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6/19

祝福

嵐のような日々の合間に、ふと凪の季節が訪れることがある。


選挙から拉致問題に外国人の受け入れそして、あの切り抜き騒動。

息つく間もなく続いた戦いが、しばらくなりを潜めた初夏。


私は、ようやく後回しにし続けてきた一つの約束を果たすことにした。

結婚式である。  


――もっとも、入籍そのものはとっくに済ませていた。


立候補するその少し前。


私は、慌ただしく婚姻届を出した。


夫となったのは藤崎曜一朗。医学部で出会った、一つ年下の生真面目な男だ。いまは、九条の家に入り九条曜一朗として研修医の日々を送っている。


なぜそんなに急いだのか。


その理由は散文的だ。 

政治家を志す女が、籍も入れずに男と会っている。それがあらぬスキャンダルの種になりかねなかったからだ。


相馬さんには「政治家の結婚は、最大の政治イベントですぞ」と真顔で言われたが、私たちは、そんな計算とは無縁のところで静かに紙一枚を、役所に出した。


そうして、式だけが宙に浮いたまま選挙に突入し、当選し気づけばこの慌ただしさである。


式を挙げる暇などどこにもなかった。


「いい加減、やりなさいな」

そう発破をかけてきたのは、義母の聡子だった。


...そこから、我が家の長い戦いが始まった。


問題は、どこでどう挙げるかだ。



「教会だ。教会に、決まっておる」


まず、そう言い張ったのは、義父の九条だった。かつて、この国の政治を裏で動かしたこの老人は、実は敬虔なクリスチャンなのだ。「絵里香の晴れ姿を、神の前で見届ける。これは、譲れん」



一方、義母の聡子はまるで違うことを言った。

「何を言ってるんですか、あなた。絵里香さんは、ミス・ユニバースで、いまや、時の人ですよ。ホテルニュー〇〇の大広間を借りて、それはもう、盛大に――」


「盛大にというのは」と、私は恐る恐る口を挟んだ。


「いったい、何人くらい……」

「そうねえ。まずは五百人?」

私と曜一朗の顔からさっと血の気が引いた。


私たちの願いはたった一つ。

静かなところで、ひっそりと挙げたい。


私は舞台や演台の上で、何万という視線にさらされてきた。

式くらいは大切な人たちだけで飾らずにやりたかった。


「五百人の前で誓いの言葉なんて……」曜一朗が、青い顔で呟いた。この人は私の前でさえいまだにしどろもどろになる男だ。五百人など、卒倒しかねない。


義父と、義母と、私たち。

三者三様の願いが、火花を散らした。

そして、九条が拗ねた。


「……だいたい、面白くない。私の可愛い絵里香を、どこの馬の骨とも知れん男に……」


「お義父様。曜一朗さんはもう九条の人間ですよ」

「……はて。そうだったかな」

天下国家を論じるときの、あの明晰さは、私のこととなるといつもどこかへ消えてしまう。



落としどころを決めたのは、実は身も蓋もない事情だった。


――お金がなかったのだ。


聡子は「費用は、いくらでも出す」と、胸を張った。九条も頷いた。

けれど私はそれだけは、と首を横に振った。人に出してもらった金で、大広間を借りて、五百人を集める。そんな借りものの晴れ舞台はいらなかった。

式くらいは、自分たちの身の丈で挙げたい。


無所属の一年生議員の稼ぎと、研修医の給料。二人合わせても決して多くはない。


本当は、プロポーズをしてくれた、あの石垣島の海辺で――と、夢見たこともあった。

けれどそんな余裕はいまの私たちにはなかった。少しだけ切なかった。それでも、身の丈の幸せのほうが私には性に合っていた。


そんな私たちに、場所を見つけてくれたのは、ほかならぬ、九条だった。信心深いこの人が、長く通ってきた縁で、東京のあるキリスト教系の大学の、古い礼拝堂を安く貸してもらえることになったのだ。


蔦の絡まる、赤煉瓦の小さなチャペル。派手さはまるでない。けれど静かで慎ましくどこか凛としていた。


教会だから、九条の顔が立つ。小さな式だから、私たちの願いも叶う。クリスチャンの大学だから、牧師(※プロテスタント)も本物だ。


聡子は、「盛大に」を、あきらめきれない様子だったが、その分ドレスだの花だのを限られた予算の中であれこれ選んでもらうことで手を打った。


****

式の日は、よく晴れた秋の一日だった。


大学の構内は、銀杏並木が一斉に色づいて、金色のトンネルのようだった。

足元には、散った葉が絨毯のように敷き詰められている。澄んだ空気の中を私たちの足音が、乾いた音を立てて、進んでいく。


蔦の絡まる古い礼拝堂を、秋の柔らかな日ざしが、静かに包んでいた。


参列してくれたのは、ほんの、二、三十人。けれど、その一人ひとりが、私にとっては、かけがえのない人たちだった。


私を、いちばん苦しかった時期に、家に迎え入れてくれた、倉田と奈緒さん。奈緒さんは、私の花嫁姿を見るなりぼろぼろと泣き出した。


かつて、女としての生き方を一から教えてくれた人だ。

「立派に、なって……」と、それだけ言って、あとは言葉にならなかった。

倉田は、相変わらずぶっきらぼうに、「……まあ、幸せにな」とそれだけだった。


大学からの友人、立花は開口一番こうだった。


「神谷! あんた、ほんとに、結婚すんの?! あの、ぽんこつ藤崎と?!」

「立花……声が、大きい」


参謀の相馬さんは、参列者を目を細めて見渡していた。そして、ぽつり。


「……いやあ、いい絵だ。これは、票に、なりますなあ」

「相馬さん!」


彼は、ばつが悪そうに頭をかいた。長年の選挙屋の悲しい性である。


大河内先生も、来てくれた。


外務省時代の、あの眠そうな課長――柏木さんは、教会が禁煙なのを心底、恨めしそうにしていた。事務所の支援者たち――事故で足を失った息子を持つ、あの母親もいた。彼女は、私の手を、ぎゅっと握ってただ、深く頷いた。

在留資格に苦しんでいたリムさんの一家もいた。


立場も、年齢も、生まれた国さえばらばらの人々。

その全員が少しずつ私たちを祝福してくれた。


控室の姿見に、白いドレスをまとった自分が、映っていた。飾り気のない、シンプルなドレスだ。それでも、抜けるように白い肌に淡い金の髪。清楚なレースの向こうに、ほっそりとした肩の線が、透けている。……我ながら、どきりとするほど、それは似合っていた。


この容姿は、私にとって武器であり檻でもあった。舞台の上で、点数をつけられ見世物のように、消費された美しさ。

けれど、今日のこれは違う。誰かに見せつけるための美ではない。ただたった一人の人の隣にいちばんきれいな姿で立ちたい。

それだけの慎ましい美しさだった。


祭壇の前まで、私は九条の腕に手を添えて、ゆっくりと歩いた。


一歩ごとに、この老人の腕が、かすかに震えているのが、わかった。秋の光が、古いステンドグラスを通して、私たちの足元に、色とりどりの模様をそっと落としている。


祭壇の前で待っていた曜一朗が、私の姿を認めて、はっと息を呑んだ。いつも私の前でさえしどろもどろになるこの人が、今日ばかりはただ、まっすぐに私を見つめている。

その目が、みるみる潤んでいった。


「……絵里香」祭壇の手前で、九条が小さな声で言った。


「幸せに、なりなさい」

その一言で、こらえていたものがあふれそうになった。



すべてを失い、名も居場所もなかった私を、この人は娘として迎えてくれた。そしていま、私は大切な人たちに囲まれている。

私の顔でも、名声でもなく、私というただの一人の人間を愛してくれる人たちに。


曜一朗が、緊張のあまり指輪を危うく取り落としかけた。参列者から小さな温かい笑いが起きた。

誓いの言葉を交わす。飾らない、ささやかな、けれどまっすぐな誓いだった。


****

式のあと、こぢんまりとした食事の席で、九条は少し飲みすぎた。


「曜一朗くん」と、義父はしみじみと言った。「絵里香を、頼んだぞ。……ただし、泣かせたら、承知せんからな。この老いぼれの、目の黒いうちは」


「は、はい。九条先生」

「先生では、ない。……お義父さん、だろう」


曜一朗がぽかんとし、それから深々と頭を下げた。私は、その光景を隣で笑って見ていた。


明日からは、またあの慌ただしい戦いの日々が、戻ってくる。すぐに通常国会も始まる。あらゆる問題が未解決で私を待っている。


けれど今日だけは。この一日だけは。

私は、ただの一人の花嫁でいさせてもらう。


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