二十八日目、二十九日目
朝日のまぶしさに目を細め、依里奈は潮風を大きく吸い込みながらこわばった体をぐっと伸ばした。泳ぎが得意な彼女は海での漁を中心的に受け持っているため、疲れ果ててしまいいつもならば寝ている時間だ。しかし今日ばかりは寝床の位置が悪かったのか、顔を日に焼かれて随分と早く目が覚めてしまった。
――この島に流れ着いた頃よりも、気温が上がった気がする。
依里奈は薄汚れたスニーカーを脱ぎ、満ちては引く波に素足を晒した。水温は気温よりもわずかに低い程度だろうか。日が登り切れば光りを反射する白い砂浜の上よりも、海中の方が過ごしやすくなるだろう。
「依里奈」
「隼人か、マリならまだ寝ている。昨日は遅くまで泣いていたからな」
波の押し寄せない位置に立っていた隼人は、依里奈の鋭い視線を受け誤魔化すように苦笑いを返した。とはいっても、依里奈の睨みつけるような顔もぶっきらぼうな物言いも彼を責めようとしているものではない。
愛想笑いひとつできない依里奈のことは隼人も重々承知していたが、先日派手に真凛とやり合ってしまった彼にはその遠慮のない彼女の態度が、どこか他罰的に感じてしまっているだけだ。
「マリはまだそっとしておくしかないだろうな。立ち直ったら、色々と考えなきゃなんねぇことが山積みだけど」
「隼人、お前はアレが立ち直れると思っているのか? 図太い面もあるだろうが、本質的にはか弱い女だぞ」
「誰だって、強くはねぇさ。依里奈はわっかんねぇけど」
揶揄するような隼人の言葉に、依里奈の眉間の皺が深まる。
「無礼だぞ」
「いや、だって依里奈って武士みたいだろ?」
口調のことか、と依里奈は吐き捨てた。
確かに、自分の物言いはあまり女らしくもないことも、更には古めかしいことも自覚していた。それは未開の地と呼んでも良いほど田舎に住む大祖父やその他の親族――や彼らに影響された兄たち――の口調が移ったためである。彼女としては物心つくころには東京で育っていたし、本質的に怠け者のきらいがある依里奈は歳の離れた兄たちのように寝食も忘れて柔道に打ち込んでいる訳でもない。
しかしながら嫁も取らずに実家に入り浸る修行僧のような兄たちの姿を思い出し、自分も傍から見ればあれと同じか、と彼女は大きなため息を吐いた。
「まあ、否定はしない」
――思い返してみれば、祖父の趣味で実家では常に時代劇が流れていた。口調に関してはそれの影響もあったのかもしれない。
実のところ、依里奈とて幼少期は周りに倣い自分の古めかしい口調を馴染ませようとしてみたこともある。しかしながら古風な家族を持ったため現代風の物言いは通じないことが多く、訂正や説明が面倒でやめてしまったという過去があったが彼女はそれをすっかり忘れてしまっている。
「いや、精神面でもだいぶ……」
苦笑いを漏らした隼人を、依里奈は肘で強く小突いた。鍛えもしていない隼人の薄い腹筋はいとも簡単に衝撃を伝え、彼は言葉にならない悲鳴を漏らす。
精神面――感情に左右されず、色々なことをきっぱりと割り切ってしまうのは彼女の悪癖のひとつでもあると彼女は自覚していた。
しかしながら、その割り切りの良さが現状では良い方向に作用している。普通の精神を持っていれば、人知を超える未開の島に流され、親しい友人を失うというまるで趣味の悪い物語のような波乱万丈は人間を冷静ではいさせてくれないだろう。
依里奈とて鈴子や麟太郎を完全な過去にするにはもっと多くの時間が必要だが、自分たちが生き残るには涙にまみれているだけではどうしようもない。水や食料がなければ死ぬだけだ。
成さねば成らない義務というものが、彼女の精神を絶望と言う泥沼から引き上げてくれていた。
それに、その割り切りの良さというものを、自分以外の全員が持っているものではないと彼女は知っている。
「マリはさ」
砂浜にしゃがみこんだ隼人が、小さな貝の欠片を拾いながらタープを見つめる。
「割と脆い。強がってるけど。……だけど、きっと強いから」
「だから大丈夫だとでも?」
「マリの強さは、オレらが一番よく知ってるだろ?」
堅物の冷たい優等生も、不愛想な変わり者も。噂に惑わされずに仲間に引き入れてくれたのは他でもない真凛だ。
隼人は彼女に教えられた楽しい学生生活というものを思い返すように、そっと目を細めた。
□
真凛には手に持った一冊のノートがまるで鉛のように重く感じた。
書かれているのは鈴子の忌憚ない日記だった。隠そうともしない毒が鈴子らしくて笑ってしまいそうになるのに、何故か真凛の瞳からはぽろぽろと枯れ果てたと思っていた涙が零れた。
鈴子が遺してくれたものをこれ以上汚さないように、袖口で必死に雫を抑える。受け取った日から何度も読み返した手記は、今では表紙を閉じていたとしても鈴子の叫びが浮かんでくるようだ。
――鈴子がここにいる。
まるでそう錯覚してしまいそうなほど、真凛は鈴子を希っていた。そしてそれほど彼女の手に収まるノートは、鈴子の面影を強く遺している。
深夜とも早朝とも言えない闇の帳の中、真凛はそっと皆が寝静まるタープを抜け出した。夜に慣れ親しんだ目は、煌めく星明りによって照らされた足下をしっかりと視認できる。
煌々と光る街灯、煌びやかなネオンの眠らない都市で育ったはずなのに、いつの間にかこの原始的な生活に馴染んでしまっていたらしい。暗い夜道を嫌い、自室で眠る直前まで白く光るスマートフォンを眺めていた頃の自分からは考えられないような視野に、真凛は小さく溜息を洩らした。
ふと、穏やかな海を眺めていると小さな影が彼女の元へと近づいてくるのが見えた。影はそのまま浜辺で足を抱える真凛の隣に腰を下ろし、彼女に倣うようにちょこんと細い足を抱える。
「どうしたの?」
誰かを気遣う声を出すのは、真凛には随分と久しぶりなことに感じる。実際、鈴子がいなくなってからの真凛は自己憐憫に浸り、他人を心配するどころか迷惑をかけることしかしてこなかった。
「お姉さん、いなかったから」
小さな影――友里亜が首を傾げながら答える。
「そっか、ごめんね。起こした?」
「へいきよ」
妙に大人びた口調の友里亜は、まるで真凛を安心させるかのようにやわらかくほほ笑んだ。
――どっちが大人だかわかんない。
小学生に気遣われる自分に真凛が自嘲気味に笑いを漏らす。
「お姉さん、かなしいの?」
「……悲しいよ」
「そう、友里亜とおんなじね。わたしもお友だちがいなくなっちゃったの」
そういう友里亜の表情からは友人を失った悲しみというものが読み取ることはできなかった。
死と言う概念を理解していないのだろう。無理もない、友里亜はまだ12歳だ。真凛とて小学生の頃は身近な人の死に触れたことはなく、両親に連れられて行った遠い親類の葬儀でつまらないから早く帰りたいと駄々を捏ねたことだってある。
「だけど、ママが言ってたわ。お別れって一時的なもので、いつかまた会えるって。……いつかがいつなのか、それにどこでなのかママは教えてくれなかったけれど。お姉さんは知っている?」
「…………さぁ、ちょっとわかんない」
「そう、お姉さんがわからないのなら、友里亜がわかるのももっとずっと先なのよね。……でもママは、間違ったことは言わないわ。だからまた、麟太郎にも鈴子お姉さんにも会えるのでしょう?」
「そうだね。だけど多分、会えるのはずっと先になっちゃうかも」
真凛の返事に、友里亜は小さな手で口元を抑えながらくすくすと小さな笑い声を漏らす。
「何がおもしろいの?」
「だって、麟太郎も鈴子お姉さんもいつもお寝坊さんだわ。わたしのママも朝が苦手でパパが朝ごはんを作っていたから、テーブルに一番に座るのは友里亜だったもの」
「友里亜はいつも早起きだしね」
「そうなの。目覚ましをとめて、お顔を洗って、制服に着替えて。わたしがちゃんと学校へ行く準備ができていたらパパもママもとっても褒めてくれたわ。……だからちょっとくらい会えなくても、へいきよ」
海を眺める友里亜の顔は、僅かな星明りの下でもその言葉が嘘であると示していた。彼女の長いまつ毛が日焼けした頬に影を落とす。
真凛が彼女にかける言葉を探す僅かな間に、友里亜は小さく頭を振ってぱっと明るい表情になるように努めて両手を広げた。
「パパが出張から帰ってきた日は、色んなことを話すのよ。学校の授業でスラスラ答えられたこと、一輪車にひとりで乗れたこと、ママのお手伝いを頑張ったこと。…………だから、パパとママに会ったときに『友里亜は偉いね』って褒めてもらえるように頑張るの。ピアノのお稽古をサボったことは言わないけどね……内緒よ?」
日に焼けた腕が、小さな肩を引き寄せる。
「…………内緒にするから、寂しいって言っていいよ?」
「へいきよ」
「嘘。あたしだって、ママに会いたいし」
「………………ママ……パパぁ……っ」
震える友里亜を両手で抱きしめる真凛の瞳にも分厚い膜が張っていた。しかしそれを悟らせぬよう嗚咽を呑み込みながら、真凛は優しく友里亜の背中を撫でる。
「いつになったら、会えるの?」
「……いつだろうね」
「っ褒めてくれなくたって、いい、いいわ。叱られたって構わないの……だって友里亜は悪い子だもの。こういうのって、無断外泊って言うんでしょ?」
「うん、そうだね。あたしも帰ったらこっぴど怒られるよ」
「…………会いたい、会いたいの……っ!」
波音にかき消されてしまうくらいに、小さな泣き声だった。
誰か、この子の寂しさに気付いていただろうか。美香の面倒をよく見て、自分から仕事を探し、わがままひとつ言わない賢い子。あまりにも友里亜がしっかりしているから、真凛は腕の中で静かに涙を流す彼女が小さな女の子であることをすっかり忘れてしまっていた。
徐々に小さくなる嗚咽を聞きながら、真凛はこぼれ落ちていく雫をごしごしと拭う。
「……あたしもね、鈴子や麟太郎にまた会った時に褒めてもらえるように頑張るから。……だから、あたしが会えなくて泣いてたことは、内緒にしてくれる?」
「………………しょうがない、人ね」
うさぎの目をした友里亜は、大きく眉をひそめた歪な顔で笑った。




