切り抜き
私が主張した対案は、思いのほか早く動き始めた。
あの日、委員会のあとで私を追いかけてきた、若い与党議員――三宅さんが、約束どおり与党の法務部会にその案を持ち込んでくれたのだ。
法務部会。与党が法律や法務にまつわる方針を、内々に固める政策の会議だ。
無所属の私には決して入れない扉の内側だった。
三宅さんによれば、当初は部会の空気は真っ二つに割れたという。
「実績で見るのは筋が通っている」――そう頷く議員もいた。
けれど、それ以上に強い抵抗があった。
無理もなかった。あの在留資格の厳格化は、ほかならぬその法務部会がつい先ごろ了承したばかりのものだ。
それを、今さら覆す。
それは、自分たちの決定が間違っていた、と認めることに等しい。
面子がかかっていた。
そしてもう一つ。
もっと剥き出しの理屈があった。
「三宅くん。……あの外国人たちは、選挙で一票でも我々に入れてくれるのかね」
部会の重鎮の一人が、そう言い放ったという。
外国人には選挙権がない。
彼らのために、どれだけ汗をかいても票にはならない。
それどころか「あいつは外国人の味方だ」と言われれば、日本人の票が逃げていく。
「割に合わん仕事だよ、三宅くん。……悪いことは言わん。あの娘とは距離を置きたまえ」
票にならない。
その一言の前で、正しさは驚くほど無力だった。三宅さんに同調しかけた議員たちも、一人また一人と口をつぐんでいったという。
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その一部始終を遠くから眺めている男がいた。
とうに一線を退いたはずの、老練な実力者。かつて幹事長として、党の金と人事と数を束ねてきた男だ。
彼はあの娘のことを脅威だとは思っていなかった。
無所属の一年生など、この永田町では駒にもならない。しがらみを持たず、きれいごとを掲げて人を集める。
そういう手合いを彼は数えきれないほど見てきた。そしてそのことごとくが遅かれ早かれ選挙という現実に足をすくわれて消えていった。
理想は美しい。
だが飯を食わせてくれん。
男の信じるところは単純だった。
政治とは結果だ。
数であり力であり面倒を見ることだ。
地元に道路を通し、仕事を作り、困った者の相談に乗る。
四十年、彼はそうやって自分を頼る人々の暮らしを現実に支えてきた。
実現できもしない理想を振りかざす者ほど、いざ崩れたときにはいちばん弱い者にしわ寄せをもたらす。
彼は、そういう例を嫌というほど見てきた。
あの娘の「実績で見る」という案が、若手の間で、少し騒がれているらしい。
放っておいても消える芽ではある。
ただ、少しだけ目障りだった。
男は、旧知のある雑誌の編集者を茶に誘った。世間話のついでにこう囁く。
「あの九条絵里香という娘は、面白いことを、言うそうだな。……なんでも、『日本人だけでは、この国は立ち行かない』『外国人にも、国籍を』と。ほう。それを聞いて、日本の有権者はどう思うかね」
編集者の目が光った。男は、それ以上は何も言わない。言う必要もなかった。
彼にとってそれは大仕事でもなんでもなかった。長い将棋のほんの、歩を一つ突いた。その程度のことだった。
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記事が出たのは、その数日後だった。
『「日本人だけでは立ち行かない」 九条絵里香議員、外国人への国籍付与を主張』
見出しだけが独り歩きした。
私の言葉から都合のいい一片だけが切り抜かれ、前後の文脈はきれいに削ぎ落とされていた。
私は、確かに言った。
この国は、少子化で外国の人の力なしには立ち行かないと。根を張ろうとする人には、国籍への道もと。
けれどそれは「だから、無条件に誰にでも入国籍をばらまけ」という話では、断じてなかった。
中途半端に受け入れよそ者のまま隅に置けば、ドイツの二世のように不幸を生む。
だから、迎えるなら覚悟をもって一員として――。そのいちばん肝心なところが、まるごと消されていた。
切り抜かれた一片は、瞬く間に拡散した。
「日本人の税金で、外国人を優遇するのか」「彼女は、日本人の味方じゃない」「顔からして、外人だしな」
心ない言葉が、私の名に降り注いだ。
あれほど、私を推してくれていた声のその一部さえ潮が引くように離れていく。
票にならない仕事をして、自分の票まで失う。まさに、あの重鎮が言ったとおりの絵に私はなりつつあった。
一片の言葉が、これほどの牙を持つとは。私は、初めてこの時代の恐ろしさを思い知った。
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私は、義父のもとを訪ねた。
九条匡義。かつて長くこの国の政治の中枢にいた人だ。いまは高齢で一線を退き、体もめっきり弱っている。それでも私にとってはかけがえのない父だった。
事情を話すと、九条は記事にちらりと目をやっただけですべてを見抜いた。
「……文脈を切り取って、いちばん醜い形に、整える。この手口。あの男だな」
九条は、その名を口にした。
かつて、幾度も渡り合った老いた好敵手の名を。
「ただ言っておくが、あれはただの悪党ではない」九条は、静かに付け加えた。
「あの男には、あの男なりの筋がある。数と力で、四十年も人の暮らしを現実に支えてきた男だ。それを忘れて、ただの敵と侮ればこちらが、足をすくわれる」
「ではお義父様、私はどう返せば」
「切り抜きに、切り抜きで返すな」九条は静かに、けれどきっぱりと言った。
「あの手の男と、その土俵で殴り合って、勝った者はおらん。お前が一片を出せば向こうは、もっと醜い一片を出してくる。泥仕合だ。……そして泥仕合になった、その時点で、お前の負けだ。汚れていないこと。それだけがお前の武器なのだからな」
「では、どうすれば」
「全部を見せろ」
九条の、落ちくぼんだ目にかつての光が宿った。「切り取られた一片ではなく、お前の言葉のまるごとをだ。奪われた文脈を取り戻せ。それができるのはお前だけだ。……世界が振り向くその声でな」
その言葉は、いつか外務省の上司が、私に授けてくれた言葉とそっくり重なった。
お前の武器は、声だと。
九条は、痩せた手を動かした。
「この老いぼれもまだ多少は顔が利く。お前が、正々堂々全部を見せる。その舞台だけは、邪魔が入らんように、整えておいてやる。……あとは、お前次第だ」
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私は動き出した。
参謀の相馬さんが、段取りを組んだ。大河内先生は、揺れる法務部会を、内側から、押さえてくれた。夫の曜一朗は、憔悴した私の背を、黙って、さすってくれた。
そして、私はカメラの前に立った。
小細工はしなかった。
切り抜かれた一片を、まず、そのまま、読み上げる。そして、その前後を、削られた文脈のすべてを、一言も省かずに語った。私が、本当に、何を言ったのか。そして何を言っていないのか。
そのうえで、私は、あのいちばん醜く使われた理屈に正面から答えた。
「外国人のために働いても、票にならない……ええ、その通りです。あの方たちは私に一票も入れられません」
私は、カメラの向こうの一人ひとりを見つめた。
「だからこそなんです。人の値打ちを『自分に一票をくれるかどうか』で測り始めたら。政治は、いちばん声の小さい人から順番に見捨てていく。票にならない人を、それでも人として扱う。……それが、できない政治に、いったい何の意味があるんでしょうか。私は、それを変えるために、ここへ来ました」
飾らない言葉だった。けれど、もう切り取られようのないまるごとの言葉だった。
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そこから先は、私が号令をかけたわけではなかった。
長く、私を取材してきた真島さんという記者がいる。彼女は、あの切り抜き記事の一片と、私の言葉の全文とを並べて一本の記事にした。
「読者が、自分で、判断すればいい」と。切り取る前と切り取ったあと。その二つを並べられれば、何がされたのかは誰の目にも明らかだった。
リムさんも動いてくれた。彼だけではない。リムさんの店で働く、日本人の従業員。
彼の商いで潤う日本の取引先。
彼らが、口々に声を上げた。
「あの人に救われたのは、外国人だけじゃない。私たち日本人もだ」と。外国人か、日本人か。
二つに引き裂こうとする図式そのものが崩れていった。
三宅さんは、部会でもう一度踏ん張ってくれた。あの一片の記事にかえって反発した若手もいたという。
潮目は、少しずつ変わっていった。作り物の怒りは根がない分引くのも早い。けれど私が地道に積み上げてきた信頼は、そう簡単には揺らがなかった。
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ただ嵐が過ぎ去ったわけではなかった。
私の実績案が、法務部会を、すんなり通ったわけでもない。票にならない、という壁は依然としてそこにある。失った支持も、そのすべてが戻ったとも言えない。
それでも、私は、あの切り抜きを、どうにか切り抜けた。
私の本心からの言葉とまるごとの信頼で。
のちに、私はあの一件の裏に誰がいたのかを知った。
意外だったのは、その人が、私を敵として見てすらいなかったということだ。あれは、その人にとっては戦いですらなかった。歩を一つ戯れに動かす。ただその程度のことだったのだ。
悔しさはあった。けれど、それ以上に私は考え込んでしまった。
その人は単なる悪人ではない。
四十年、数と力で自分を頼る人々の暮らしを現実に支えてきた人だ。
「理想は、いちばん弱い者を、救わない」――その信条には、長い歳月に裏打ちされた確かな重みがあった。
私が掲げる「尊厳」という旗を、青臭い、と切り捨てるその言い分にもたしかに一理はあるのだ。
ただ、その人の政治はどこまでも党という枠の内側にあった。数と、貸し借りと、面倒見。
その古い作法の、外へ出ようとはしない。
私が変えたいのはその枠そのものだった。
いつか、あの人とまっすぐに向き合う日が来るのかもしれない。敵としてではなく。古い政治のいちばん深いところを知り尽くした人として。……その日まで、私は、私の足元を、一歩ずつ、固めていくしかない。
まだ、始まったばかりだった。




