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チーム「灯」

打ち明けると決めたとき、私の手は少し震えていた。


「灯」の事務所の奥の一室。集まったのは限られた顔ぶれだった。


代表代行の大河内先生。幹事長の権藤。政策秘書の桐生さん。選挙を見る相馬さん。事務所を切り盛りする立花。経済に明るい沢井さん。

私が、心から信じている人たちである。


私は、まっすぐに切り出した。

飾る言葉は、いらなかった。

「私、子どもを授かりました」


一瞬、部屋がしんとなった。


それから、立花が口元を押さえた。「……ほんとに?」と、声がかすれている。次の瞬間には、もう目に涙をためて、私の手を握っていた。「よかった。ほんとによかった」


大河内先生の目も、大きく見開かれた。

沢井さんが、「すごいじゃないですか」と、思わず腰を浮かせる。相馬さんは、腕組みをしたまま、天井を仰いで、「……こりゃ、大ごとだ」と、けれどその口元はゆるんでいた。


祝いの声が、ひとしきり部屋を満たした。


そのあとに、静かに別の空気が降りてきた。

皆、政治の世界を知りすぎていた。


その空気を言葉にしたのは、相馬さんだった。

「先生。……心から、おめでとうございます。そのうえで聞かせてください。議員と代表をどうなさるおつもりですか?」


****

それは、避けて通れない問いだった。


私は、いまや「灯」の代表である。

無所属の一年生から始まって、多くの人に押し上げられ、この火を預かる立場になった。国会は、いよいよ大きな山場を迎えようとしている。そのただ中で私は子を産む。


普通の会社なら、産休がある。休んで、また戻ってくればいい。いや、それすら実は簡単なことではないが、政治の世界は産休どころの話ではなかった。


静かに口を開いたのは桐生さんだった。彼はPCを片手に語りだした。

「国会議員が出産で休む前例はあります」


彼の説明はこうだった。


二〇〇〇年、橋本聖子さんが現職の参議院議員として子を産んだ。現職議員の出産としては、五十年ぶり二人目のことだったという。


そのとき、困ったことが起きた。議会を休む理由に「出産」という言葉が規則になかったのだ。あやうく「事故」として処理されそうになった。


「その後、参議院の規則が改められました」と、桐生さんは言った。


「欠席の理由に、『出産』と、初めて書き込まれたんです。衆議院でものちに、育児や出産を、休む理由として定めました。……議員が産み、休む道は、少しずつですができてきています」


「じゃあ、先生も、その道を使えば」と、沢井さんが言う。

「ええ一議員としてなら」桐生さんは、静かに首を振った。

「ただ、今回の問題はそこではないんですよね」

彼は、私を見た。


「先生は、いま党の代表です。……日本で、党首や大臣が産休を取った例は一つもありません」


****

一つもない。


その言葉が、部屋に重く落ちた。


「海外には、あります」と、桐生さんは続けた。


「パキスタンのブット首相は、一九九〇年、在任中に子を産みました。ただ、産休は取らずすぐに職務へ戻ったそうです。ニュージーランドのアーダーン首相は、二〇一八年、在任中に出産し、六週間の産休を取りました。国のトップが、産休を取る。世界で初めてのことだったと言われています」


「だが、ここは日本だ」

低く、唸るように言ったのは権藤だった。

あの、与党に長く君臨し、いまは私の側にいる、老いた策士である。


「党首ってのはな、看板だ。旗だ。その旗が数か月下ろされる。……その間にも政治は止められない。それを考えておかにゃならん」


彼の言葉はいつものように身も蓋もない。

けれど、それは、私を止める言葉ではなかった。

どう守り抜くか、その算段を始めている口ぶりだった。


「世間もどう見るかですね」と、相馬さんが継いだ。

「『代表が務まらないなら、辞めればいい』。『子どもか、仕事か、どちらかにしろ』。……そう言う者は、必ず出ます。的にされる」


子どもか、仕事か。

その言い方に、私の胸の奥で小さな火がちりりと灯った。

****

「――それ、おかしくないですか」

気づけば、私はそう口にしていた。

皆が、私を見た。


「私はいま、毎日、少子化の資料を読んでいます」と、私は言った。「産みたいのに、産めない。仕事を失うのが怖くてあきらめる。そういう人がこの国には大勢いる。去年生まれた子どもは、初めて七十万人を割りました。六十八万人。……その一人ひとりの後ろには、あきらめた人がもっと大勢いるはずです」


私は、続けた。

「その少子化をなんとかしようと言う党の、その代表が。子を授かったら代表を辞める。……それでは、この国のすべての働く女の人に『大事な仕事があるなら、子どもはあきらめなさい』と言うのと同じです。私はそれだけは言いたくない」


「けど前例がないんです」と、相馬さんが、なお食い下がる。

「誰もやったことがない」


「なら」と、私は、彼を見た。

「私がなります。前例に」


しばらく、誰も口をきかなかった。

その沈黙を破ったのは、大河内先生だった。


****

「絵里香さん」

先生の声は、いつになく、低かった。

「私はね、昔総理にいちばん近いと言われたことがあるの」

皆が先生を見た。


「でも、ならなかった。……あの頃、この国の政治のいちばん奥には、『家族は、こうあるべきだ』という一つの型があった。女はこう。母はこう。その型に私は頷けなかったの。頷いていれば道は、開けたのかもしれない。でも頷けなかった。だからあの椅子をあきらめた」


私は、息をのんだ。

先生が、なぜ初の女性総理の座を逃したのか。その本当の理由を私は、このとき初めて知った。


「あなたが、いまやろうとしていること」と、先生は、私を、まっすぐに見た。

「それは、私があきらめたことよ。子を持つことと旗を掲げることを、両方手放さない。……私にはできなかった。時代も許さなかった。でもあなたにはできるかもしれない。いいえ。あなたが、やらなければ。この先も、ずっと誰かが私と同じようにあきらめ続ける」


そして、先生ははっきりと言った。

「だから、あなたが休むあいだ、代表の代わりは私が務めます。この老いた身でよければ。……あなたの灯を、私に預けなさい」


****

その一言が、合図になった。


「――なら党内とやつらは俺が抑える」

真っ先に、そう言ったのは権藤だった。

「皇国会議が、この隙に何か仕掛けてくれば、それはこの老いぼれの出番だ」


「政策論議は止めません」と桐生さんが続いた。

「少子化の法案も、下請けの一件も、先生が戻られたときそのまま進められるように、私が形を作っておきます。休んでいるあいだも、灯の頭脳は動き続けます」


「委員会と、国会の中は僕らが回します」と、沢井さんが胸を叩いた。

「若手をまとめます。三宅さんたちも、力を貸してくれる。数の上で代表がいない穴は、僕らが埋める。……一人ぶんの働きなら二人でやりますよ」


相馬さんがやれやれと息をつきながら、それでも身を乗り出した。


「的にされる分は、こちらで引き受けます。攻撃が来ると分かっているなら、火消しの段取りはいくらでも、立てられる。……先生。あなたは攻撃のことは、一切気にしなさんな。矢面は、選挙屋の仕事です」


最後に、立花が、私の手をもう一度握った。

「事務所と、あなたの身体のことは私が見ます。無理をしそうになったら私が止める。……あなたは、いちばん大事なことだけ、考えて。あとはみんなでなんとかするから」


私は、言葉が出なかった。


一人では、とても背負いきれない。

そう思って打ち明けた話だった。


それがいつのまにか、六人ぶんの肩に少しずつ分けて載せられていた。

誰も「あなたの問題だ」とは言わなかった。


****

「一つ、決めておこう」と権藤が、締めるように言った。

「休むことを隠すな。こそこそやるな。堂々と公表しろ。『党首が産む。だから少し休む。当たり前のことだ』と。……隠せば、弱みになる。さらけ出せば旗になる」


それは、いつか桐生さんのことで学んだことと同じだった。

何も隠さない。それがいちばん強い。


「……ずいぶん、まっとうなことを言うのね」と、大河内先生が、権藤を横目で見た。


「ふん」権藤はそっぽを向いた。

「現実の話を、しとるだけだ」


そのいつもの応酬に、張り詰めていた部屋の空気が、ふっとゆるんだ。皆が声を上げて笑った。


思い出したのは、初めての選挙の朝だった。

まだ何者でもなかった私を、手弁当の仲間たちが囲んでくれた。あのとき、私たちは事務所で円陣を組んで街へ出た。あれから顔ぶれはずいぶん増え変わった。それでもこの肩を寄せ合う感じは、あの朝と何一つ変わっていなかった。


灯は、この六人の――いや、その後ろにいる大勢の手で支えられている旗だった。


****

その夜家で私は曜一朗にその日のことを話した。

彼は、静かに聞いていた。

そして私が話し終えると、少し間を置いて言った。

「政治家としては正しいと思う。……でも、医者としては心配だよ」

彼の顔から笑みが消えていた。


「君の身体が、どういう道をたどってきたか。それは、僕がいちばん知っている。この妊娠は、前例が、ないんだ。政治の話じゃない。身体の話としても君は誰も歩いたことのない道を、行くことになる」


「怖い?」と、私は聞いた。

「怖いよ」彼は、正直に言った。「君を失いたくない。子どもも欲しいが、君に無事でいてほしい。……それだけだ」


私は、彼の手を握った。

「無理はしない。あなたの言うことは聞く。……でも逃げはしない。前例がないのは政治も身体も同じ。どちらも、私が初めての道を行くだけ。……それに」


私は少しだけ、笑ってみせた。

「私は一人じゃないの。今日それがよく分かった」

曜一朗は、しばらく私を見ていた。


それから、ふ、と肩の力を抜いて頷いた。

「……いい仲間を、持ったね」

****


前例がない。

その言葉を、私はこの数日で、何度聞いただろう。

けれどと思う。

私という人間が、そもそも、前例のない道を歩いてきた。

かつて男だった私が、いまここにいること。

それ自体が、誰も歩いたことのない道だった。


一人である国は遠すぎる道だ。

けれど、いまは隣にも後ろにも人がいる。


私はそっと、まだ平らな腹に手を当てた。

灯は消えていない。二つとも私の中で静かに燃えている。


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