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神輿

その封筒を差し出してきたとき、戸田さんの手は、かすかに汗ばんでいた。


戸田さんは、与党の一年生議員だ。私と同じこの春にはじめてバッジをつけた口である。実直だが、気の弱そうな人だった。


「あの、九条先生。……こんなこと、お願いできた義理ではないのですが」

そう言って彼が寄越したのは、パーティー券だった。


政治資金パーティー。

政治家が資金を集めるために開く、会費制の集まりのことだ。二万円三万円という券を大量に売り、その売り上げを政治活動の元手にする。


戸田さんは、派閥の有力者から券を捌く「ノルマ」を課されていた。後援会にも地元の企業にも、頭を下げて回りそれでもまださばけない。

困り果てた末に、同じ一年生というだけの縁で、無所属の私にまで声をかけてきたのだった。


断ってもよい。私は無所属でどの派閥にも属さない。義理もなければ貸しもない。


けれどうなだれる戸田さんの顔を見ていると、どうしても無下にできなかった。この人自身が望んでこの集金の歯車を回しているわけではない。回さなければ、この世界では生きていけない。

ただそれだけのことなのだ。


「……二枚、いただきます」

私がそう言うと、戸田さんは泣きそうな顔で何度も頭を下げた。


****

皮肉なものだ、と私は思う。


ちょうどこの年から、政治資金の新しいルールが動き出したばかりだった。「裏金」問題――派閥のパーティー券収入が、正しく帳簿に載っていなかった一連の事件――を受けての法改正だ。


これまで券を買った人の名が公表されるのは「二十万円を超えたとき」だった。それが、「五万円を超えたとき」に引き下げられた。

支払いも、手渡しの現金ではなく口座への振り込みに限られる。


つまり、私がこの券をまとめて買えばその名は記録に残りいずれ世間の目にも触れることになる。


しがらみを持たない。それだけが取り柄だったはずの私が、はじめてこの国の集金の帳簿に名を連ねる。その紙の薄さのわりに、私の気分は妙に重かった。


その日、会場へは相馬さんが付き添ってくれた。


選挙のあと、相馬さんは、暫定的に私の公設第一秘書――国費で雇える秘書のうち、主に地元や支援者まわりを受け持つ役――の座に、しばらく就いてくれている。本人は「一回だけ」と渋っていたはずが、気づけばまだ私のそばにいる。

ちなみにまだ政策秘書も第二秘書も空席だ。


「パーティーね」相馬さんは車の中で苦笑した。「顔だけ見せて、早々に退散しましょう。ああいう場は長居するところじゃない」

長年の選挙屋がそう言うからにはまあそうなのだろう。付き合わせて申し訳ない気持ちだった。


****

会場は都心の老舗ホテル――ホテルニュー○○の大広間だった。


シャンデリアの下に、黒山の人だかりができている。仕立てのいい背広。名の知れた顔。あちこちで名刺が交わされ、笑い声と抑えた密談とが同じ空気の中に溶けていた。


その中で、私はいつものように目立った。


この容姿だ。淡い金の髪と白い肌。どこにいても、視線は勝手に集まってくる。それにはもう慣れていた。


けれど、その日の視線はいつもと少し違った。


好奇でも、好意でもない。

値踏みするような、どこか刺のある目だ。ちくちくと私の背に刺さってくる。私自身には、それほど誰かに敵視されるような覚えはない。それなのに、確かに、幾人かの目が私を値踏みしていた。


やがて、壇上で主催の議員をたたえる挨拶が始まった。


はじめは私にも分かる顔ぶれだった。

時の首相。何人かの名の通った国会議員。

彼らが、型どおりの祝辞を述べていく。


ところが、その次に壇上へ上がってきた人々は、私の知らない顔ばかりだった。


議員には見えない。官僚とも違う。どういう立場の人間なのかまるで見当がつかない。その人たちが、口々に熱っぽく語り始めた。


「この国に、誇りを取り戻すために彼の力が必要です」と仕立てのよい背広に身を包んだ人が語り、「美しい日本を、次の世代へと渡すために、彼のような志を持った政治家が日本を背負うべきです」と着物姿の老婆が叫ぶように言う。


美しい日本。


そのひとことに会場の一角がひときわ大きく沸いた。


そして私は気づいた。壇上でその言葉に頷いている人々。その中にさっき私をあの刺のある目で値踏みしていた顔がいくつも混じっている。


「相馬さん」私は、そっと囁いた。

「あの人たちは……?」

相馬さんは、会場をさりげなく見渡した。それから、ほんの少しだけ表情を硬くした。

「……ここでは。車でお話しします」


そのとき私の目は、会場の隅の一人の老人を捉えた。


壁際にひとり静かに立っている。


とうに一線を退いたはずなのに、いまも永田町に絶大な影響力を握り続ける、あの重鎮だった。かつて幹事長として、党の金と人事と数を意のままに操ってきた男。あの「切り抜き」の裏で、戯れに歩を一つ動かすようにいた人。


その人が、壇上の「美しい日本」の熱狂をじっと見ていた。


奇妙だった。


湧き上がる会場の熱の中で、その老人の顔だけが、まるで冷たい水のようだった。喜ぶでも、誇るでもない。むしろ――苦々しい。苦虫を噛み潰したようなあの表情。


自分の陣営のはずのその光景を、なぜあの人は、あんな目で見ているのだろう。


その横顔が、なぜか私の胸に小さな棘のように残った。


****

帰りの車の中で、私は我慢できずに切り出した。

「相馬さん。さっきの壇上の人たちは。……いったい何者ですか」


相馬さんは、しばらく窓の外を流れる夜の街を見ていた。それから低い声で言った。


「あれは、皇国会議の人たちです」

「……こうこく、かいぎ?」

聞いたことのある名前だった。けれど、それがどういうものなのか、私はこれまで知らずにいた。


相馬さんは、選挙屋らしい乾いた口ぶりで説明してくれた。


もとは、神道系の団体――神社をまとめる宗教のつながり――を核にした小さな寄り合いだったという。それがやがて、戦没者の遺族の会や、あちこちの保守的な市民団体と横のつながりを広げていった。いまでは、全国津々浦々に支部を持ち、数万の会員を抱える。ひとたび動員をかければ、票がまとまって動く。


「一大票田ですよ」と、相馬さんは言った。「選挙をやる人間からすれば、喉から手が出るほど欲しいありがたい存在です」


そして、声を少し落とした。

「与党の議員の、ざっと半分近くがあそこと何かしらのつながりを持っています。……いまの内閣に至っては、大臣の八割方があの会と関わりの深い議員連盟に名を連ねている」

私は、息を、のんだ。

「八割……」


「もっとも」相馬さんは釘を刺すように付け足した。「名前を連ねているだけの人も大勢います。地元の付き合い、票のための顔つなぎ。本気で信じている人もいればそうでない人もいる。……そこは一括りにしないほうがいい」


それから、彼はバックミラー越しにちらりと私を見た。

「先生が会場で値踏みされていた理由もたぶんそこです」

「私が?」

「あの人たちからすれば、先生は目障りなんでしょうな。若い層の人気を根こそぎさらっていく。……しかもその容姿だ。彼らの思い描く『美しい日本』とはちょうど裏返しの像でしょうから」


****

私は、皇国会議のことを調べてみた。


調べるほどに、あの「美しい日本」という耳ざわりのいい言葉の奥行きが見えてきた。


彼らの言う「美しい国」とは、煎じ詰めれば、戦前の日本を神の国として見る――そういう考え方に行き着くらしかった。


天皇を国のいただきに戴き、その下に国民が一つにまとまる。かつてのあの国のかたち。


ただ、寄り合い所帯だけあって、その「美しい国」の中身は人によってずいぶん違ってとらえられている。ある人は、本気で戦前のように天皇を現人神――神そのものとしての天皇――と仰ぐことを願っている(天皇陛下自身がそう願っているとは私自身にはちょっと思えないのだが・・・)。またある人は、ただ古きよき時代を懐かしんでいるだけだ。中には、家族や地域の結びつきがばらばらに壊れていくいまの世を憂えているだけの穏やかな人もいる。同じ言葉を口にしながら、その胸に描く絵はめいめい違う。


けれどその芯にある、いちばん強い流れは。

私が、あの駅前で、最初に語ったこととは真っ向からぶつかるものだった。


私はこう言った。

「国をつくる細胞は、日々、死んでは生まれ変わる。人が入れ替わり、時代が移っても、日本は、日本であり続ける」と。

私にとって国とは、現実の環境に合わせて絶えず入れ替わりながら、それでも同じであり続ける一つの生きた身体だった。


けれど、彼らの「国」は違う。


それは変わってはならない、神聖なたった一つのかたちだ。過ぎ去ったある一点に正しい日本の姿がありそこへ時計の針を戻さねばならない。


背筋に冷たいものが走った。


そういう人々が、いまこの国の政の中枢にいる。閣僚の八割。それが本物の信仰なのか票のための芝居なのかは分からない。


けれどどちらであっても、私には恐ろしかった。時計の針を、戦前へ戻そうとする力が、政権のいちばん高いところにこれほど深く根を張っている。その事実そのものがショックだった。


その一方で、私はようやく腑に落ちた。


議員になってから、いまの与党にずっと感じていた、あの正体のつかめない違和感。


外国人を締め出すビザの厳格化。憲法を変えようという議論。国民のほとんどが興味がないのに、皇室の跡継ぎのあり方を定めた、皇室典範――※皇位の継承などを決めた法――を改正し、男系の男子だけに絞ろうという議論。


ばらばらに見えていたそれらの点が一本の線でつながった。

すべては、この「美しい国」という一枚の絵の上に描かれていたのだ。


別に私は何もかもに反対するお花畑の理想家ではない。例えば憲法九条の自衛隊のあり方をめぐる議論。

戦力を持たないと定めた条文と、現実の自衛隊とのあいだにあるずれの問題だ。


自衛隊なしで、この国が一度も他国に脅かされずにいられた――そんな、現実離れしたことを言うつもりはない。現実に合わせて変えるべきところは変える。それ自体は私も頷ける。

だが、私がどうしても頷けないのはそこではない。


一人ひとりの人間を「国体」という、大きな一つのかたちのための部品のように扱うこと。その先ではみ出す者が日本人ではないとされていく。

そして、人が国のための道具になる。


私が、いちばん恐れてきた、あの姿が「美しい国」という名の美しい額縁の中に静かに収まっていた。


ただ、それを見つめるあの重鎮議員の目が、分からなかった。


****

その週の終わり、私は義父のもとを訪ねた。


九条匡義。

この国の政治の中枢にいた人だ。いまは高齢で一線を退きいているが、それでもこの国の政の、裏の裏まで知り尽くしたこの人ほどこの話を聞くのにふさわしい相手はいない。


皇国会議のことをひとしきり話したあと、私はずっと胸に残っていたあの光景のことを口にした。


「お義父様。一つ腑に落ちないことがあるんです」

「なんだ」

「あのパーティーで、私、見たんです。あの重鎮の方を」

九条の、落ちくぼんだ目がかすかに動いた。


「あの方は、壇上の『美しい日本』の熱狂を、苦々しそうに見ていたんです。……自分の陣営のはずなのに。まるで、苦虫を噛み潰したような顔で。あれはどういうことなのでしょう」


九条はしばらく、黙っていた。それから、ふ、と笑ったような息を漏らした。


「……お前は、いいところを見るな」


九条は、ゆっくりと語り始めた。


「あの男はな。この世で、いちばん嫌いなものがああいう手合いなのだ」

「嫌い……あの方が、ですか」

意外だった。

てっきり同じ穴の狢だとばかり思っていた。


「あの男の芯にあるのは、ただ一つ『現実』だ」九条は言った。

「数と、力と、面倒見。それだけで、四十年、政治をやってきた男だ。理念だの、理想だの、そんなものは、あの男に言わせれば、飯の種にもならん絵空事に過ぎん」


「……それは、私のことも」

「そうだ」九条は、隠さなかった。「お前の『尊厳』も、あの会の『美しい国』も、あの男の目には、現実離れした理想に映っている。理念で動く人間ほど、あの男にとって始末に負えないものはない。なにしろ数で動かせん。貸し借りが通じん。まとまった話を、たった一つの信条のために平気でひっくり返す」


「ではなぜあの方は、あの人たちと」

「利用してきたからだ」九条の声が、低くなった。


「あの会は票になる。動員がかかる。だから、あの男のような現実の政治家は、腹の底で見下しながら、あの連中を神輿に乗せてきた。気持ちよく担いで、歌わせておけば、票が黙ってついてくる。……長いことそれでうまくいっていた」


「でもいまは」

「神輿の上の者が、担ぎ手の言うことを聞かなくなった」


九条は、天井の一点を見つめた。


「担いでいたはずが、いつのまにか神輿の上の連中が、国のかじを握っておる。閣僚の八割。……道具のつもりが主になった。あの男がただ一つ信じてきた『現実』が、あの男自身が餌をやって育てた『理念』に、内側から食い破られようとしている。あの苦々しい顔はそういう顔だ」


私は、あの冷たい水のような横顔を思い出していた。


「……敵か、味方か」

九条はぽつりと言った。「そんなものは事によって入れ替わる。あの男とお前は、何もかもが正反対だ。分かり合える日は、たぶん来ないだろう。……だがこの一件に限っては、話が別かもしれん」


「この一件とは」

「時計の針を戻させないこと。人を国のかたちのための部品にさせないこと。あの男が見ているのは現実の人間だ……そこだけは、もしかすると、あの男とお前は同じ岸に立つことになる」


九条は痩せた手で湯呑みを包んだ。


「敵の敵は味方ではない。だが折り合えるところはある。……覚えておけ。いつかその日が来るかもしれん。虫の好かん相手と、鼻をつまんで手を組まねばならん日がな。それもまた政治だ」


****

その夜、私はなかなか寝つけなかった。


尊厳を掲げる私と、現実だけを信じるあの人。


これほど遠い二人が、たった一点で、同じ方を向く。その日のことを想像すると奇妙な心持ちがした。心強いような薄ら寒いような。


けれどと思う。


社会は変わっていく。敵も、味方も、そのたびに、かたちを変える。それでも、変えてはならない一線だけは変わらない。人を、人として扱えているか。その一点で組める相手なら、私は手を伸ばすのだろう。


****

同じ夜。


あの老人もまた、一人盃を傾けていた。


宴の熱気は、とうに醒めていた。まぶたの裏に、あの金の髪の娘の姿が、ちらついて離れない。会場でただ一人、あの熱狂に浮かれていなかった娘。自分と同じ目であの神輿を見ていた。


「……よりによって、あの小娘だけがあれに飲まれないとはな」


男は一人苦笑し、杯を飲み干した。

氷がカランと音を立てた。

別に全てちょっと調べれば出てくることばかりなのですが、ほとんどの国民の皆様がしらないことが裏で起きている、そんな風に感じています。

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