが事件を起こす原因なのだとすれば、そうでなくてはおかしいのではないか。けれど更科君は首を振る。
「いやいや、それはおかしいよ。湯苅部仕種は何年もの間、彼女の強力な自制心や社会性によって衝動を圧し殺してきたんだ。その間は刀の影響を受けてないはずだよ。じゃないと、彼女が今になって急に我慢できなくなった理由にならない。妖刀はつい最近彼女の手に渡ったと考えるのが妥当だ。
そういうよほどの外的要因も無しに人を殺し始めるなんて、誡さんから聞いた湯苅部さんの印象と合わない──あっ」
自分で言っていて矛盾に気が付いたらしい。そう、おかしいのだ。彼の推測通り日本刀の影響でタガが外れてしまったというなら、仕種さんが刀を手に入れたのは事件が起こる直前、去年の暮頃でなくてはならない。
しかし、そうなると幼い頃に家族を殺した時には刀など持っていなかったことになる。刀の影響なしに人を殺すような人間が、どうして今まで自分の衝動を隠してくることができたというのか。
だからと言って、昔から刀を持っていたとしても筋が通らない。刀を持っているならば家族を殺す時にも用いるだろう。
警察の捜査が入り精神科に預けられるほどの介入があっているならば、得物となった日本刀は没収されるはずだ。没収されなくても、今度は刀の影響を受ける。やはり人を殺しているはずだ。だがここ数年、日本刀による殺傷事件の話は聞かない。
「……一度手放して再び手にした、もしくは似たようないわくつきの品があったというのはどうでしょうか」
ふと考え付いたことを聞いてみるが、更科君の反応は芳しくない。
「ああいう物は、そもそも手放せなくなるんだ。そういうものなんだよ。それに呪われた品なんて滅多にない。同じ人間が人生で偶然二度も出会うようなことはありえないよ」
「…………」
いよいよ複雑になってきた。片方が立てばもう片方が立たなくなる。両方を成立させることができない。……そうなると。
「……仕種さんが嘘をついている」
「もしくは自分の立てた前提が間違っているか、だね」
すかさず更科君がそう付け加える。自分の考えが間違いである可能性を考えることができる人間は、それだけで価値があるものだ。
風がまた吹く。いつの間にか運ばれてきた薄い雲が、月を覆う。頼りなかった明かりがさらに弱まり、自分の足元の段差も目に映らなくなった。
日本刀を入手したのがいつなのか、それが見当違いだったならば、作戦に影響が出かねない。もし更科君の魔法で刀を無力化してもなお、仕種さんが変わらず戦えるというのならば私に勝ち目はない。それは恐らく私と彼の死に直結する。
仕種さんが嘘をついているにせよ、私達の考えに見落としがあるにせよ、裏付けは取る必要がある。
「湯苅部仕種が日本刀を手に入れたのがこの街の中なら、アイツに聞けばある程度の時期はわかる。どうせこの後向かうつもりだったから、ついでに確かめておくよ」
「……ありがとうございます。では私は、仕種さんのご家族の件を確かめておきます」
アイツというのが、彼の魔法の師匠と同じなのか別なのか、そんな疑問が浮かんだけれど、私はただお礼を言うに留めた。
踏み入ってはいけないような気がしたのだ。これは稀癌を経由しない、私自身の頼りない感覚だけれど。
いつか。
いつか彼にもっと話を聞けるような関係になるのだろうか。
今ならわかる。依琥乃が彼と私を引き合わせたのはこの事件を解決させるためだ。彼の使う魔法がなければ、私は仕種さんにあっさりと殺されてしまうだろうから。
彼は私の事情に巻き込まれたようなものなのだ。ならば、この事件が終わった後、私と更科君の関係もまた終わるのだろうか。
それがどのような結末になるにせよ、私はそこまで辿り付かなくてはならない。死んでいる余裕などない。もちろん、更科君を死なせる未来もあり得ない。
無意識に見上げていたからだろう。更科君が小首を傾げ、ん? と私に視線を送る。私には彼の今の心情をくみ取ることはできない。しかし少なからず恐怖や不安はあるはずで、けれど少年の顔はどこまでも穏やかだった。
「…………なんでもありません。帰りましょう」
「ああ、そうだね。……最後に一つ、聞いていいかな?」
「……なんですか」
「話を聞いていると、誡さんが湯苅部仕種と出会ったのはついこの間のことだよね。どうしてそこまで、彼女のために動けるの?」
それはたぶん、真摯な問いかけだった。
そこには一切の邪気はない。透明で、ありふれた、人の中に当たり前に浮かぶ疑問だ。
人間関係を築くうえで避けて通ることのできない問いかけ。それは本当はきっと、自分が自分自身にしなくてはならないものなのだろう。振り返れば、私はその問いをいつも置き去りにしてきた。今もそうだ。何も考えていなかった。
行動の理由は言語化できなくては人に伝わらない。今まではそれでよかったけれど、今回は、命を預け合う相方がいるのだ。
意義なき信念はとても脆い。意義とは思いの強さだろう。信念とはそれを貫く覚悟だろう。感情を形作るのは、結局は言葉なのだと。何度も依琥乃に言われてきて知っていたはずなのに…………。これではとても信頼に値しない。
私の代わりに私へ問をくれた彼に向き合った。自分から語るべきことを、話すきっかけをせっかくくれたのだから。
「……私は、自分の感じたものを他人に伝えることが苦手です。あやふやなものを言葉に落とし込む作業が致命的に下手くそなのだと思います。いつ、どのようなことを話して、どんな表情をすればいいのか、私にはわからないから。
……だから私は、私に優しくしてくれた人たちに、行動で返すしかない。……言葉を紡ぐ努力を怠っていたことは認めます。……けど貰ったものはどうにか、お返ししたい。だから私は、私に向き合ってくれた人の好意を信じる。
その程度しかできない、粗末な発想力しかなくても。…………感謝を愛嬌で示すことができないから、機を織るしかないのです」
行動で示す。実益で返す。「気持ち」というあやふやな物を返すことができない分、私はそうやって他人と繋がって来た。たとえ相手に伝わっていなくても、今の私にはそれが精一杯だった。
「……仕種さんは、私に優しくしてくれました。そこにどんな思惑があったにしろ、私が貰ったものは消えません。
……それで十分なのです。……人付き合いには恵まれていますが、それでも、感情の薄い私を疎む人は多い。私は守られてばかりです。……無様であっても、私は彼女たちに、返さなくてはならない」
相手が受け取ってくれるかは話が別だが。
意識したのは初めてだったが、……ときどきこの考えは夢に浮かぶからか、言葉は構えていたよりもすんなりと出た。ぷつりぷつりと切れ切れの主張。けれど、今私が言えるのはこのくらいだ。
聞いていた更科君はなにを考えているのか、やはり口元は微笑んだままだ。
「それ、湯苅部さんにも伝わるといいね」
つまり更科君には、私の考えが届いたということだろうか。もしそうなのなら、それはきっと喜ばしいことだ。
「そう……ですね。…………どうして、こんなことを訊いたのですか」
確かに主義の見えない行動ほど信用できないものはない。けれど、今件には依琥乃の指令という、代議名分がすでにある。改めて考えると、彼が気にするほどのことだったのだろうか。
小さな疑問が湧きおこり、私はそう訊いた。それに対する更科君の答えは、至極あっさりとしたものだった。
「いや、確認したかっただけだから。ありがとう。踏ん切りついたよ」
そう言って、更科君はまた笑った。いったい何が楽しいのか、うれしいのか、私にはわからなかったけれど、見ていて胸のすく、心地よい笑顔だった。




