女の戦い
陣痛が始まったのは、よりによって、その朝だった。
腹の底を、鈍い痛みが、規則正しく突き上げる。曜一朗が、車に乗せながら、努めて静かに言った。
「大丈夫。ゆっくり、息をして」。
だが、その手が、かすかに震えていた。
前例のない体だ。
何が起きるか、この人にも分からない。
その同じ朝、桐生さんから、短い電話が入った。
与党が動いたと。
衆議院の定数を、一割、削る。
ただし、小選挙区には手をつけない。
削るのは、比例代表だけ。四十五議席。
「身を切る改革」と、銘打って。
おまけに、このところ細っていた献金がぱたりと止まりかけている……よりによって、私が、動けないときに。
痛みの合間に私は桐生さんに告げた。
「……大河内先生にお任せします。」
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報せは、大河内のもとへすぐに届いた。
「絵里香さんが、産気づいた。同じ日に、向こうが、仕掛けてきた」
権藤が、書類の束を、机に置いた。
「まず、兵糧攻めだ」と、彼は言った。「灯に金を出した者を、一人ずつ、締め上げとる。献金した会社に、なぜか税務調査。役所の許認可が、理由もなく止まる。取引を、そっと切られた店もある。……証拠は、どこにも残らん。俺が若い頃に、さんざんやった手だ」
「そして、定数削減」
「そして、定数削減。……そっちが、本命よ」。
権藤の声が、低くなった。
「小選挙区は、大政党の牙城だ。地盤のない灯は、そこでは、なかなか勝てん。議席の大半を、比例で得ている。……その比例だけを、削る。灯と、中小の党ばかりが、痩せ細る。二大勢力は、そっくり、残る」
「与党だけで、そんな乱暴が、通りますか」
「そこよ」。権藤の目が、鋭くなった。
「今度は、最大野党まで、乗った。表向きは、敵同士だ。だが、灯という、共通の脅威を前に、腹の底で、手を握りおった。……二つ合わせれば、衆議院も、参議院も、数は、足りる。連中は、それを、一気に、両院まとめて、通す気だ。お前が、産室にいる、この隙にな。片がついてから、『もう決まったこと』と、突きつける腹だ」
選挙の仕組みは、本来、時の多数派が、力ずくで、一方的に変えるものではない。腰を据えて、皆で、話し合って決める。それが、長年の良識だった。
その良識すら、彼らは、今度は、かなぐり捨てようとしていた。
大河内は、しばらく、目を閉じていた。
この手口を彼女は知っている。
四十年、見てきた。きれいな言葉で、いちばん新しい芽を、摘む。
かつて、彼女自身の総理の芽を、摘んだのも、こういう連中だった。
「家族は、こうあるべきだ」。
その型に頷けなかった彼女を、静かに、道の外へ押しやった。
「先生」と、権藤が言った。
「代表は、産室だ。前に立てるのは、あんたしか、おらん」
大河内は目を開けた。その奥に久しく忘れていた光が、戻っていた。
「……ずいぶん、待たせてくれたわね」
低く、そう言った。誰に、とも知れず。あるいは、四十年前の、自分に、だったのかもしれない。
「行きましょう。この戦は、私の戦でも、あるの」
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分娩室の時間は、痛みの波で区切られていた。
波が来る。
息を、こらえる。
引く。
また、来る。
額の汗を、立花が、拭ってくれる。
曜一朗は医者の顔と夫の顔のその境目で私の手を握り続けていた。
一度血の気が、すっと引いた瞬間があった。
器械の音が、急に、慌ただしくなる。
曜一朗の顔が、こわばった。
「絵里香。しっかり」。
その声が、遠く聞こえた。
前例のない体が、いま、その前例のなさの代償を、払わされようとしていた。
薄れる意識の中で、私は、国会のことを思った。
大河内先生。
私はそこにいられない。何もできない。ただ託すしかない。
けれど不思議と、こわくはなかった。
「灯」は、私が一人で掲げる旗ではない。
もうずっと前から。……私は、次の波に身を預けた。
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本会議場。
大河内は、代表代行として演壇に立った。
与党の提案理由は実に耳あたりが良い。
国民に痛みを求める前にまず政治家が身を切る。
議員の数を、減らす。
しかも、顔の見えない比例を削り、有権者が直接顔を選ぶ小選挙区は残す。
より民意に近い形にするのだ、と。
「灯」は、追い込まれていた。
賛成すれば、自らの伸びしろを差し出すどころか、次回の選挙で議員数を削られる。
反対すれば「改革に、後ろ向き」と、書き立てられる。踏み絵だった。
大河内はその踏み絵を踏まなかった。
裏返した。
「身を切る。結構です」彼女は、静かに切り出した。
「では、伺います。皆さんが切るという、その『身』は、どこの身ですか」
場内が、静まる。
「小選挙区はそっくり残す。削るのは、比例だけ。
……比例で議席を得ているのは、どこですか。
地盤のない、新しい党。
小さな党。
少数の声を、拾ってきた党です。
皆さんは、自分の腕を切るふりをして、その実は、隣に生えたいちばん新しい木の芽を根こそぎ刈ろうとしている」
彼女は、議場をぐるりと見渡した。
「これは、身を切る改革ではありません。二つの大きな勢力が、生き残るために少数の声を間引く。ただそれだけのことです」
そして、一枚の紙を掲げた。
「本当に身を切るのなら、切る場所が違います。まず、政党交付金の無駄。企業や団体からの献金。議員の数々の特権。……その懐を、お切りなさい。「灯」は賛成します。今すぐ賛成します。さあ、ご一緒に、いかがですか」
答えはなかった。
答えられるはずが、なかった。
自らの金づるを切れる者など、あちら側には一人もいない。
きれいな改革の、化けの皮が、一枚はがれた。
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大河内の大立ち回りは、そこからだった。
彼女はまず矛先を、最大野党へ、向けた。
「選挙の仕組みを時の多数で、両院まとめて、力ずくで書き換える。……それを、一度、許してごらんなさい。次は、その多数が、自分に都合よくどんなルールでも、書き換えます。今日、あなたがたがその先例を作るのです。……それは、民主主義の首を自分で絞めることですよ」
そのうえで、彼女は、委員会であの帳面を開いた。
灯に献金した者たちを襲った奇妙な「偶然」。
突然の税務調査。止められた許認可。
「大臣。これは、偶然ですか」。
証拠の残らぬはずの兵糧攻めが、帳面の上で、形を持った。
翌日の新聞は、その「偶然」を書き立てた。風向きが、動き始める。
最後に四十年の伝手をたどって。
比例を削られて痩せるのは、灯だけではない。
公和党の里見にも、ほかの小政党にも、彼女は説いて回った。
「次に痩せるのは、あなたの党ですよ」。
脅かされる者たちが、束なった。最大野党の中の比例組も、動揺したまま。……鎧袖一触のはずだった、両院一気の目論見は、あちこちで綻び、会期の押し詰まった時間の中で法案は宙に浮いた。
演壇を降りる間際、大河内は一言だけ私的なことを口にした。
「……ちょうど今、この議場の外で一人の議員が、子を産もうとしています。命がけで。かつて女には務まらぬと言われたその両方を手放さずに。……私には、できなかったことです。せめて、その邪魔だけは、私がさせません」
その声は静かだった。
だが、有無を言わせぬ刃を持っていた。
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どれくらい、経ったのか。
長い暗いトンネルのその果てで。
私は、細く高い産声を聞いた。
泣いている……生きている。
この子が。そして、私も。
「……女の子だ」。
曜一朗が震える声で言った。
「元気な、女の子だよ」
やがて胸の上に小さな、熱い塊がそっと載せられた。
初めて見る、その子は、驚くほど小さかった。
真っ赤な顔を、くしゃくしゃにして、力の限り、泣いている。
握った拳は、梅の蕾のよう。
透きとおるほど薄い爪。しめったやわらかな髪。
……その指の一本、まつ毛の一本まで、もう完璧に人だった。
ついさっきまで、この世に、いなかったのに。
医者たちは、口をそろえて言っていた。
前例がないと。
この体では、望むだけ無駄かもしれないと。……その、あってはならないはずの体から、いま一つのまぎれもない命が、生まれ落ちていた。理屈では説明のつかないただ一つの、確かな熱として。
奇跡、という言葉を、私は、これまで、軽々しく使うまいとしてきた。
けれど、この腕の中の重みを、ほかに何と呼べばいいのか、私には、分からなかった。
曜一朗が、その頬を、指の背で、そっとなでた。
医者の顔ではなく、泣き笑いの、父親の顔だった。
「……よく、来てくれたね」
私は頷くのが精一杯だった。
この小さな命が、生きてここにいてくれる。
その、たった一つのことだけで、もう、胸がいっぱいだった。
朦朧とした、けれど、奇妙に澄んだ意識の底で、立花がそっと囁いた。
「絵里香。国会のほう……大河内先生が、抑えたって。定数削減、止まった。両院一気の、あの目論見も、崩れたって。……献金も、いますごいことになってる」
聞けば、大口が脅されて細ったぶんを、無数の、小さな献金が埋め始めているという。一人千円。名も知らぬ大勢の人が、脅せない小ささで灯を支えていた。一人ひとりは小さい。けれど、締め上げるには、あまりに多すぎた。
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その夜遅く、大河内が、病室を訪ねてきた。
眠る赤ん坊を、長いあいだのぞき込んでいた。
いつもの、鋭い政治家の目は、そこにはなかった。
「……小さいのね」
「先生。ありがとうございました。私のいない間に」
大河内は、首を、横に振った。
「お礼を言うのは、こちらのほうよ」。
そして少しだけ笑った。
少女のような、笑い方だった。
「私はね、今日、四十年前に、できなかった戦を、やっと、させてもらったの。……あなたが、産室であの型を、真っ向から破ってくれたから。私も、外で思いきり暴れられた」
窓の外は、白み始めていた。
二つの戦が同じ夜に終わっていた。
一つは、命を、この世に迎え入れる戦。
もう一つはその命が生きる場所を守る戦。
どちらも、女が、身を張った戦だった。
赤ん坊が、小さく身じろぎした。
私はその手に指を差し出す。
頼りない、小さな指が、私の指を力いっぱい握り返してきた。
まだ名もない。
けれど、この子はもうこんなにも大勢の手に守られて生まれてきた。
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同じ頃、権藤は暗い議員会館の窓辺で、一人煙草をくゆらせていた。
兵糧攻めはしのいだ。
定数削減も止めた。
今度の合戦は「灯」の勝ちだ。
だが男の目は笑っていなかった。
「……追い詰められた獣ほど、なりふり構わん」
金でも落とせなかった。
数でも削れなかった。
ならば次にあの連中が手を伸ばすのは。……権藤は、灰を落とした。
その先にあるものを、この老いた策士は、誰より早く見通していた。




