綱渡り
復興が、経済が、少しずつ動き始めた頃。
私は、いよいよいちばん遠くいちばん手強い山と向き合わねばならなかった。
外交だ。
災害はこの国を世界という非情な舞台の上で丸裸に弱らせていた。
傷ついて弱った獣の周りには、必ずそれを獲物と見る者が集まってくる。
とりわけ海の向こうの大きな隣国――中国の動きが目立つようになっていた。
彼らは援助の手を差し伸べてきた。
破格の支援。復興のための投資。
けれどその手のひらの裏にはいつも鉤爪が隠れていた。
同盟国のアメリカから、日本を引き剥がすこと。
弱っている隙に少しずつ譲歩を引き出すこと。
海の上でもそれは始まっていた。
尖閣諸島。東シナ海の日本が実効支配する無人の島々。その周りに中国の公船が現れる頻度が目に見えて増えていた。傷ついて目の届かなくなったこの国の緩んだ守りをじわりじわりと押してくる。
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そしてもう一つ。
彼らには、格好の口実が転がり込んでいた。
私が世界に向けて放った、あの皇国会議についてのドキュメンタリー。
あれは海の向こうにも届いていた。
復古を掲げる勢力が、政権の中枢を占め、いままた歴史の教科書にまで、手を伸ばそうとしている――あの隣国に黙って見過ごされるはずがなかった。
中国はそれを大きく取り上げた。
「日本は、反省なき危険な国だ」。
その非難を外交の圧力に変えて突きつけてくる。
支援と直接関係がある、とは言わないが、時季外れに「靖国神社への参拝をやめるべきだ」と言ってきたり「南京大虐殺のことを書かない教科書を採用することは歴史認識を歪めるものだ」等という声明を外交部が出してくる。
……援助を梃に、弱った日本に色々なものを押し付けようとする姿勢は明白だった。
政府内は浮足立っている。
「いまは非常時だ。中国の支援も要る。ここで事を構えるのは得策ではない」という考えが出てきて、尖閣諸島への警戒を含めて色々な妥協案を政府は模索しだした。
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権藤は中国とも縁が深い。
私は権藤と話をして、彼らの腹の内を探ることにした。
「……慌てるな、絵里香」老いた策士は、鼻を鳴らした。
「あの国は、尖閣には本気ではない」
「本気ではない?」
「奴らの本命は、南沙だ」
南シナ海の島々。中国が埋め立て軍事拠点化を進めてきた海域だ。
「あの南の海こそ、奴らがいちばん力を注いでいる場所だ。尖閣はこちらの出方を試す様子見にすぎん。日本が弱ったから、ちょいと小突いてどこまで引くか見ておるだけだ。……ここで腰砕けに引けば、奴らは『こいつは押せば引く』と覚える。そうなって初めて、尖閣も本気の獲物に変わる」
つまり――弱っているからこそ、この一線だけは揺るがずに守り抜く。
それが、次のもっと大きな圧力を呼び込まない道だった。
そして私は久しぶりに柏木課長を訪ねた。
相変わらず、眠そうな顔でぬるい酒を舐めながらその人は言った。
「舐められず、脅しもせず、だ。九条……向こうは、歴史を棍棒にして振り回してくる。だが、お前が、その棍棒を、握り返して殴り合いを始めた瞬間に向こうの思う壺だ。……大事なのは、歴史の中身の言い争いをするこっちゃない。その棍棒をそもそも握らせないことだ」
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私は党首として、この事態に対してのインタビューを受けることになった。
「まず、震災と噴火に伴う災害について、中国の方々から様々なご支援を頂いたことに感謝いたします」
私は、静かに切り出した。
「他方で、中国政府からは私たちの歴史認識についてさまざまなお言葉をいただいていますが、その一つひとつに、私は今日反論するつもりはありません。……なぜなら」
私は、まっすぐレンズを見た。
「私たちの国の、歴史をどう記し、どう次の世代に伝えていくか。それは、私たち日本人が自分たちで、議論し悩み向き合っていく、私たちの内側の問題です。それはよその国の政府に決められることではありません」
そして、私は声をわずかに強めた。
「歴史は、外交の取引のテーブルに載せてよいコインではありません。援助については感謝いたしますが、歴史や主権に関して、いかなる要求にも応じるつもりはありません。」
「私は中国に対して敵意はありません。手を取り合いたい。支援には心から感謝しています。……けれど感謝と屈服は別のものです。困っているからといって自分の家の玄関の鍵を差し出すことはできません。傷ついても、日本は売り物ではありません」
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その毅然とした姿は、思いがけないところに波紋を広げた。
私をあれほど「反日だ」「売国奴だ」と、罵っていた皇国会議のあの人たち。
彼らの口がこの一件でぴたりと止まったのだ。
彼らがいちばん望んでいたはずのこと――外国の圧力に屈せずこの国の島と主権を毅然と守る――それを、よりによって彼らがいちばん憎んでいたこの私が、誰よりもはっきりとやってのけたのだから。
私は、彼らの掲げる旗には賛成できない。
けれどこの国を愛するその一点だけは、たぶん彼らと同じなのだろう。
ただその愛し方が違うだけで。
……私を値踏みしていた人々が、初めて私の政治家としてのその背骨を認めざるを得なくなっていた。
むろんそれですべてが片付いたわけではない。
中国の公船は、あくる日もあの海に現れた。
歴史をめぐる、非難も消えはしない。
ただ、表立って圧力をかけてくることはなくなった。
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その夜、柏木課長からめずらしく電話があった。
「……よくやった」ぶっきらぼうな声だった。
「歴史の泥沼に引きずり込まれずに。強いから舐められないんじゃない。筋を通すから舐められないんだ」
傷ついたこの国は、少しずつ立ち上がりつつある。
東京の灰も大分片付いて、インフラも復旧した。
まだ西日本と東京をつなぐ大動脈は復旧していないが、一歩ずつ、灯りを取り戻しつつある。




