闇
あちら側は、切れる札を使い果たした。
金も、議席も、策略も尽きたと思っていた。
だから、私は油断していた。
札の尽きた獣が、最後に牙をむくことを忘れていたのだ。
始まりは、事務所の前に、黒塗りの街宣車が居座るようになった。
朝から晩まで、拡声器ががなり立てる。
「倒錯者」「国賊」などの声がダミ声で私たちに向けられる。
例の「美しい国」を標榜する人々の、表向き上品な物言いとは違う。
剥き出しの獣の唸りだ。
その音を、いちばん正確に聞き分けたのは権藤だった。
「これは党の連中じゃないな」
彼は低く言った。
「連中はもう手を引いた。返り血を浴びて慌てて火消しに回っとる。……これは、あの金庫番の下にいた末端の連中だ。しのぎを断たれ、面子を潰された。いちばん古くいちばん暗い場所の獣どもよ。理屈は通じんし、既に勝ち負けとかではないのだろう」
この頃から、権藤は私のそばを離れなくなった。
柄にもなく私の外出について来る。
人混みに、目を配る。
何を警戒しているのか、うすうす分かった。
だが彼は、口にしなかった。
「やめておけ」とも、「隠れろ」とも言わない。言っても私が聞かないことを、誰より知っていたからだ。
****
前の晩のことだ。
権藤が、めずらしく九条の家に顔を出した。灯里の顔を見に来たという。柄にもない、と私は少し笑った。
聡子が、どら焼きを出した。
かつて、この家で、権藤が匡義と渋々卓を囲んだあの日。この老策士が、逡巡のすえ誘惑に負けたのを聡子は覚えていた。
権藤は、ふん、と鼻を鳴らし、それでも旨そうに一つ平らげた。
そして、眠る灯里をおそるおそる抱いた。
大きな、節くれだった手の中で、赤ん坊は、驚くほど小さく見えた。権藤は、長いあいだその寝顔を見つめていた。
「……こういうものを守るために、政治はあったはずなんだがな」ぽつりと言った。
「俺は、ずいぶん遠くまで来ちまった。……だが、悪くない」
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その日も、私は駅前に立った。
街宣車の罵声に負けて街から退く。
それをすれば、あの憎悪の勝ちだ。
私はいつものように、道行く人に頭を下げた。
昼下がりの、ありふれた雑踏だった。
行き交う人。
改札の音。
遠い罵声。
何もかもが、いつもどおりだった。
人垣の中から、その男がまっすぐに来た。
うつむいて、ためらいもなく。握手を求める支援者だと思い、私は手を差し出しかけた。
その懐で、昼の光が銀色に跳ねた。
刃だ、と気づいたときには、もう遅かった。
「絵里香ッ」
権藤の声。横合いから、突き飛ばされる。
宙に投げ出された視界の隅で、私と刃のあいだへ、あの大きな背中が、ためらいもなく割って入った。
にぶい、音がした。
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悲鳴。逃げ惑う人。
取り押さえられる男。
その物音は、どこか遠くで聞こえた。
私の目には、たった一つしか、映っていなかった。
膝から崩れていく、権藤の姿。
脇腹を押さえた指の隙間から、赤いものが、とめどなくあふれ、昼のアスファルトを黒く濡らしていく。
私は、這ってすがりついた。
抱き起こす。
その体は、まだ熱く、みるみる重くなっていった。
「権藤さん! いやだ……いやだ、権藤さん!」
私の手は彼の血で、真っ赤に染まった。
押さえても、押さえても、熱いものは指の間からあふれ続けた。
権藤の、血の気の失せた唇が、動いた。
「……ばかもんが」。掠れた声だった。「代表は、いちばん後ろで構えてろと……何度、言ったら、分かる」
「喋らないで。お願いだから」
「……あかりを、頼む」
その目が、まっすぐ、私を見た。
「灯を……下ろすなよ」
「あなたも、支えてください。まだ、あなたがいないと」
権藤は、笑おうとした。けれど、もう皮肉なあの形に唇はならなかった。ただ、ふっと、肩の力が抜けた。
「……いい党に、なったなあ」
それが、最後だった。
腕の中で、体から、力が抜けていく。
老いた策士の重みが、ゆっくりと私に預けられた。
その顔から、皮肉も、諦めも消えていた。
ただ、静かだった。
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しばらく、私は、動けなかった。
冷たくなっていく、その手を両手で握りしめていた。
血にまみれた頬を、涙が、幾筋も伝って落ちた。
理想は、飯を食わせない。
数は力。
その現実を、この人がぜんぶ引き受けてくれた。だから私は、まっすぐ光だけを見ていられた。
その、私の盾が。
もう、いない。
取り押さえられた男へ、群衆の怒号が浴びせられた。「殺せ」という声さえ上がった。
私は、血まみれの手のまま、立ち上がった。
そして「殺さないで」と言った。
声は、震えた。それでも言った。
権藤の死を、憎しみの燃料にはさせない。それをすれば、私たちも、あの剥き出しの憎悪と、同じものになる。
人を、人として扱う。
その物差しは、こんな時こそ、握りしめていなければならなかった。
それだけが、権藤が命がけで守った灯を、汚さない、ただ一つの道だった。
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その男は、やはり党とも政権とも、じかのつながりはなかった。
追い詰められ、しのぎを断たれたあの暗い一角の末端の一人だった。
けれど、この一突きがこの国を変えた。
政治のいちばん奥の権力と、その足元に巣くってきた、いちばん古い闇。
その二つをつなぐ暗い臍の緒が、この日、白日の下で、断ち切られた。
慌てて距離を取る与党の姿は、かえって、これまでどれほど、その闇と地続きだったかを世間に教えてしまった。
旧い秩序の、最後のつながりを焼き切ったのは、皮肉にも、その秩序が放った最後の牙だった。
だが、そんなことは、あの日の私にはどうでもよかった。
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家に帰ると、聡子が、灯里をあやしていた。
血にまみれ、抜け殻のようになった私を見て、すべてを察したのだろう。
何も言わず、灯里を、私の腕にそっと渡した。
小さなあかりが、私を見上げて笑った。何も知らない、無垢な笑顔だった。
この子の名をつけたのは、あの人だ。暗い水を一生泳ぎ抜いて、ついぞ手に入れられなかった光。
それを、この子に託して、逝った人だ。
私は、灯里を、強く抱きしめた。まだ乾かぬ涙が、その小さな頬に、ぽたりと落ちた。
この子の名を呼ぶたび、私は、あの人を思い出すだろう。
それでいい。名前とは、そういうものだ。呼ぶたびに、その人が、そこにいる。
権藤さん。
あなたのあかりは、ここにいます。私が、灯を下ろさない限り、いつまでも。




