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7/12

循環

年の瀬が、近づいていた。


来年度の予算編成と並んで、永田町では「経済対策」という言葉が声高に飛び交うようになっていた。


日本の経済は、一部の大企業を除いて相変わらず低迷していた。

街のレベルに目を落とせば、物価がじりじりと上がり続けている。


私の事務所を訪ねてくる支援者からも、「生活が苦しい」という声が日に日に増えていた。


「絵里香さん。ほんとにもう限界なんです」


そう言ってうなだれたのは、あの事故で足を失った息子を持つ母親だった。

パートを掛け持ちしても、上がり続ける食費や光熱費に追いつかない。

彼女のような人がいま、数えきれないほどいる。


一方、永田町ではその対策として一つの議論が熱を帯びていた。

消費税の減税である。


私は無所属だ。

けれど与党と同じ会派を組んでいる以上その方針には、ある程度足並みをそろえることを求められる。


だが、私にはどうしても腑に落ちないことがあった。

減税すべきだという声と、いやむしろ増税だという声が同じ与党の中で平気で両立している。

どちらも正しいような気もするし、どちらも何かを見落としているような気もする。


いったい何が正しいのか。


経済は難しい。

私はそのエキスパートではない。

けれど、わからないままただ会派の方針に頷くのでは無所属である意味がない。

予め自分の考えを持っておきたかった。


そこで私は、一人の若い議員にこの話をぶつけてみることにした。


****

沢井秀隆さんという。

私より少し年上(?)だが若手の与党の1年生議員だ。

前回の選挙では比例で当選している。


もとは財務省の官僚だった。

数字と経済の理屈にめっぽう強い。

そのくせ省のやり方に嫌気がさして飛び出したという変わり種だった。


口下手で、少し偏屈。

けれどその目はまっすぐだった。

彼のような人間が、しがらみのない私のところへと話に来てくれる。


「単刀直入に、伺います」私は、切り出した。

「いまの経済政策……何が、おかしいんでしょうか」


沢井さんは、少し面食らったようだった。


それからぽつり、ぽつりと話し始めた。

「……根っこは、全部つながってるんです」


まず円安。

日本は、エネルギーも材料もほとんど輸入に頼っている。

円が安くなればその仕入れ値が上がる。

だから、あらゆる物の値段が上がる。

インフレだ。

「でも、みんなが苦しい中では、給料は、簡単には上がらない。物の値段だけが上がって、給料は据え置き。……つまり、人々の買う力がどんどん削られていくんです」


「その、円安そのものを、なんとかはできないんですか」

「難しいですね」沢井さんは、首を振った。

昔は輸出を伸ばすために、政府がわざと金利を下げたりして円安に誘導しようとした。

「その付けが、いま回ってきているとも言えます。為替への介入も、やってはみたが注ぎ込んだ額のわりに効き目は限られていました」


そしてと沢井さんの声が少し鋭くなった。


「僕がいた財務省。あそこには、一つ大前提になっている思い込みがあります。……税を上げれば、税収が増える。そういう前提です」


「それは」私は、思わず口を挟んだ。

「当たり前のことでは?」


「そう思いますよね。でも、そこが落とし穴なんです」

沢井さんは、卓上の紙に簡単な図を書き始めた。


「たとえば、十円の取引に一回二円の税金がかかるとします。この十円の取引が十回おきたら、税収はいくらですか」

「……二円が、十回だから、二十円」


「そう。でも大事なのは、実はこっちなんです。取引のたびに手元に八円が残る。この八円は、また次の買い物に使われる。次の取引を生む。……お金が、ぐるぐる回るんです」


彼は、もう一つ図を、書いた。

「では、同じ十円の取引に五円もの税金をかけたら。……高すぎて、みんな買い控える。取引の回数が、減る。かりに、二回に減ったとしたら。税収は」

「五円が、二回で……十円」

「税を上げたのに。税収はむしろ減った」

沢井さんは、静かに言った。


「これが、景気を冷やして、かえって税収を落とす仕組みです。もちろん、必需品は、値段が上がっても買うしかないし、こんな単純な話ばかりではありません。それでも――税を、適正な高さに置かなければ経済も、消費も、確実に、縮む。そのことに中にいると気づけなくなるんです」


沢井はさらに続けた。それは独白に近かった。

「財務省の若手も、みんな一度は外国に留学に行く・・・そこで最新の経済理論を学ぶ。しかし、帰ってくると『忘れろ』と言われるんです。」


私は、その図をじっと見つめた。

そしてあることに気づいた。

「その、手元に残る八円は」私は、言った。

「……ただの、数字じゃない」


沢井さんが、顔を上げた。


「それは、誰かの明日のごはんです。誰かの店があと一日開いていられる、そのぎりぎりのお金です。……税を『いくら取れるか』だけで決めるとき、その人たちの顔がまるごと消えてしまう。国のお金はみんなが幸せに暮らすためのお金なのに、国のためにみんなが不幸になるのでは、本末転倒です」


沢井さんはしばらく、私を見つめていた。そしてふっと笑った。


「……あなたは、経済の素人だ。でもいちばん大事なところを掴んでる」


****

沢井さんは、公平な人だった。

減税さえすれば、すべてが解決するという単純な話ではない、ともはっきり言った。


個別の話に入れば、例えば消費税には消費税の良さがある。

景気に左右されにくく、広く、薄く、社会保障を支えている。低所得の人に、重くのしかかるという弱点はあるが財源としては安定している。一度下げて、また上げるとなれば社会は大きく混乱する。二年後に、また税率を戻すなどという話になればなおさらだ。

逆に、他の部分で減税しても、結局それが消費行動に与えるインパクトは薄い。手元に残るお金は増えても、経済を回すという意味ではどうしても弱い。


「減税以外の方策もあります」沢井さんは言った。


「例えば国が、一度金を吸い上げてそれをあちこちにばらまく。そういうやり方もありますが……それで結局税率が維持されていしまうと、民間の中でお金が回らない。配られてまた国に回収されて終わりです」


だから、大原則は二つだと彼は言った。


国が無駄遣いを減らすこと。

変な箱ものや、アニメを売って赤字を垂れ流す変な組織を立ち上げるために使ってはいけない。

そして、税率をほんの一パーセントでも下げて、その分のお金を民間の手の中で回すこと。


「事業者には所得税に消費税に社会保険料。……のしかかる負担は、合わせて収益の四割を超えるとも言われます。しかし、それに対する国民へのリターンは少ない...それでは経済が動くはずがない」


なのに、財務省は国際機関の勧告に従ってさらに税率を上げようとしている。

財務省は霞が関の中の中枢中の中枢だ。各政治家のブレーンとして、与党の政策決定の中にも強く入り込んでいる。特に「経済に明るい」ことを標ぼうしている議員ならばなおさら財務省のように数字を細かく出してきてくれるブレーンは貴重だ。


経済対策について、与党の中でも結論はまだ出ていない。

だから、今すぐに自分自身がどちらに決を入れるかを決める必要はない。


私は、経済の細かい理屈の、すべてを理解できたわけではなかった。それでも、一つのことだけははっきりと掴んでいた。


この議論は、順序が逆なのだ。


「いくら、税収を確保するか」から、始めてはいけない。

「あの母親が、あの事業者が、人としてまっとうに暮らしていけるか」、そこから始めなければならない。


数字の裏にはいつも生身の人がいる。政策が、人を、財布として扱い始めたとき、政治はいちばん大事なものを見失う。


だから私は会派の方針にただ頷くことはしない。

たとえ、それが波風を立てることになっても。


****

年が明ければ、通常国会が始まる。予算をめぐる、長い、腰を据えた議論が始まる。


私は、まだ答えの入り口に立ったばかりだ。

それでも、どこに立ってこの難問と向き合えばいいのか。

その足場だけはようやく見つけた気がした。


その頃。


あの老いた実力者の耳にも、小さな噂が届いていた。

あの九条絵里香のもとに、また、一人切れ者が通い始めたらしい。

財務省を飛び出した、変わり者の若手が。


男は、湯呑みの茶を、すすった。

理念だけの小娘。そう思っていた。

だがその周りに、なぜか使える人間が一人、また一人と集まっていく。


「……妙な求心力だな」

男はただそれだけ呟いた。

いまは何もしない。


ただその名を頭の隅に留め置いた。


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