余章 「灯」の護り手
side:立花未来
未来の指は絵里香の手首を探り当てていた。
脈を数えている。
医学部で、いちばん最初に叩き込まれたことだ。
解剖実習の部屋で未来はいつも窓の外を見ていた。
白衣の袖が消毒液の匂いを吸って重かった。
この道は父が選んだ。
祖父も医者だった。
だから未来も。
それだけの理由で、そこにいた。
人の脈をとる手つきばかりが上手くなっていく。
だが、自分の心臓の音は、いつまでも聞こえてこなかった。
絵里香に「手伝ってくれない?」と言われたのは、その頃だ。
理由なんて、考えなかった。気づいたら「うん」と答えていた。
自分の声に、自分で驚いた。
誰にも言われずに口から出た返事は、生まれて初めてだった。
表立っては、今私がここにいる理由は「腐れ縁」だと言っている。
彼女と友人の関係でいたいからだ。
でも、実はそうじゃない。
私が一番輝いていられる場所が、今ここにある。
でも、絵里香は、無茶ばかりする。
だから、私は彼女の身体を守る。
****
side:九条曜一朗
午前三時。
曜一朗は居間の机で画面を見つめていた。
国内の論文。海外の症例。
なんでも手掛かりになりそうなものを探す。
彼女の身体のことは前例がなかった。
何が起きるかわからない。慎重すぎるぐらいでちょうどいい。
PCの蓋を締めた。
部屋が、静かになった。
昔は、この静けさが当たり前だった。
一人で帰り、一人で眠る。
それを嫌だとも思わず、むしろ性に合っていると思っていたくらいだ。
いまは、この静けさが、こわい。
彼は寝室に戻った。ベッドの縁に腰かけ、耳を澄ます。
絵里香の寝息が聞こえた。低く、規則正しい。
曜一朗は目を閉じ、自分の呼吸を、その寝息にそっと合わせた。
吸って、吐いて。妻の息と、同じ拍で。
そうしていると、ようやく、彼のまぶたにも眠気が降りてきた。
医者にできることは、少ない。
前例のない道だ。
それでも、何か自分にできることはすべてやっておきたかった。
****
side:九条聡子
夜の台所で、聡子は動いていた。
おじやを炊いている。
絵里香がこの家の子になった頃から好きだったものだ。
体の弱ったときに、聡子が決まって作ってきた。手が、分量を覚えている。
あの子が、初めて食卓を囲んだ晩のことを、聡子はよく覚えている。
彼女は嵐の中でずぶぬれになった猫が拾われて連れてこられたたように、緊張していた。
このおじやを出してあげた。
あの子は、ふうふうと冷まし一口、口に運んだ。
そして二膳目の底で
「……おいしい」と言って、涙をこらえていた。
聡子は、自分が母親にしてもらえたのだと知った。
火を止め、椀によそう。湯気が立ちのぼる。
聡子は、仏壇の匡義に目をやった。
実の息子たちは匡義の理想を継がなかった。
でも、数奇な運命で私たちのところへ来た絵里香が、今頑張っている。
そして、命を継ごうとしている。
穏やかな顔で、笑っている。
「……また、あの子に、作ってるのよ」
それだけ言って椀を盆に載せた。
冷めないうちに届けてやらねば。
****
side:相馬義則
相馬は、絵里香の日程表を、赤鉛筆で片端から消していた。
「この視察はパス。この会合も代理でいい」
スタッフには、そう言った。
「先生が倒れたら選挙に障るからな」
赤鉛筆を握る指が、ふと、遠い夜を思い出す。
九条匡義は、雨の日も、風の日も選挙に立ち続けた。
理想を追いながらも、いつしか与党の中で妥協に塗れた。
夜に会合に出ては、朝の駅前に立つ。
それでも一票を自分に託してほしいと訴えて走り続けた。
そうして、九条の身体はボロボロになっていった。
あの膵臓がんからは奇跡的に復活し、最後は畳の上で逝くことができたが、彼女に同じ轍を踏ませるわけにはいかない。
その同じ背中を相馬はいまあの娘の中に見ている。
「先生。今日は、もう上がってください。」
削り終えた日程表を、絵里香の机に置く。
そっぽを向いて、そう言った。
赤鉛筆を、上着の内ポケットにしまう。
匡義の頃から使っている古い一本だった。
****
side:九条絵里香
その日私は早めに帰ることができた。
机の上の予定が、いつのまにか半分に削られていたからだ。
誰の仕業かは、赤鉛筆の跡で分かった。
台所にはまだ温かいおじやの椀。
居間の椅子では、曜一朗が、私を待ちくたびれて眠っていた。
手には、開いたままの医学書。
携帯には、未来からの短い一言。
「ちゃんと寝なさい。」
私は、おじやを一口、口に運んだ。
優しい味がした。
それからお腹に、そっと手を当てる。
……あなたは、まだ生まれてもいないのに、ずいぶんたくさんの人に心配されているのよ。
窓の外は、静かな夜だった。
私は、本を開いたまま眠る夫に、そっと膝掛けをかけた。




