罠
その報せが届いたのは、私が子を産んでまだ一週間とたたない頃だった。
体はまだ本調子ではない。
夜は二時間おきの泣き声で、断ち切られる……その、いちばん無防備な時を、彼らはまた狙ってきた。
権藤の言ったとおりだった。
追い詰められた獣は、なりふり構わない。
桐生さんの顔は、いつになく硬かった。
「先の兵糧攻めのとき、大口の献金が細ったぶんを、無数の小口が、埋めてくれました。……あの洪水の中に、妙なものが、紛れていたんです」
彼は、一枚の表を私の前に置いた。
「権藤さんの後援会に入った、小口の寄付。その中におかしな束がある。どれも、一人あたり五万円以下です」
「五万円以下」
「ええ。政治資金の報告では、一人が年に五万円を超えて寄付したときだけ、名前を書く義務がある。※五万円以下なら、名前は要らない。合算されてただの数字になる。……つまり、名の残らない金です。それが、同じ時期に同じような振込用紙でどっと入っていた。うちの監査人がその不自然さに気づいて、送り主を、一つずつ当たり始めた。……その、矢先です」
「矢先?」
「週刊誌が書きました。検察への告発状も、出た。……『灯の幹事長が、後援会を隠れ蓑に企業の裏金を、他人名義で受け取っていた』と」
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全体のストーリーはこうだ。
企業や団体からの金は、後援会のような団体にはそもそも出せない。
※法で、禁じられている。
他人の名義を借りた寄付も、固く禁じられている。
……その二重に禁じられた金を、五万円以下に刻み、他人の名をかぶせて、権藤の後援会に、流し込む。
一つひとつは名もない、小さな善意の寄付に見える。
灯が、あの兵糧攻めをしのいだあの無数の小口と見分けがつかない。
だから、すぐには引っかからない。
しかし、それは明らかに誰か一つの団体が行った献金だ。
外から見ればその通りだ。
しかし、あの権藤がそんな見え透いたことをやらせるわけがない。
……敵は、灯がいちばん誇っているもの——名もなき人々の、小さな献金——その中に、毒を隠したのだ。
しかも、うちの監査が、その毒に気づきたどり始めたまさにその途中で。
まだ「調べている最中」の、宙ぶらりんを狙って、外から告発をぶつけてきた。
「調べている」が「隠している」にすり替えられた。
相馬さんが、青い顔で二つの道を並べた。
「掟どおりなら、権藤さんの団体に禁じられた金がある以上、けじめをつけねばなりません。陣営の不正は議員本人が負う。秘書がやったは通らない。……先生が自分でそう定めた。除名すれば、灯の潔白は、保てる。だが党の背骨を自分の手で折ることになる。そっくり向こうの思う壺だ」
「かばえば」
「灯は、身内に甘い、ただのきれいごとの党に成り下がります」
切っても、かばっても負ける。
見事にそうできていた。
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その夜、権藤が一人で訪ねてきた。
「離党届だ」。
白い封筒を机に置く。
「俺の団体に、入った金だ。誰が入れたにせよ、責めは俺が負う。……掟だろう。それをお前が破るわけにはいかん」
その声には覚悟があった。
汚れた世界を、長く泳いできた男だ。
切り捨てられることに、慣れている。
むしろ、待っていたようにも見えた。
私は、封筒を見なかった。
権藤の目を見た。
「その金、あなたが、集めさせたんですか」
「……まさか」
「一円でも、使いましたか」
「使うか。あんな、見え透いた毒を」
「なら、離党する理由が、ありません」。
私は封筒を、彼のほうへ押し戻した。
「内規はどうする」と、権藤が、低く言った。
「禁じられた金が俺の帳簿にある。お前の掟が俺を斬れと言っとるぞ」
「掟は、人を生贄にする道具じゃ、ありません」
私は、痛む体を起こした。
「私たちが、自分で自分を検めると決めたのは、格好をつけるためじゃない。
真実を、知るためです。……あなたが、その金を知って集めさせたのなら。
私はあなたを斬ります。でも、あなたがはめられたのなら。掟がやるべきことは斬ることじゃない。……調べ尽くして、誰が、それを仕込んだのかを明るみに出すことです」
「あの独立した監査人は、私にも止められない。そう作りました。……なら、その独立を、今度はあなたの潔白を証すために使います。何も隠さない。あなたの帳簿の、いちばん暗いところまで全部開けます」
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私たちは逃げなかった。
むしろ、進んでまな板に乗った。
まず当たったのは、あの名もない五万円以下の送り主たちだった。
名前は載っていない。
けれど、金には、口座がある。
銀行の記録から、一つずつ、たどっていく。
行き着いたのは、生身の若者たちだった。
学生。
職を転々とする者。
借金に、追われている者……訪ねていくとみな一様におびえた。
口を開こうとしない。
「勘弁してください」とだけ言って、扉を閉ざす者もいた。
からくりが、見えてきた。
彼らは、寄付などしていなかった。
ただ、自分の銀行口座を渡していたのだ。
SNSで「口座を貸すだけで高収入」とうたう、あの闇バイトである。
軽い気持ちで、応じてしまう。すると、身分証の写しを握られる。
抜けようとすれば、「家族に知られたいのか」と脅される。……もう、逃げられない。
その口座を通して、どこかの汚れた金が、五万円以下に刻まれ、彼らの名で権藤の後援会へと流し込まれていた。彼ら自身、自分の名が政治献金に使われていたことすら、知らなかった。
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私は、その若者たちを、罪人としては、扱わなかった。
彼らもまた、はめられた側だった。
追い詰められ、目先の金に手を伸ばし、気づけば抜け出せなくなっていた。
……右肩上がりでなくなったこの国の、そのひずみの底で、静かにモラルがすり減っていく。
警察が「トクリュウ」と呼ぶ、あの影。
匿名で、流れるように結びつき、闇バイトで使い捨ての手足を集める、犯罪のかたまり。
その影が、ここに伸びていた。
社会の、いちばん弱いところを食い破りながら。
私は、彼らに、約束した。
正直に話してくれるなら、灯は、あなたを守る。抜け出す手助けを、する、と。
脅しでは、決して口を割らなかった若者たちが、その一言で少しずつ話し始めた。
恐怖で縛る、あちら側と。
もう一度立つ足場を差し出す、こちら側と。……どちらに、本当のことを、話したくなるか。
答えは、決まっていた。
彼らの証言が、糸を手繰り寄せた。
口座を集めていたのは、SNSの、顔の見えない募集主。
その先には、若者を使い捨てにする、トクリュウの影。
そして、その影に、しのぎの場所と後ろ盾を与えていたのが——古くからの暴力団と、それと結んだ、ある右翼団体だった。
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その、つながりを見て権藤の目の色が、変わった。
「……読めたぞ」。低く、彼は言った。
「決まって手を組む右翼団体が一つある。昔からその筋と暴力団とは地続きだ。……俺は、その受け渡しの場にいたことすらある」
政治のいちばん奥の金庫番。
それと結ぶ、右翼団体と暴力団。
その手足として、使い捨てにされる闇バイトの若者たち。
その若者の口座を通って、権藤の後援会に、ねじ込まれた汚れた金。
……一本の暗い線が、上から下までまっすぐに貫いていた。
金でも、議席でも「灯」に届かなくなった者たちが、とうとう政治の裏のいちばん暗い水路にまで手を突っ込んだのだ。
脅しは、証拠を残さない。
だが、人をはめるには道具が要る。
口座が要る。手足が要る。……その一人ひとりが生身の人間だった。
生身の人間は、証言する。
追い詰められた者たちが、最後に手を伸ばしたその醜い道具そのものが、彼らの尻尾になった。
そして皮肉にも、その暗い水路の地図をいちばん正確に描けるのは。
かつて、同じ水路を泳いでいた権藤その人だった。
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数日後、灯は、会見を開いた。
壇上に立ったのは、権藤でも、私でもない。
あの外の監査人たちと桐生さんだった。第三者の口から、事実だけを、語らせた。
闇バイトで、口座を集められた若者たち。
その口座を経由した、五万円以下に刻まれた金。
それを差配した、トクリュウ。
後ろ盾の、暴力団と、右翼団体。
そしてその線の、いちばん奥で、糸を引いていた、政治の金庫番。……図の上で線が下から上へ一段ずつ、遡っていく。
その先端は、灯を金と議席で締め上げてきた、あの勢力の懐へとまっすぐ伸びていた。
「灯の幹事長が、裏金を受け取っていた」という筋書きは、その日裏返った。
「灯を陥れるため、権力の側が、闇の犯罪組織を使って幹事長のポケットに、汚れた金をねじ込んだ」。
まったく別の、そしてはるかに醜い絵が白日の下に現れた。
禁じられた金は、すべて突き返され、報告書は、正された。
そして、口座を悪用したというれっきとした犯罪の告発は、今度はこちらから本当の首謀者たちへと、向けられた。
灯を斬るはずだった刃は、振り下ろした者の顔に、その返り血をべったりと浴びせていた。
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すべてが落着した夜、権藤が、また訪ねてきた。
今度は、封筒を、持っていなかった。
彼は、赤ん坊の寝顔をしばらく黙って見ていた。
それから、ぽつりと言った。
「……庇って、くれたんだな。俺みたいな濁った男を」
「庇っていません。真実を、調べただけです」
「同じことだ」
権藤は、目をそらした。
「昔の党ならこうはいかん。都合が悪くなれば、俺のような男はまっさきに切り捨てられた。……切られる側で、生きてきたからな。慣れておった」
「残念ですが『灯』は、そういう党じゃありません。人を最後まで使い倒します。」
「……ああ」。権藤は、頷いた。
「そうらしいな。この歳になって教わったよ」
私は少し迷ってから、口を開いた。
「権藤さん。……この子の名前をつけていただけませんか」
権藤が、顔を上げた。
初めて見る、うろたえた顔だった。
「……何を言い出す。俺は名付け親になるような玉じゃない。手が汚れとる。こんな生まれたてのまっさらなものに、触れていい手じゃない」
「その手で、あなたは『灯』を守ってくれました」と、私は言った。
「濁った水の底までたどって、あの若者たちを光のほうへ引き上げてくれた。……あなた以外に、この子の名を頼みたい人はいません。曜一朗も同じ気持ちです」
権藤は長いあいだ、黙って赤ん坊を見ていた。
梅の蕾のようなその拳を。
透きとおる、爪を。
やがて絞り出すように、言った。
「……あかり、がいい」
「あかり」
「ああ。こんな薄暗い世の中にわざわざ生まれてきたんだ。せめて名前くらいは明るいものを持たせてやれ。……俺のような男が、生涯ついぞ手に入れられなかった光をな」
私は、その名を心の中で繰り返した。
「あかり」
灯の、灯。
いつか匡義から、私へ渡された、あの火それが、名前になってまた一つ次の手へと渡されようとしていた。……皮肉にも、それを手渡すのはかつて匡義と真っ向から争った、この人だった。
「灯里と書きます」と、私は言った。
「灯火が、道を照らす道標になるように。あなたがくれた名前です」
権藤は、ふん、と鼻を鳴らした。
けれど、その目は赤ん坊から長いあいだ離れなかった。
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後日、あの、口座を貸した若者のうち、幾人かが、事務所を訪ねてきた。
証言をした、そのことで、脅されはしないか。
おびえていた彼らを、「灯」は弁護士等も使って守り抜いた。
そのうえで、須藤さんや、桐生さんが、彼らの次の足場を探した。
借金の相談に乗る。
まっとうな仕事に、つなぐ。
抜け出す道を、一緒に描く。
「すべての人に、再起の足場を」
綱領に掲げたあの一行を、私たちは、敵が使い捨てにした若者たちにそっくり差し出した。
使い捨てにする側と、拾い上げる側。……その違いだけは、はっきりと示したかった。
一人の若者が帰り際、ぼそりと言った。
「……こんな大人も、いるんですね」
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腕の中で赤ん坊が小さくあくびをした。
金でも、落ちなかった。
議席でも、削れなかった。
「灯」自身の刃で、「灯」を斬らせる、最後の細工も、返り血を浴びて砕けた。
あちら側は切れる札を使い果たした。
終わったと思っていた。
切る札の尽きた者が、最後に何をするか。……それを、私はまだ知らずにいた。
窓の外は、静かだった。その静けさの底で、追い詰められた何かが最後の牙を研いでいた。




