チーム「灯」
打ち明けると決めたとき、私の手は少し震えていた。
「灯」の事務所の奥の一室。集まったのは限られた顔ぶれだった。
代表代行の大河内先生。幹事長の権藤。政策秘書の桐生さん。選挙を見る相馬さん。事務所を切り盛りする立花。経済に明るい沢井さん。
私が、心から信じている人たちである。
私は、まっすぐに切り出した。
飾る言葉は、いらなかった。
「私、子どもを授かりました」
一瞬、部屋がしんとなった。
それから、立花が口元を押さえた。「……ほんとに?」と、声がかすれている。次の瞬間には、もう目に涙をためて、私の手を握っていた。「よかった。ほんとによかった」
大河内先生の目も、大きく見開かれた。
沢井さんが、「すごいじゃないですか」と、思わず腰を浮かせる。相馬さんは、腕組みをしたまま、天井を仰いで、「……こりゃ、大ごとだ」と、けれどその口元はゆるんでいた。
祝いの声が、ひとしきり部屋を満たした。
そのあとに、静かに別の空気が降りてきた。
皆、政治の世界を知りすぎていた。
その空気を言葉にしたのは、相馬さんだった。
「先生。……心から、おめでとうございます。そのうえで聞かせてください。議員と代表をどうなさるおつもりですか?」
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それは、避けて通れない問いだった。
私は、いまや「灯」の代表である。
無所属の一年生から始まって、多くの人に押し上げられ、この火を預かる立場になった。国会は、いよいよ大きな山場を迎えようとしている。そのただ中で私は子を産む。
普通の会社なら、産休がある。休んで、また戻ってくればいい。いや、それすら実は簡単なことではないが、政治の世界は産休どころの話ではなかった。
静かに口を開いたのは桐生さんだった。彼はPCを片手に語りだした。
「国会議員が出産で休む前例はあります」
彼の説明はこうだった。
二〇〇〇年、橋本聖子さんが現職の参議院議員として子を産んだ。現職議員の出産としては、五十年ぶり二人目のことだったという。
そのとき、困ったことが起きた。議会を休む理由に「出産」という言葉が規則になかったのだ。あやうく「事故」として処理されそうになった。
「その後、参議院の規則が改められました」と、桐生さんは言った。
「欠席の理由に、『出産』と、初めて書き込まれたんです。衆議院でものちに、育児や出産を、休む理由として定めました。……議員が産み、休む道は、少しずつですができてきています」
「じゃあ、先生も、その道を使えば」と、沢井さんが言う。
「ええ一議員としてなら」桐生さんは、静かに首を振った。
「ただ、今回の問題はそこではないんですよね」
彼は、私を見た。
「先生は、いま党の代表です。……日本で、党首や大臣が産休を取った例は一つもありません」
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一つもない。
その言葉が、部屋に重く落ちた。
「海外には、あります」と、桐生さんは続けた。
「パキスタンのブット首相は、一九九〇年、在任中に子を産みました。ただ、産休は取らずすぐに職務へ戻ったそうです。ニュージーランドのアーダーン首相は、二〇一八年、在任中に出産し、六週間の産休を取りました。国のトップが、産休を取る。世界で初めてのことだったと言われています」
「だが、ここは日本だ」
低く、唸るように言ったのは権藤だった。
あの、与党に長く君臨し、いまは私の側にいる、老いた策士である。
「党首ってのはな、看板だ。旗だ。その旗が数か月下ろされる。……その間にも政治は止められない。それを考えておかにゃならん」
彼の言葉はいつものように身も蓋もない。
けれど、それは、私を止める言葉ではなかった。
どう守り抜くか、その算段を始めている口ぶりだった。
「世間もどう見るかですね」と、相馬さんが継いだ。
「『代表が務まらないなら、辞めればいい』。『子どもか、仕事か、どちらかにしろ』。……そう言う者は、必ず出ます。的にされる」
子どもか、仕事か。
その言い方に、私の胸の奥で小さな火がちりりと灯った。
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「――それ、おかしくないですか」
気づけば、私はそう口にしていた。
皆が、私を見た。
「私はいま、毎日、少子化の資料を読んでいます」と、私は言った。「産みたいのに、産めない。仕事を失うのが怖くてあきらめる。そういう人がこの国には大勢いる。去年生まれた子どもは、初めて七十万人を割りました。六十八万人。……その一人ひとりの後ろには、あきらめた人がもっと大勢いるはずです」
私は、続けた。
「その少子化をなんとかしようと言う党の、その代表が。子を授かったら代表を辞める。……それでは、この国のすべての働く女の人に『大事な仕事があるなら、子どもはあきらめなさい』と言うのと同じです。私はそれだけは言いたくない」
「けど前例がないんです」と、相馬さんが、なお食い下がる。
「誰もやったことがない」
「なら」と、私は、彼を見た。
「私がなります。前例に」
しばらく、誰も口をきかなかった。
その沈黙を破ったのは、大河内先生だった。
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「絵里香さん」
先生の声は、いつになく、低かった。
「私はね、昔総理にいちばん近いと言われたことがあるの」
皆が先生を見た。
「でも、ならなかった。……あの頃、この国の政治のいちばん奥には、『家族は、こうあるべきだ』という一つの型があった。女はこう。母はこう。その型に私は頷けなかったの。頷いていれば道は、開けたのかもしれない。でも頷けなかった。だからあの椅子をあきらめた」
私は、息をのんだ。
先生が、なぜ初の女性総理の座を逃したのか。その本当の理由を私は、このとき初めて知った。
「あなたが、いまやろうとしていること」と、先生は、私を、まっすぐに見た。
「それは、私があきらめたことよ。子を持つことと旗を掲げることを、両方手放さない。……私にはできなかった。時代も許さなかった。でもあなたにはできるかもしれない。いいえ。あなたが、やらなければ。この先も、ずっと誰かが私と同じようにあきらめ続ける」
そして、先生ははっきりと言った。
「だから、あなたが休むあいだ、代表の代わりは私が務めます。この老いた身でよければ。……あなたの灯を、私に預けなさい」
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その一言が、合図になった。
「――なら党内とやつらは俺が抑える」
真っ先に、そう言ったのは権藤だった。
「皇国会議が、この隙に何か仕掛けてくれば、それはこの老いぼれの出番だ」
「政策論議は止めません」と桐生さんが続いた。
「少子化の法案も、下請けの一件も、先生が戻られたときそのまま進められるように、私が形を作っておきます。休んでいるあいだも、灯の頭脳は動き続けます」
「委員会と、国会の中は僕らが回します」と、沢井さんが胸を叩いた。
「若手をまとめます。三宅さんたちも、力を貸してくれる。数の上で代表がいない穴は、僕らが埋める。……一人ぶんの働きなら二人でやりますよ」
相馬さんがやれやれと息をつきながら、それでも身を乗り出した。
「的にされる分は、こちらで引き受けます。攻撃が来ると分かっているなら、火消しの段取りはいくらでも、立てられる。……先生。あなたは攻撃のことは、一切気にしなさんな。矢面は、選挙屋の仕事です」
最後に、立花が、私の手をもう一度握った。
「事務所と、あなたの身体のことは私が見ます。無理をしそうになったら私が止める。……あなたは、いちばん大事なことだけ、考えて。あとはみんなでなんとかするから」
私は、言葉が出なかった。
一人では、とても背負いきれない。
そう思って打ち明けた話だった。
それがいつのまにか、六人ぶんの肩に少しずつ分けて載せられていた。
誰も「あなたの問題だ」とは言わなかった。
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「一つ、決めておこう」と権藤が、締めるように言った。
「休むことを隠すな。こそこそやるな。堂々と公表しろ。『党首が産む。だから少し休む。当たり前のことだ』と。……隠せば、弱みになる。さらけ出せば旗になる」
それは、いつか桐生さんのことで学んだことと同じだった。
何も隠さない。それがいちばん強い。
「……ずいぶん、まっとうなことを言うのね」と、大河内先生が、権藤を横目で見た。
「ふん」権藤はそっぽを向いた。
「現実の話を、しとるだけだ」
そのいつもの応酬に、張り詰めていた部屋の空気が、ふっとゆるんだ。皆が声を上げて笑った。
思い出したのは、初めての選挙の朝だった。
まだ何者でもなかった私を、手弁当の仲間たちが囲んでくれた。あのとき、私たちは事務所で円陣を組んで街へ出た。あれから顔ぶれはずいぶん増え変わった。それでもこの肩を寄せ合う感じは、あの朝と何一つ変わっていなかった。
灯は、この六人の――いや、その後ろにいる大勢の手で支えられている旗だった。
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その夜家で私は曜一朗にその日のことを話した。
彼は、静かに聞いていた。
そして私が話し終えると、少し間を置いて言った。
「政治家としては正しいと思う。……でも、医者としては心配だよ」
彼の顔から笑みが消えていた。
「君の身体が、どういう道をたどってきたか。それは、僕がいちばん知っている。この妊娠は、前例が、ないんだ。政治の話じゃない。身体の話としても君は誰も歩いたことのない道を、行くことになる」
「怖い?」と、私は聞いた。
「怖いよ」彼は、正直に言った。「君を失いたくない。子どもも欲しいが、君に無事でいてほしい。……それだけだ」
私は、彼の手を握った。
「無理はしない。あなたの言うことは聞く。……でも逃げはしない。前例がないのは政治も身体も同じ。どちらも、私が初めての道を行くだけ。……それに」
私は少しだけ、笑ってみせた。
「私は一人じゃないの。今日それがよく分かった」
曜一朗は、しばらく私を見ていた。
それから、ふ、と肩の力を抜いて頷いた。
「……いい仲間を、持ったね」
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前例がない。
その言葉を、私はこの数日で、何度聞いただろう。
けれどと思う。
私という人間が、そもそも、前例のない道を歩いてきた。
かつて男だった私が、いまここにいること。
それ自体が、誰も歩いたことのない道だった。
一人である国は遠すぎる道だ。
けれど、いまは隣にも後ろにも人がいる。
私はそっと、まだ平らな腹に手を当てた。
灯は消えていない。二つとも私の中で静かに燃えている。




