三十日目
昨夜の空が突然心変わりしたように、しとしとと静かに雨が降っていた。彰浩が目覚めた頃には既に雨水を集める準備は完了していて、屋根替わりのパラシュート生地が水の重さで丸くたわんでいる。
うっかり誰かがスライム入りのスーツケースを開いたままにしており、水分さえあれば際限なく増殖するそれは砂の上に零れ落ちるほどに膨張し、見咎めたサルによって海に向かって遠投されていた。
「……あれ、何をしているんですか?」
洗濯物を水の張ったスーツケースに投げ込む隼人と視線が絡み、思わず挨拶よりも先に彼の口から疑問が飛び出た。
「ああ。なんかアレ、本能みたいなものらしいっすよ」
「……本能」
隼人曰く、この島の生き物はスライムを襲う習性にあるらしい。
例えば、砂浜の上にスライムが転がっていると、空から飛んできた鳥がそれを跡形もなく啄んでしまう。それはスーツケースの蓋が開いていても同じで、以前は何羽もの鳥が集まってせっかくのスライムが絶滅寸前だったらしい。とはいっても、過剰すぎる繁殖力を持つスライムの僅かに残された欠片からでも原状復帰可能な容易であったが。
また、海に投げ込んでもスライムがこの島を覆うほど増えてしまう――ということはなく、すぐに魚たちの腹の中に納まるようだ。サルもそのことを知ってか知らずか、スーツケースの中のスライムが増えすぎると自分で食べたり海へ投げ込むんでいる。
驚異の増殖力を持つスライムは、こうして増えすぎず減りすぎるの均衡を保っているそうだ。
道理で、トイレの消臭代わりに投げ込んだスライムも毎日水分を得ているはずなのに、あの決して大きくはない穴からあふれ出すことはない。きっと土の中でもスライムを間引く本能とやらに従っているものがいるのだろう。
「つまり、生かさず殺さず、ということですか」
「ちょっと違うと思うっす」
□
薄くて黄色くて少しだけぬるっとするような、そんな水の中に手を突っ込みながら真凛は小さくため息を吐く。
灰を直接溶かしていた洗濯は煤がつくという欠点があったが、今では灰はTシャツの中に詰められ、水の色をわずかに変えながらその成分を発揮していた。もうすでに大半の衣服に何度洗っても落ちない黒いしみがついていて今更だが、すすぎがずいぶんと楽になった。
誰が気づいたのだろう、とぼんやりと考えながら真凛は無言でくたくたでごわごわになってしまったタオルを揉み洗う。
雨音に目を覚ました真凛が眠る友里亜の隣をそっと抜け出して雨水の処理を始めても、誰からも彼女を責める言葉を言わなかった。恐ろしい位にいつも通りの朝だ。
いつも通り、そう、いつも通りなのだ。
鈴子が別れを告げた朝よりも、麟太郎が病に体を食い荒らされるよりもずっと前。皆わずかに顔に疲れを滲ませながらも、笑顔で彼女に言うのだ。おはよう、と。
詰ってくれれば良かった。なんて愚かな女だ、お前のせいで皆が迷惑したと。だけどそう思うのは自分の自己満足であると真凛は理解していたし、過剰に心配もせずにいつも通りの朝を演出したのは彼らの優しさだとわかっていた。
だからその優しさに甘えて、真凛は何事もなかったかのような顔で同じ言葉を返した。
「おはよう」
どこかびくつくような、たどたどしい調子で彰浩が小さく頭を下げる。
――おそらく隼人辺りが自分に気を使い過ぎないようにと言い含めているのだろう。
しかし彼には態度を取り繕うような器用さはなく、不安だったり心配だったりがありありと刻まれている顔に真凛はふふと笑いを漏らした。
「洗濯、代わります」
「や、別にいい。そんなに疲れてないし」
日本にいた頃にはスイッチ一つでできていた洗濯も、今となっては重労働だ。それに灰から溶けだしたアルカリ性の水に長時間手を浸すため、手荒れも進む。
「いえ、自分が干すとしわになると怒られてしまいまして……」
「そっか、わかった」
彰浩に場所を譲ると、真凛は省吾たちが堅く絞った衣服の山へと手を伸ばした。パン、と両手で大きくしわを伸ばしながらタープの中に張り巡らされたロープへとひとつひとつ並べていく。
色あせてしまった赤いシャツも、迷彩柄の長ズボンも、縮んでしまった靴下も。潤沢にある訳ではないためどの衣服が誰のものであるかは決められていないが、各々の好みやサイズ、活動する場所だったりで気がつけば「このシャツは誰の」という意識があった。
今真凛が持っているものは、鈴子が好んで来ていた大き目の長袖のパーカーだ。採集班になることが多かった鈴子の服は、高い位置にある紅山芋を取るために岩場にしがみつくようにして手を伸ばしたりと、腹部や袖がすり減っている。
「…………」
手を止めてむっつりと黙り込んでいた自分に気付いた真凛は、大きく首を振り作業を再開する。
彼女が鈴子を思い出さなくなるには、まだずっと多くの時間が必要だ。それは真凛本人どころか、砂浜でめいめいの仕事をこなす誰もがわかっていた。
雨がやまないうちに洗濯を終えて、手の空いた者から冷たい雨水のシャワーで体を洗う。徐々に高くなる気温に、最初は寒さすら感じていた雨すら心地の良い温度に思えた。
残り僅かになった石鹸で、辛抱しながら頭や体にたまった垢を洗い流す。体を拭くタオルがごわごわして更にお日様の匂いがしないことに不満を感じながらも、真凛はいつも鈴子が着ていた紺色と赤チェックのネルシャツに袖を通した。




